エントランスへはここをクリック       総合メニュー へ

日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

ジョン・マギー(John Magee)
南京陥落後、一人の外国人宣教師が
命をかけて撮影した唯一の動画が、
日本の犯罪の決定的な証拠となった。
南京沦陷后,一外国传教士冒死拍下
唯一动态影像,成日军罪行铁证

出典:戲言天下報告書/百度 2021-09-27

中国語・英語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年11月5日
 

写真右のジョン・マギー(John Magee)氏が南京で使用した16mm映画フィルムの携帯用撮影機(写真左)

総合メニューへ

本文

 1937年の「七夕事件」以降、日本は本格的な侵攻を開始し、同年8月から11月にかけて「松風の戦い」が勃発した。

 惜しむらくは、極東初の大都市である上海が、80万人以上の精鋭たちの頑強な抵抗にもかかわらず失われてしまったことだ。 上海が陥落すると、敵(大日本帝国軍、関東軍)の目標は上海に近い南京そして首都に移り、1937年12月には南京攻略戦が繰り広げられた。

 残念ながら諸般の事情により、南京も12月13日に陥落した。 無秩序な退却だったため、防衛隊員の多くは、主に街の人々と一緒に街に残り、凄惨な出来事を体験することになった。


ジョン・マギー

 40日以上にわたり、焼き討ちや略奪が南京のあちこちで行われ、少なくとも30万人がこの「南京事変」で亡くなった。

 侵略者の非人道性と対照的だったのは、南京に残った欧米人の優しさであり、彼らは命の危険を冒しながらも、人道的な方法で中国の難民や兵士を積極的に援助した。

 実は、よく知られているドイツ人のジョン・ラーベ以外にも、アメリカ人宣教師のジョン・マギーに代表されるように、中国に派遣された多くの宣教師が重要な救助隊の一員として活躍した。

 1912年にアメリカのエピスコパル教会から司祭として中国に派遣され、事件前は南京の大聖教会で宣教師として働いていた。戦争が近づいてきた1937年11月22日、一部の欧米人が「南京安全区国際委員会」を設立した。 ラーベが会長、マギーがメンバーの一人で、負傷した難民のために病院を設立した。

 悪魔の飛行機が南京を爆撃した時から、マギーは南京が陥落した日、爆弾で傷ついた兵士や上海から逃げてきた難民の救済に奔走した。

 マギーが会長を務める国際赤十字社の南京支部が設立され、難民や兵士への全面的な援助が始まり、20万人の救出に関わったという。 この間、命がけで、日本軍に耐えなければならなかったし、常に立ち会わなければならなかった。

  特に救急車を追いかけたのは、外国人がいなくなれば、悪魔にさらわれてしまうからだ。 一行が女性を無差別に虐待しているのを見たマギーは、アメリカ人の所有物であった道生館を明け渡し、中国人女性の避難所とした。

 それに加えて、日本の上層部や大使館に抗議の手紙を書き続け、その数は400通を超えていた。 アメリカ人の妻に宛てた手紙にも、ここで行われた残虐行為が頻繁に書かれていたが、これらは後に「証拠」(東京で開催された極東軍裁判)一部となった。

 しかし、マギーが残した最も強力な証拠は映像資料であり、その時、彼はカメラを手にしていた。 彼は、その立場を利用して、当時は絶対に禁止されていたカメラで残虐行為を静かに撮影することに成功した。

 彼はとにかくそれを実行し、撮影中は日本人に見られないように気をつけなければならないと、映画の紹介文に書いている。

 マギーの撮影によって、日本軍が戦車や大砲で南京の街を砲撃する様子や、罪のない市民に機関銃を向けている様子を見ることができる。 また、ガソリンで焼かれた死体や、民間人の死体があちこちにあり、後に生き残った人たちが彼の記録に登場している。

 彼が撮影したフィルムは4リール、計105分で、この実写映像は現在までに残っている唯一の「動く絵」である。 フィルムとカメラは発見されることなく、1941年にアメリカに持ち帰り、1953年に死去した。

 その際、「もし私がもう一度生きるとしたら、中国人に仕えたい、中国は私の故郷だ」という言葉を残している。

 それから数十年後の1991年8月、息子さんが自宅の地下室でフィルムとカメラのコピーを見つけ、2002年に侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館(南京市)に寄贈した。 これらの貴重な資料は現在、侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館で保管されており、マギーは亡くなったが、中国の人々の記憶には常にマギーは残っている。

 ※注)侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館
 中華人民共和国の博物館であり、追悼施設でもある。日本の
 マスメディアからは南京大虐殺紀念館とも呼ばれる。中国共産
 党により第1次愛国主義教育模範基地に指定されている。
 2014年から、ここは南京大虐殺犠牲者国家追悼の指定場所
 である。


 彼が中国人を救出した大聖教会は、現在、南京第二中等学校の図書館となっており、「ジョン・マギー図書館」と名付けられている。



ジョン・マギー(JOHN MAGEE)
 イェール大学図書館「ジョン・ギレスピー・マギー」。神学図書館
 トーマス・ラベ、ジョン・ラベ。Sein Leben, seine Zeit. ハイデルベルク 2009
 最終更新日 10/07/2019

