エントランスへはここをクリック   

再短訪 鎌倉
日蓮の足跡をたどる鎌倉の旅
安国論寺2
日朗上人荼毘所


青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
January 21, 2022
Independent Media E-wave Tokyo


安国論時の日朗上人荼毘所
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900   短訪 鎌倉 2022-1-21

日蓮の足跡をたどる鎌倉の旅 2022-1-21
はじめに   安国論寺1   安国論寺2   安国論寺 南面窟 
妙法寺1   妙法寺2  妙本寺1   妙本寺2   妙本寺3
比企一族供養塔  蛇苦止堂   本覚寺   えびす堂 
日蓮辻説法跡   光則寺  日朗土牢  雨乞伝説・霊光寺

 訪問日は、偶然、数か月前にハワイから赴任した安国論寺の新住職がおられ、日朗上人荼毘所の前で、幸運にも、日蓮聖人や日朗上人についていろいろとお話しすることが出来た。

 そもそも、日朗上人荼毘所も一年に一度しかひらかれないとのことで、訪問日は偶然だが、その日にあたっていた。


安国論寺  短訪 鎌倉 2022-1-21
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900   

  
池田lp、おとが安国論寺のFBにアクセスして、訪問時のお礼をメッセッージでご住職に伝えたところ、ご丁寧にお返事を頂戴した。(添付)
  

  ※注) 安国論寺のFBを発見
       https://www.facebook.com/ankokuronji/

  正岡子規の歌碑(写真添付)
   2011年12月に建てられた正岡子規の歌碑があった。歌は、
   「鎌倉の松葉が谷の道の辺に法を説きたる日蓮大菩薩」
   とある。子規は、1888年と1893年に鎌倉を訪れ、安国論寺
   へも足を運んだそうだ。

  
  撮影:池田こみち Nikn Coolpix S9900  2022-1-21 


 以下は日朗上人荼毘所

 日蓮聖人の弟子、日朗を荼毘に付した場所。日郎は熊王と同じ日蓮の高弟で、生涯にわたって日蓮に仕え続けた。日蓮が佐渡に流罪になった際には土牢に幽閉され、許されてからは何度も佐渡に出向いて日蓮と面会したと伝えられている。日蓮が佐渡から鎌倉に帰ってきたとき、出迎えたのもこの日朗でした。

 1320年に日朗は亡くなるが、その際に髪を下した安国論寺で荼毘に付してほしいと遺言を残す。その遺言は弟子たちによりかなえられた。現在、荼毘所には小さなお堂が建っている。



安国論寺 日朗上人荼毘所  短訪 鎌倉 2022-1-21
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900   


安国論寺 日朗上人荼毘所  短訪 鎌倉 2022-1-21
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  


◆安国論寺詳細

 安国論寺(あんこくろんじ)は、神奈川県鎌倉市大町(名越)にある日蓮宗の寺院。山号は妙法華經山。旧本山は比企谷妙本寺。池上・土富店法縁。

 長勝寺・妙法寺と並び、日蓮が鎌倉で布教するに際して拠点とした松葉ヶ谷草庵の跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。開山は日蓮とするが、弟子の日朗が文応元年(1260年)に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりである。

 その他、南面窟(松葉ヶ谷法難時に、白猿に導かれて避難した場所)や日朗上人荼毘所(日朗が出家剃髪した場所で荼毘に伏して欲しいとの遺言による)がある。裏山の富士見台からは由比ガ浜海岸を含む市内を一望でき、日蓮が富士山に向け題目を唱えたとされる。

 なお東芝社長や経団連会長を務め、熱心な法華信者であった土光敏夫の菩提寺(墓所)でもある[1]。

第51世玉川日薩師は、霊跡本山比企谷妙本寺第81世に晋山。

境内には、鎌倉市天然記念物に指定されている

妙法桜(日蓮の杖が根付いたとされる市原虎の尾という品種のヤマザクラ)
海棠(カイドウ)
山茶花(サザンカ) - 樹齢350年と言われる。
があり見所となっている。

寺宝
木造日蓮上人坐像(立正安国論を執筆している姿の像)
鬼子母神
十羅刹女立像
七面大明神立像
大黒天立像
木造日朗上人坐像
文学
赤羽尭著「古都鎌倉殺人事件」(トクマノベルス)の舞台になっている。


安国論寺 石仏と池田こみち 短訪 鎌倉 2022-1-21
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  



安国論寺 宝塔と池田こみち 短訪 鎌倉 2022-1-21
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900   

安國論寺の概要

 日蓮宗寺院の安國論寺は、妙法華経山と号します。安國論寺は、布教のために建長5年(1253)安房から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に小庵(松葉ヶ谷御小庵)を結び、他宗僧に小庵を焼き討ちされた地とされ、建長5年(1253)を創建とします。日蓮聖人は御岩屋で立正安国論を執筆したことから、安国寺、安国論窟寺とも称され、現在は安国論寺と号しています。

安國論寺

安國論寺の概要

山号 妙法華経山
院号 -
寺号 安國論寺
本尊 -
住所 鎌倉市大町4-4-18
宗派 日蓮宗
縁日 -
葬儀・墓地 -
備考 -

 安國論寺山門安國論寺山門安國論寺本堂安國論寺本堂安國論寺平和の鐘安國論寺平和の鐘安國論寺日朗上人御荼毘所安國論寺日朗上人御荼毘所安國論寺御小庵安國論寺御小庵安國論寺熊王殿安國論寺熊王殿安國論寺南面窟安國論寺南面窟

