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日本と中国の歴史をひも解くシリーズ

南京大虐殺戦犯の処刑場面:
日本の醜聞が明白に、観衆の
拍手と苦痛の叫びが聞こえてくる

来源: 凌瑶读史 2021年10月23日
南京大屠杀战犯临刑现场:
日本人丑态毕露,群众鼓掌高呼痛快!


中国語翻訳:青山貞一(東京都市大学名誉教授)
独立系メディア E-wave Tokyo 2021年12月13日
 


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本文

 南京大虐殺について言えば、この屈辱的であるが避けられない歴史の一部は、すべての中国人にとって言及したくない過去である。 この歴史的な出来事に直面したとき、すべての中国人は悲しみに打ちひしがれる。

 1937年12月13日、日本軍は南京を占領した。 中国の首都が陥落したことで日本軍は興奮し、非人道的な侵略者は直ちに南京でその獣性を発揮した。 その後、南京の街は生き地獄と化した。

 当時の南京は、恐ろしい場所としか言いようがない。 日本軍が南京で行った残虐行為は、想像を絶するもので、人の心を切り裂くものであった。 この屈辱的な歴史は、多くの文学作品や映画作品に記録され、表現されてきたが、見るに耐えない。

 しかし、正義は遅れても決して欠けることはない。 南京大虐殺の罪を犯した戦犯たちは、戦争が終われば当然の報いを受ける。

大きな試練

 日本が正式に降伏した後、連合国は東京に極東軍事裁判を設置し、戦争で最も凶悪な犯罪を犯した日本の戦争犯罪者を裁いた。 8年間の苦闘の末、中国の人々にはついに決着の日が訪れた。



 極東軍事大使法廷の力学は、その発足時から注目されていた。 世界に対して数々の罪を犯した日本の戦争犯罪者、江村寧々、東条英機、戸次原賢治などは、すべてここで裁かれることになる。



 そして、極東軍事裁判が成立した直後、国民党政府は、南京大虐殺で命を落とした30万人の中国人を慰めるために、南京で罪を犯した戦争犯罪者を中国に引き渡し、中国国民の手で裁くことを申し出た。

 この要望にはすぐに応えてくれた。 その後、松井石根、谷口茂雄、野田毅などの戦犯が中国に送られ、過酷で公正な裁判を受けたのである。

 ※注)松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日
  - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終
  階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者[1]として、「日支提携」
  「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾
  後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京
  裁判)にて死刑判決(B級戦犯[2])を受け、処刑された。
Wikipedia




 裁判の責任者であった石梅雨は、日本軍が行った残虐行為の証拠を得るための数々の試みを組織し、その過程において公平な立場にあった。 戦犯たちが反論できず、頭を下げて罪を告白しなければならなかったのは、こうした確固たる証拠があったからである。

戦争犯罪者はどうなったのか

 松井石根が第六師団を指揮して南京の門を爆破したとき、歴史のある古都は日本軍の鉄のかかとに完全にさらされた。 国民党軍が抵抗を放棄して南京から撤退すると、南京の人々は日本軍の意のままに殺戮される子羊となった。

 中国の首都を占領したという達成感から、日本軍は首都占領が戦争の勝利を意味し、勝利の果実を享受する時が来たと考え、狂喜乱舞した。

 松井石根の許可と共謀のもと、日本軍は南京の市民を殺害し、南京を人間の煉獄と化した。 無数の兵士が丸腰の人々を虐殺することに喜びを感じ、殺し合いを始めた。

 日本の新兵の中には、勇気を持って戦場に適応するための練習として、ベテランに駆り立てられて「導入訓練」として民間人の首を刀で切り落とす者もいた。 新人が血を流す姿を見て嘔吐すれば、それは臆病者の証しとみなされ、笑われた。



 また、松井石根は日記をつける習慣があり、「将兵の間で略奪や強姦が行われているが、これは仕方のないことであり、義江門周辺には死体が散乱しているので、一生懸命掃除をしなければならない」と、南京の人々に降りかかる日々の災難を書き記していた。

