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再短訪 鎌倉
日蓮の足跡をたどる逗子の旅
法久山妙光寺

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
Feburary 18, 2022 Independent Media E-wave Tokyo


妙光寺 本堂
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2022-2-18

法性寺  山王権現祠  妙光寺   岩殿寺   昼食
杉本寺  浄妙寺     長勝寺   実相寺   光明寺

アクセス

 妙光寺(日蓮宗)   住所:逗子市久木6丁目1−6

 今回、私達は東京から第三京浜などを使って逗子市に入り、法性寺を視察後、車で妙光寺に到着した。この辺りは逗子市の谷戸にある。

 以下のグーグルマップでは法性寺、岩殿寺が左上(北西)に見える。電車+徒歩の場合は、以下のグーグルマップにあるように、妙光寺が逗子駅のほぼ真北にある。徒歩の場合は、駅→妙光寺→岩殿寺観音堂→法性寺の順に訪問すると時間的ロスが大幅に減る。

 横須賀線(JR東日本)逗子駅から徒歩約17分。横須賀・総武快速線のほか、湘南新宿ライン(宇都宮・横須賀系統)も発着する。


出典:グーグルマップ


 以下は妙光寺の山門。


妙光寺 山門
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2022-2-18



妙光寺 山門の扁額(法久山)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2022-2-18


妙光寺 参道
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-2-18


妙光寺の歴史 出典:妙光寺公式Web

土中出現の日蓮上人像  久木妙光寺縁起内田武雄

 足利将軍は四代が義持、五代義量のあと六代目を誰にするかでひともんちゃくあった。今度こそ声が掛かるのではないかと心待ちにしていた鎌倉公方足利持氏は、一言も相談がなかったので、京都の幕府に対して反旗を翻すことになった。

 十年にわたる長い間、将軍義教と鎌倉公方持氏の間に、永享の乱と呼ばれる戦いが続いた。持氏の家臣の冨永三朗左衛門は、長い戦乱に嫌気が差して、農夫の暮らしをすることになったた。

 寛正(1460~1465)という年のある日、美濃の生まれである賢信と名乗る一人の旅僧が富長の家を訪れ、富長の家を宿として、近在を托鉢をして歩いた。

 賢信が読経三昧に耽っていたある夜のこと、岩窟の外に読経の声を聞き、また同じ頃、富長の夢枕に日蓮様がお立ちになり、戦乱の折、我が像が土中に埋められているから掘り出して祀ってもらいたいと、お告げになったという。

 富長と賢信は読経の聞こえたあたりを掘り起こしてみた。すると日蓮様の小さなお像が出てきました。

 文正元年(1466)、二人は近くに小さな庵を建て、賢信が庵主となってこのお像を祀った。

 二年程たって応仁二年(1468)に富長が病死、あとを追うように妻も亦亡くなりました。長男の大炒助も夭折したため、次男の雅樂助が両親の菩提を弔って一寺を建立、庵に祀ってあった土中出現の尊像を寺の本尊として祀ることにした。

 寺は父の法名(戒名)「法久」と母の法名「妙光」をとって、「法久山 妙光寺」と名づけた。文明三年(1471)のことだった。


 現在、妙光寺に伝わっている土中出現祖師像はこの時のお像であるという事である。

 像の高さ十六・七センチメートル、寄木造り、玉眼入りで、全体に厚い彩色が施され、右手に笏、左手に経巻を持っている。

 両袖を左右にひろげて座った像で、造立時期は、十五世紀の中頃であろうということである。久木 松岡富士男(現 富春 氏)家は、富長の後裔であると伝えられている。


新編相模国風土記稿による妙光寺の縁起 
 出典:猫の足跡

(久野谷村) 妙光寺

 法久山と號す、日蓮宗(京本圀寺末)開山日圓(文明四年正月朔日卒、)文明三年松岡雅楽助其二親の冥福を修し、當寺を建、圓を延て開山とす、寺山號は則二親の法名にとてり(父三郎左衛門尉富永法名法久、應仁二年六月廿七日死、母妙光は文明元年八月廿八日死、)本尊三寶祖師(祖師は土中出現の像なり、)また日蓮の眞骨を寺寶とす、
△番神堂。相傳ふ濃州の沙門賢信當時、富永の宅に逗留せしに讀經の聲聞へしかば其聲を跡して爰に到り、地を穿見るに岩堀あり、中に日蓮の像を得、依て一宇を結て安置す、實に文政元年なり、其後文明三年至て當寺建立ありしかば則其像を移して本尊とす、よりて此堂に番神を安置せしと云故に此堂を本の坊と稱す・

(堂前本坊の額を掲ぐ、本國寺日解筆、)
△七面堂
△鐘樓。正保三年鑄造の鐘を掛、
△子院。善行坊。本成坊(並慶長十八年造立)
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舊家六郎兵衛
里正なり、先祖富永三郎左衛門永享中鎌倉持氏に仕へ、松ヶ岡に居住す、後故有て當所に蟄居し松岡を家號とし富永を實名とす、應仁二年死す、其子大炊助早世し次子雅楽助(村内妙光寺を開基す)跡を襲ぎ、里正となりしより世々其職に居り、今の六郎兵衛に至ると云ふ、 (新編相模国風土記稿より)


妙光寺 扁額
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-2-18



妙光寺 本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-2-18



妙光寺 鐘楼
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2022-2-18



妙光寺 宗祖日蓮大菩薩石碑
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2022-2-18


岩殿寺へつづく