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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

南京大虐殺の証人
25万人の中国人を救うために
命を捧げた恩人

ジョン・ラーベ
(John Rabe)
约翰·拉贝:南京大屠杀中以一己之力救下25万人,中国人的大恩人
来源:打不垮的刘小白/百度


中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年11月8日
 

ジョン・ラーベ 出典:百度百科

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本文

 ジョン・ラーベ(John Rabe)は 25万人の中国人を救うために命を捧げ、老後は中国から年金をもらうほど困窮した。

 2020年の伝染病発生に伴い、在ドイツ中国大使館に特別な支援要請があり、すぐに大量の防疫物資が支援要請者の男性に送られました。 臨床データも彼に渡された。 後日、駐ドイツ中国大使のウー・ウェイ氏が、そのほろ苦い話をしてくれた。 助けを求めてきたのは、トーマス・ラーベだった。

 その後、中国全土に感謝の念を抱かせるドイツ人が目の前に現れた。

Ⅰ:ジョン・ラーベ


ジョンラーべの銅像

 トーマス・ラーベはジョン・ラーベの子孫である。 そして、ジョン・ラーベは中国人、特に南京の人々にとって、驚くべき意味を持っている。

 そして、彼の中国との物語は1908年に始まる。 ジョン・ラーベは、1882年にドイツのハンブルグで、海のキャプテンのもとに生まれた。 中学校を卒業した後、ラーブは社会人生活を始めた。

 1908年には中国に派遣され、30年間滞在した。 ラーベも「私は中国が大好きで、青春時代を過ごした場所だから」と言っていた。 その後、中国の南京にあるドイツ・ナチス党常設支部の副支部長として、レーベは生涯そこで暮らした。

 ナチス党は、20世紀前半のドイツの政党で、ナチス党を表す言葉として最もよく使われるのは、残虐性と残虐行為である。 ナチスを「悪魔」と連想する人は多い。

 1937年、様々な出来事を目の当たりにしたラーベは、後に「ラーベの日記」と題する日記を書き始めた。

 この本は367ページあり、悲痛な言葉が並ぶページもある。 これは南京大虐殺の出来事に関する最も膨大で保存状態の良い歴史的資料である。 ラーベがいなければ、犠牲者の数は30万人を超えていただろう。

 1937年、日本は上海に侵攻し、南京にまで押し寄せた。 当時、北京で奥さんと一緒に仕事をしていたラーベは、奥さんを残してすぐに南京へ向かった。 中国のように、すでに多くの外国人が命からがら逃げ出している状況の中で、ラーベは残ることを選んだ。

 南京に長く滞在していたラーベは、南京をよく知っていて、防空壕や隠れる場所もなかった。 貧しい難民が100万人強いた。 瞬時に血に染まった南京の上空を飛行機が飛んだ。 そこでラーべは、軍隊が到着する前に、南京の貧しい人々を大勢送り込んで、空襲のたびに中庭に隠れてナチスの旗を掲げさせた。

 これで当時、多くの中国人が救われたが、焼け石に水だった。 もし、日本軍が到着していたら、南京はもっと残酷な場所になっていただろう。 そこでラーベは、南京に残っていた20人ほどの外国人を組織し、日本軍が到着する前に無辜の民のための安全地帯(南京安全区)を作ることにした。

 20万人の難民を想定した安全地帯の一角に、25の難民シェルターを設置した。 その後、ラベは20人以上の外国人の友人たちと国際委員会を立ち上げ、ラベはその委員長に選ばれた。

 日本軍が南京に近づいてくると、それらの富裕層は使用人を捨てて命からがら逃げ出し、南京政府も避難してきた。 この時点で、南京は貧乏人を除いて何もない街になっていた。


II: 残酷な歴史


南京安全区国际委员会和国际红十字会南京委员会。中央の背の高い男性がジョンラーべである。出典:百度百科写真

 ドイツの駐中国大使がラーベに連絡してきて、「ラーベさん、南京は大惨事に直面しようとしています、安全のために家族と一緒に南京を離れてください」と言った。 私は国際委員会の一員として南京に残り、20万人以上の市民を守るために南京安全区を作る決意です」と述べた。 あなたの考えに再び感謝し、あなたの幸せを願っている。

 駐中国ドイツ大使を拒絶した後、ラーべは南京安全区での作業を始めた。 食料や薬などの必需品に加えて、日本に南京安全区の存在を認めてもらう必要があった。 それだけでなく、日本軍が南京安全区に危害を加えることも許されない。