 米国イェール大学神学部図書館スペシャルコレクション

 ジョン・ギレスピー・マギーは、1884年10月10日、ペンシルバニア州ピッツバーグに生まれた。1906年にエール大学で学士号を取得し、1911年にマサチューセッツ州ケンブリッジのエピスコパル神学大学院で博士号を取得。

 翌年にはエピスコパル教会の牧師に叙任され、中国に渡った。そこで後に妻となるフェイス・E・バックハウス(中国内陸伝道部の英国人宣教師)と出会った。

 1937年、マギーは難民病院の設立に携わり、国際赤十字委員会の委員長を務めた。また、南京安全区の国際委員会のメンバーでもある。1937年12月、マギーは日本軍の残虐行為を描いた映画を制作した。

 この映画は国外に持ち出され、アメリカの政府関係者に上映され、日本への制裁措置を期待されたが効果はなかった。1938年に帰国したマギーは、南京大虐殺についての講演ツアーを行った。南京の残虐性を語る際、ジョン・ラーベもマギーの映画を見せていた。

 マギーは1939年5月に中国に戻ったが、翌年には再び中国を離れた。1953年に亡くなった。


ジョン・マギーが撮影した南京大虐殺の写真(一部)


ジョン・マギーが撮影したフィルムの一部

 1937年12月のこと。南京安全区内の上海路で、元兵士の疑いで無作為に集められた息子や夫の命を、日本兵に跪いて懇願する中国人女性たち。何千人もの民間人がこのようにして連行され、縄で縛られて、下関の川岸や池のほとり、空き地などに運ばれ、機関銃や銃剣、小銃、さらには手榴弾で殺されたのである。(ジョン・マギー撮影のフィルム2)

 この写真は、ジョン・マギーが南京大虐殺の際に窓の後ろで撮影したものである。当時、南京安全区国際委員会の委員長を務めていたドイツ人商人のジョン・ラーベは、この写真を1枚だけ残し、凄惨な大虐殺の際に書かれた日記とともに保存していた。この写真は1998年に日記と一緒に出版された。


歴史の真実を伝える目撃者たち
 2014-03-24 08:15 ヤン・ヤン(中国日報)


南京のデシェン教会の米国聖公会の牧師、ジョン・マギー師。
[写真提供:チャイナ・デイリー]

 それから53年後、デビッド・マギー氏はニューヨークの自宅にシャオ・ジピン氏を迎えた。米国の中国宣教師であり、国際赤十字機構の南京委員会の委員長を務めたジョン・マギーの次男であるマギーに、シャオは何カ月もかけて連絡を取る方法を見つけたのだ。「ライフ」に掲載された写真は、長男のマギーが16ミリカメラで撮影した37分のフィルムのスチール写真だった。

 日本軍が路上での写真撮影を禁止していたため、マギーは虐殺の場面を撮影することはできなかったが、重傷を負った人々がいくつかの病院で治療を受ける様子を撮影していたのである。

 また、夏淑琴の家族の7人の死も撮影している。家族9人のうち生き残ったのは、当時8歳だった夏淑琴とその妹の2人だけだった。ラーベはこの事件を日記に記した。

 1998年、日本の右翼学者2人が夏氏の信憑性を疑った。彼女は2000年に、ラーべの日記とマギーの映画を証拠として、著者たちを名誉毀損で訴えた。2008年、日本の最高裁は夏さんを支持する判決を下し、夏さんは31万5千元(5万600ドル)以上の賠償金を受け取った。

 この無声映画は、マギーが南京事件の証人として東京戦犯法廷に出席していたこともあり、一場面ごとに説明が加えられて編集されており、裁判では特に効果的だった。

 中国と日本は数十年にわたり、南京大虐殺について議論してきた。実際に起こったのか、それともプロパガンダだったのか、死者数はどうだったのか、現地の国民党兵士が民間人に変装して日本兵を殺したのか、無力な人々の虐殺だったのか、などについてである。

 資料のアーカイブである「南京大虐殺関連史料集」は、現在72冊の本で構成されている。「もちろん、各国には関連するアーカイブがあるから、研究者が調査を続けて新しい事実を発見することは可能である。しかし、私たちが本当にしなければならないことは、世界に向けて大虐殺の事実を伝えることだ」とYang Shanyouは語る。

 南京師範大学南京大虐殺研究センターの研究員である張聯紅氏は、次のように述べている。「ラベとヴォートリンの日記が発見されて出版される前は、あまり資料がなく、それらの議論は一般的に学術的なものではなく、政治的なレベルのものであった。」

 「この証拠があれば、大虐殺の規模について意味のない幼稚な議論を続けるのではなく、今やるべきことは、何が起こったのか、なぜ起こったのかを考え、世界がそれについてどう考えているのかを知ることだ」 と述べている。


総合メニューへ