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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

宙吊りで12分30秒も格闘していた
南京大虐殺主犯、松井石根の
絞首刑現場の古写真:
南京大屠杀主犯松井石根绞刑现场
老照片:被吊在半空挣扎

来源: 伍阿哥的趣生活 举报 2021年11月27日

中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月8日
 

写真は、南京陥落後の日本軍入城式での松井石根。

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本文

 1937年12月13日、侵略してきた日本軍は南京を占領し、6週間にわたって街中で大規模な焼き討ち、殺戮、略奪を行った。 6週間の間に、30万人以上の中国の民間人や捕虜になった兵士が、銃で撃たれたり、焼かれたり、生き埋めにされたり、その他の方法で殺された。

 この悲劇の加害者の一人が松井石根(いわね)である。冒頭の写真は、南京陥落後の日本軍入城式での松井石根である。

 対日戦勝利後の1945年9月19日、日本の連合国軍司令部は松井石根を戦犯として逮捕・収監することを命じ、2年以上に及ぶ裁判が始まった。

 南京大虐殺の真実を解明するために、極東国際軍事裁判では、そのための別働隊を設置し、法廷調査を行った。 当時、法廷から任命された中国の検事補、邱少衡とアメリカの検事、トーマス・モローが「南京大虐殺特別調査団」を結成した。

 南京陥落時に日本人が犯した犯罪を調査するため、特別チームが南京に急行し、1937年に松井石根の清算が開始されることになった。

 下の写真は、松井石舟が法廷に引き出されたときのものである。



  日本軍の南京最高司令官であった松井石根は、南京大虐殺のことをすべて知っていて、「昼前の10時に出発して、義江門と下関の周辺を視察した」と日記に書いている。

  辺りはまだ死体で覆われていた。.....「彼はそれに対して効果的なことは何もしなかった。 しかし、彼はこれを止めるために何もせず、むしろ南京での部下の獣姦を容認していた。」

 以下の写真は法廷での日本のA級戦犯の姿である。 生涯をかけて中国の情報を収集し、板垣退助や藤原健二など、多くの中国侵略者を育てた。



 九月一八日の事件を皮切りに、松井は侵略計画を開始し、単独で悲惨な南京大虐殺を引き起こしたのである。 取り調べの際、松井は「自分は病気で部下の残虐行為を止めることができなかった」と詭弁を弄したが、これは日記と矛盾しており、松井が虐殺を知っていたことを示している。

 以下に写っているのは松井石根である。





 法廷は、証人のジョン・マギーが南京大虐殺の際に撮影した写真や映像を提供したことに衝撃を受けた。



 中国の検事補である高文斌は、「国際軍事裁判で日本の犯罪が明らかになったとき、多くの日本人は半信半疑で審理に臨みました」と振り返る。 日本軍が南京で行った犯罪を見聞きしたとき、彼らは皆、頭を下げて中国人を直視することを避けた。

 彼らは、以前は日本軍がいかに規律正しいと思っていたかを恥じたからだ。 法廷での松井石動は、時に左右を見渡し、時に頭を下げるなど、緊張した面持ちであった。

  写真は取調べを受ける松井。 ある日本人ジャーナリストは、その日のレポートで「悲劇的(tragic)」という言葉を3回続けて使っていた。 極東国際軍事裁判で中国代表の裁判官を務めた梅瑞は、虐殺を目撃した中国人や外国人の証人の口頭証言を聞き、検察官や弁護人と対峙するなど、約3週間かかったと振り返る。

 最終的には55の訴因で有罪となり、絞首刑の判決が下された。 松井石根は、絞首刑の宣告を聞いたとき、青ざめて震え、倒れそうになりながら頭を下げた。 そして官憲は、松井石根を鶏のように引きずり出した。

 1948年12月23日未明、松井石根を乗せた護送車が巣鴨務所から出てきた。 処刑前、松井石根は教官の花山信勝に「私一人がこのような結果になったとしても、当時の軍人の中で一人でも多くの人に深い反省をさせることができればとても幸せなことだと思うので、なかなかできないので、このまま逝ってしまおうと思う」と言っていた。

 そして、松井石根は絞首台に乗せられた。



 写真は、黒い布を頭に被った松井石根と、数人の絞首刑執行人がロープの留め金を結んでいるところ。





特記事項:上記コンテンツ(写真や動画がある場合はそれも含む)は、情報蓄積サービスのみを提供しているセルフパブリッシング・プラットフォーム「NetEase」のユーザーがアップロード・公開したものです。


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