安國論寺の縁起

安國論寺は、布教のために建長5年(1253)安房から鎌倉に入った日蓮聖人が、最初に小庵(松葉ヶ谷御小庵)を結び、他宗僧に小庵を焼き討ちされた地とされ、建長5年(1253)を創建とします。日蓮聖人は御岩屋で立正安国論を執筆したことから、安国寺、安国論窟寺とも称され、現在は安国論寺と号しています。

鎌倉市掲示による安國論寺の縁起

当山は日蓮聖人松葉ヶ谷御小庵の霊跡です。御小庵の元となった岩窟(「御法窟」または「日蓮岩屋」という)が本堂の向かいにあります。この御法窟で日本国の安泰と人々の幸せを願って文応元年(一二六〇)七月十六日、前執権北條時頼に建白した『立正安国論』が執筆されました。

翌八月二十七日に立正安国論に反感をもつ人々に庵が襲われました。これは『松葉ヶ谷の法難』といわれています。本堂の裏山に一時避難した『南面窟』があります。
境内は四季折々の花や紅葉で彩られています。なかでも御小庵の傍の山桜は、日蓮聖人の桜の杖が根づいたといわれ、「妙法桜」と呼ばれています。サザンカやカイドウと共に鎌倉市の天然記念物に指定されています。(鎌倉市掲示より)

安國論寺栞による安國論寺の縁起

このお寺は、山号を妙法華経山、寺号を安国論寺といいます。昔は御岩屋にちなんで安国論窟寺ともいいました。境内一円は松葉ヶ谷ですので、一般に、松葉ヶ谷霊跡、安国論寺といいます。日蓮聖人は、建長五年(一二五三)四月二十八日、今の千葉県清澄山上で立教開宗をなされましたが、時の政治の中心である鎌倉は、名越松葉ヶ谷の岩屋に庵を結ばれ、御布教なされました。それが、現在本堂の向かい側にある御小庵と、その奥に連なる御法窟(御岩屋)です。三十二歳から四十歳代の凡そ二十年間に亙って、当地に滞在し釈尊に代って衆生を救うために、法華経とお題目とその宗教的信念を宣教されました。
文応元年(一二六〇)三十九歳のお歳には、この御岩屋でかの有名な”立正安国論”を書かれ同年七月十六日、前執権北條時頼に建白されました。そのために、翌月八月二十七日に大難は四度、小難は数々と言われた諸法難にあっております。今も裏山に一時避難された南面窟が残っております。(安國論寺栞より)
新編相模国風土記稿による安國論寺の縁起

大町村)安國寺
松葉谷にあり、妙法山と號す(前寺末:妙本寺末)、寺傳に據るに建長五年日蓮房州小湊より當所に移住し僅に小菴を營み、茲に肇て法華經の首題を唱し舊蹟なりと云ふ(今北の山中に舊蹟あり、又妙法・長勝二寺にも菴蹟の傳あり、何れか詳ならず、此に合考すべし)又門内右方に巖窟あり、茲に籠て安國論を編述せしと云へり、弘長元年豆州伊東に謫せられ、同三年赦免ありて再爰に還住しけるが、文永八年又囚れとなりて當所を去る

(【註畫讃】曰、建長五年爲諫國主、速自房州移于鎌倉名越松葉谷、栖小菴破諸宗謗法、立三大秘法、毎日入名越山中、高聲唱妙法首題云々、重而到駿州入大蔵、勘諸經論、指掌知之、記立正安國論一巻、正喜元年始之、文應元年庚申勘畢三十九歳、同年七月十六日、屬鎌倉奉行宿谷左衛門入道、呈于副元帥平時賴云々、其後經數日、諸宗數百人、寄来草庵、欲爲夜討、元祖破多勢中、遁其夜害、始於弟子能登公並檀那進士太郎、被庇者多云々、弘長元年五月十二日四十歳、謫于豆州伊東浦、三年五月二十二日、赦免状来、歸倉後彌破諸宗、倍値大難、文永八年辛未九月十二日、爲副元帥平時宗之使者、賴綱以下數百人武士等、来名越小菴搦取聖人云々)
後宗門開闢の舊蹤たる故をもて同十一年起立して一寺となせしとなり、門に安國論法窟の四字を扁す

(佐文山書、【鎌倉志】には、門の額、安國論窟大永元年已歳十月十三日、幽賢書とありと載す、さては貞享の初迄は、大永の古額を掲しを、元禄中に、今の額に改しならん、)
本尊は釋迦を安置ぜり、
【寺寶】立証安國論一巻(紺紙金泥日朗筆、)、安國論縁起一巻、同縁起の圖一幅
祖師堂。御影像と唱ふ、宗祖の像(日朗作)並に大黒七面(共に日蓮の開眼と云ふ)及び日朗(自作)進士太郎等の像を置く、(寺傳新地太郎に作るは非なり、【註畫讃】に檀那進士太郎と見えたる是なり、是は熊王の作と傳ふ、是も【註畫讃】に四條三郎左衛門尉賴許許、遺童子熊王令告知云々とある是なり、)
元和年中水戸賴房卿の臣小野角右衛門言員再興し、其後尾州家再造ありて宗祖の像をも寄納ありしと云ふ、
鬼子母神堂。宗祖開眼の像と云ふ、
稲荷社。巖窟中にあり、神體は熊王作と傳ふ、故に熊王稲荷と唱ふ、
日蓮塔。同所にあり、五輪塔なり、(新編相模国風土記稿より)


安国論寺 南面窟につづく