 しかし、ラーベが日本のマスターに送った手紙には、いずれも返事がなかった。 ラーベはドイツに手紙を送るしかなかったが、当時のドイツと日本は協力関係にあり、ヒトラーはこの件で日独間に亀裂を入れたくなかった。 そこで、ヒトラーは中立の立場をとり、返事をしなかった。

 しかし、日本としては、すでにドイツに手紙を送ってしまった以上、黙って見過ごすわけにはいかない。 そこで、ラーベに安保を拒否する返事を出したのだが、その手紙の最後には、「ラーベさん、もし安保が成立するなら、日本政府は日本軍が関与しない限り、安保を最大限尊重します」という一文があった。

 ラーベはそれだけで希望が持てたし、日本が同意したことを当然のこととして受け止めていた。 そうして、徐々に南京安全区を構築していった。 南京では、銃撃戦の中、ラーベは命がけで物資を探した。 紆余曲折を経てようやく見つけ出し、南京安全区に逃げ込んでいた民間人を飢えから救うことができた。

 1937年12月14日、ベーラたちは車で街を走り、日本軍の被害の大きさを実感した。街は赤く染まり、車が通る数百メートルごとに市民の遺体が押しつぶされていた。 車から降りて確認してみると、後ろから弾が入ってきていることがわかった。

 彼らは民間人をおもちゃのように扱い、逃がしては銃殺していた。 彼らの目から希望の光が消えていくのを見ながら、彼ら自身もその横で笑っていた。 彼らはこの大虐殺をゲームのように扱った。 「ラーベの日記」では毎日何百人もの中国の民間人が虐殺されていた。

 安全な場所に変装した中国兵もいて、重傷を負ったために仕方なくそこに留まっていた。 しかし、日本軍は「銃を持たない捕虜には何もしない」と言いながら、捕虜を南京安全区から連れ出して、冷酷に殺したのである。 警察でさえも免れなかった。 彼らは恐れていた。中国人が生んだ小さな火が、彼らを残酷に焼き殺すのに十分であったからだ。


III:バケツの中の一滴

 統計によると、ラーベの南京安全区は25万人以上の中国人を救ったという。 ラーベが所属していた会社は1938年に彼をドイツに強制帰国させたが、ドイツに戻ったラーベは日記を公開し、それを証明する文章や写真、手紙などが掲載されていた。

 当時、日本の残虐行為は国民にさらされていたが、ドイツと日本が協力関係にあったため、ラーベは逮捕された。 警察は彼に様々な圧力をかけたが、彼は「日本の残虐性を二度と広めない」と言った。 その時初めて、彼は解放された。 その後、ドイツは戦争に敗れ、数多くの国に潰されていった。

 ナチス党員だったラーベは、ソ連の工作員に逮捕された。 ラーベの場合、善は急げということで、ラーベが法や道徳に反することをしたことがソ連の工作員にばれず、すぐに釈放された。 ただ、出てきたときには、ラーベには何も残っておらず、仕事を失っただけでなく、健康状態も悪くなり、皮膚病にかかってしまった。 貧しい生活の中で、自分の食事もままならない状態だった。



 このことを知った中国は、ラーベに服や食料を寄付した。 この時、南京では1億元(※注 そのまま日本円に換算すると=17億円)の寄付があったと言われている。 当時の中国の町で1億元を用意するのがどれほど大変だったか、彼らは持っているすべてのものをラーベに注ぎ込んだ。

  それだけでなく、南京政府は「中国の扉はいつでもラーベに開かれている」と宣言し、「中国に戻ってくれば、中国が無料で医者を探してくれる」「それだけでなく、無料で住居と年金を提供してくれる」と言った。

 1950年、日本の犯罪を暴く重要な証拠を携えて中国を後にしたラーベの死去が決まった。 彼は、当時の南京がいかに大惨事を経験したかを、中国人に意識させ続けた。

 1997年、ベルリン政府は、ベルリン西郊にあるラーベ墓地の期限が切れたため、ラーベの墓を更地にしたいと考えた。 その後、家族はラーベの墓石を中国の南京に送り、現在は「南京大虐殺犠牲者記念館」に置かれている。


南京大虐殺犠牲者記念館にあるラーベの墓石

 その後、南京政府はベルリン政府に、ラーベの墓を永久保存のための名墓として登録するよう申請したが、これは拒否された。 その後、南京政府はラーベの墓の修復費用を負担し、40年間の家賃を支払った。

 中国人は常に滴る水の優しさに気を配り、時が経ってもその年月の痕跡は洗い流されてきましたが、決して流されることのないのは、ラーベさんの優しさに報いる中国人の心です。どんなに苦しい思いをしても、感謝の気持ちを忘れない。 自分が助けたことは絶対に忘れない。 これは、中国人が生まれたときから理解している真理である。

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