ベルリン紀行(2)
ベルリンの壁に触れる
旧西ベルリンを囲う155km
青山貞一・池田こみち
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国際ダイオキシン会議がベルリンで開催され参加、発表などしたがベルリンといえば、「東西冷戦の最前線」、何はともあれベルリンの壁が見たい。その一心で、国際会議が始まる前に壁を見に行った。午前6時はまだ暗い動物公園駅を出発し、市内電車で今なおベルリンの壁が残るベルリン市街最東端のワルシャワ通り(Warschauer
Strasse)近くのイーストサイドギャラリーに行く。
ところで、ベルリン到着の翌日、学会参加で約1週間ベルリンに滞在することもあり、1週間市内電車、地下鉄、バスに乗りたい放題のパス買った(以下の写真参照)。そんなこともあり、早朝に起き学会が始まる前にあるいは学会セッションの終了後、この一週間パスを使って市内あちこちにでかけた。
24.3ユーロで一週間乗りたい放題のパス
この日もパスを使いU15の市内電車で動物公園駅からワルシャワ通り駅まで行った。途中下車駅を間違えたが午前7時に到着した。この時間ともなるとベルリンの空は結構明るい。
ベルリンの壁は、冷戦時代、1961年8月13日に建設が始まった。東西ベルリンを何と155kmにも渡り東ベルリンを取り囲んでいた。現地で聞いたところ、毎年約100名もの東側市民が壁をよじのぼり、あるいは乗り越えたところを監視塔の官憲に射殺されたらしい。
現存する壁は、約1.3kmに過ぎない。その最南端が以下の写真にあるイーストギャラリーだ。
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| ベルリンの壁の前の池田こみちさん |
写真真ん中にあるコンクリートが壁 |
ところで1989年の11月9日、西ベルリンを取り囲んでいたベルリンの壁が崩壊した。この様子は世界中にテレビ等で放映された。私たちの記憶にそのときの様子は鮮明に残っている。
その後、全長155kmにも及ぶベルリンの壁は次々に市民らにより壊された。現在大規模に残っているのは写真にあるイーストギャラリーの約1.3kmだけである。
以下の地図はベルリンの壁の全容である。右の地図の赤い線がベルリンの壁である。イーストサイドギャラリーは、下右地図中のオレンジ部分である。
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| 出典:Berlin Wall Online |
イーストギャラリーには、共産主義を揶揄するさまざまな絵画や前衛画家によるペイント、アーティストなどによる絵画が多数描かれており、それを見るだけでも数時間はかかる。絵は世界各国約20名のアーチストらによって描かれている。
たとえば、以下のブレジネフ旧ソ連共産党書記長とホーネッカー旧東独国歌評議会議長が熱くキッスする絵画は、とりわけ有名だ。
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| 有名なブレジネフとホーネッカーのキッスする絵画 |
壁の歴史を振り返れば、第二次世界大戦後、敗戦国となったドイツは東西に分割されることになる。ベルリンは東ドイツのなかにポツンと存在することになり、西ベルリンと東ベルリンが155kmもの壁で分けられた。というより東独のなかにあるベルリンのうち、西ベルリンが壁で囲われていたと言うのが正解である。そして西ベルリンは米英仏が、東ベルリンは旧ソ連が統治する。
旧ソ連統治下の東ドイツは1961年の8月31日、東西ベルリンの境界線を封鎖した。その後、壁は次第に強固、強化され、行き来は厳重に監視されるyおうになる。すでに述べたように、西ベルリンに越境しようとして殺された東ドイツ市民は数知れない。
自由を求める人々の圧力で東西ドイツを隔ててきたベルリンの壁はほころび崩壊する。こうして1989年11月9日にベルリンの壁は崩壊し、行き来が実質承認されることになる。これが世に言う冷戦構造の崩壊の象徴ととして全世界に広がり、他の東欧諸国の自由化に発展することになる。
下右の写真はブランデンブルグ門を通過するベルリンの壁を描いた有名な壁画である
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ブランデンブルグ門周辺の壁を描いたもの |
学会のセッション終了後、夕方に再度ベルリンの壁に来てとった写真を以下に示す。壁の高さは3mちょっとか。かつて冷戦構造の象徴的存在であったベルリンの壁も、今では人通りもほとんどなくこの地にひっそりとたつばかりである。
しかし、東西ドイツ統合後のドイツは、自由を謳歌するだけですまなくなった。現在、旧東ドイツ側の失業率は18%を超え、旧西側の2倍以上、給与水準も東側は相当低く、大学を卒業しても就職できないひとが多くなっている。東京新聞2004年9月20日朝刊は、「失業対策に高まる旧東独地域の怒り」として、二級市民扱いに旧東独市民が反乱をしつつある様を特集している。
上記については別途コラムを書く予定である。
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| DB東駅近くの壁 |
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| イーストサイドギャラリー近くでの壁の遠景 |
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