 しかし、裁判では、松井石根は「南京攻略中に病気で蘇州に滞在していただけで、自ら指揮をとったわけではない」と否定した。 南京には5日しか滞在していないので、兵隊の行動を把握していなかった。

 しかし、裁判所が彼の日記を提示すると、彼の嘘は一瞬にしてバレてしまった。 12月13日から29日まで、松井重源は南京で起こったことをすべて把握し、詳細に記録していたことが、この日記から明らかになった。 彼自身がつけていた日記が起爆剤になった。



 確固たる証拠の前では、松井石根は罪を否定することができず、自白するしかなかった。 絞首刑の宣告を受けても、松井は抗議活動を続けていた。 しかし、法の正義を疑うことはできず、裁判所は彼が犯した罪を理由に彼の抗議を却下したのである。

 同時通訳者のヘッドフォンを外すときには、震える手で床にも目を落としていた。 法廷を出るときには、足が不自由で自力で歩くことができず、ガードマンの介助を受けて法廷を出た。

 絞首刑の日、松井石根の頭に目隠しをした瞬間、かつて無敵だった日本陸軍の大将は、立っていられないほどぐったりしてしまった。 吊るされた人の体が落ちる瞬間、首が自分の重力で引っ張られて、一瞬にして切断されてしまう。



 松井石根は絞首刑の際に首が折れなかったため、12分間絞首刑にされて苦悶の表情を浮かべた後、呼吸が止まったという。 おそらく、南京大虐殺で死んだ中国人の霊のおかげで、苦しい死を迎えることはなかったのだろう。

 たとえそうであっても、そのような死は、彼が犯した罪を償うには十分ではなかっただろう。

 また、南京大虐殺の主要な戦犯である谷寿夫も、裁判で罪を告白することを拒んだ。 日本の第6師団長である谷寿夫は、南京大虐殺の直接の加害者であった。 彼の指揮の下、日本軍は熱狂的な虐殺活動に乗り出した。

 ※注)谷 寿夫(たに ひさお、1882年(明治15年)
  12月23日 - 1947年(昭和22年)4月26日[1])は、
  日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
  陸士15期、陸大24期(優等)。師団参謀長、旅団長、
  師団長を歴任し、第6師団師団長として第二次上
  海事変、南京攻略戦に参加した。第二次世界大戦
  後、南京軍事法廷で、南京事件の責任者とされ死刑
  判決、銃殺刑に処せられた。
Wikipedia

 しかし、裁判所が彼を起訴すると、谷寿夫は罪を認めず、南京での民間人虐殺を完全に否定し、いわゆる南京大虐殺は全くの噂だと主張し、このようにして裁判を逃れようとした。



 谷寿夫を裁くために、石梅雨は証拠を集め、彼が南京で行った残虐行為の写真や、当時中国にいたアメリカ人ジャーナリストが命がけで撮影した映像記録を発見した。 このときばかりは、顧守福は抵抗をあきらめた。

 1947年3月11日、谷寿夫の最後の裁判がやってきた。 処刑の宣告を受けた谷寿夫は、看守からハサミを借りて爪と髪を切り、それを手紙にして家族に送った。 これは、彼が家族に残せる唯一のものだった。

 処刑当日、雨花台の処刑場には、処刑を見に来た1,000人近い南京市民が詰めかけていた。 谷寿夫は、できるだけ冷静で落ち着いた表情をしようとしていたが、無意識に震える手が内なる恐怖を表していた。



 周囲の群衆の叫び声の中、銃弾が後頭部を貫通し、2本の切歯とともに口から飛び出したのである。 処刑を見守っていた群衆からは拍手と歓声が上がり、30万人の死者の不公平感が処刑によって解消されたのである。

結論

 昔から言われていることだが、「報復の時でなければ、復讐の時だ」ということだ。 日本軍は、中国を自由に奴隷化できると考えて、侵略戦争で暴れていたにもかかわらず中華民族のたくましさは、日本の想像を超えていた。 苦しい代償を払いながらも、最終的には勝利を手にすることができた。



 戦後、これらの戦犯は正当に処罰されたが、彼らが中国に与えたダメージは取り返しのつかないものであり、彼らの死は当然の結果に過ぎなかったのである。