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映画『ダーウィンの悪夢』
について考える(1)


阿部 賢一

2007年3月17日


1.フリー・ジャーナリスト綿井健陽氏のサイト

 筆者は2005年2月からの第48回ピースボート世界一周航海に参加した。

 その折、水先案内人として二週間ほど乗り込んできたフリー・ジャーナリストの綿井健陽氏のトークと彼の第1回監督作品であるドキュメンタリー映画『Little Birds----イラク 戦火の家族達』を観た。


 筆者は仕事の関係でイラクに十数年間にわたり、出張したり、イラン・イラク戦争中には三年間(1984-1987)もの間、バグダッドに駐在した体験もあるので、このドキュメンタリーを身近に感じることができた。

 イラン・イラク戦争中に駐在した三年間、バグダッドには毎月イランのミサイルが数発から十数発打ち込まれ被害が出た。宿舎から数百米地点にミサイルが着弾し轟音に飛び起きたこともある。

 最前線のバスラにも毎月一回のペースで税関に出張していた。国道越しにイラン側に砲撃を加える砲兵隊を横に見ながら国道1号線を南下・通過した経験もある。シャット・アル・アラブ(チグリス・ユーフラティス両河の合流部分)のイラク側には数百米間隔で戦車が放列を敷き、イラン側に向けていた。その戦車の兵隊達と会話を交わしたこともある。

 国道では、戦死者の棺に国旗を巻いて屋根に載せてすれ違うタクシーを見かけることも多かった。戦争は現地の住民を巻き込んだ身近なものだった。

 しかし、その後の湾岸戦争、イラク戦争におけるイラクへの米国軍の攻撃とその後の治安の乱れは悲惨な状況はそれを上回り、なおかつを未だに続いており、その終息が見えない。

 綿井氏のドキュメンタリー『Little Birds----イラク 戦火の家族達』は200年3月に、現地で撮影に入った作品である。米軍の爆撃を受けて被害を受けているバグダッドの人々をカメラは追う。

 米軍の非人道兵器「クラスター爆弾」で右目を負傷し満足な治療も受けられないでいる笑顔の美しい12歳の少女・ハディール、右手を失った15歳の少年・アフマド、爆撃で負傷し病院に担ぎ込まれる者、そして死んでいく者を追うシーン、爆撃で息子を失った父親が墓場で慟哭するシーンなどをつなげて戦争の悲惨さを訴える素晴らしいドキュメンタリーである。

 このドキュメンタリー映画は、日本国内では、2005年に公開された。ブッシュのイラク戦争に反対が高まる米国で、今年、2007年1月から2月にかけてニューヨークの国連チャーチセンターを始め、サンフランシスコ、シカゴ、オースティン(テキサス)の4大都市、8箇所で上映された。そして、そのすべてに綿井氏自身が立会い、観客とのQ&Aセッションを行った。その報告は彼のブログ*の1月〜2月に掲載されている。

* http://blog.so-net.ne.jp/watai/

2.綿井氏の『ダーウィンの悪夢』の紹介

 その綿井氏が自身のブログ*でフーバート・ザウアー監督のドキュメンタリー映画『ダーウィンの悪夢』を紹介している*。

 彼のドキュメンタリー『Little Birds----イラク 戦火の家族達』を現地で撮影していた2003年、フーバート・ザウアーもドキュメンタリー『ダーウィンの悪魔-----Darwin’s Nightmare』を撮影していた。

 そして、ヨーロッパでは2004年に公開された。

 綿井氏の紹介が簡潔なので以下に引用する。

『Darwin's Nightmare』概要紹介生態系の宝庫で「ダーウィンの箱庭」と呼ばれたビクトリア湖*、そこに巨大な肉食魚が放たれたことから状況は一変、この魚を加工輸出する工場ができ、あたりの住民の生活は崩壊する。アルコールに浸る男たち、広がる売春とエイズ、粗悪なドラッグによって道に眠る子どもたち。魚を運ぶロシアの輸送機、往路には武器を運んでくるのか…。工場の国際競争力を称賛するEUのミッション。なすすべもないタンザニア政府…グローバリゼーションの奈落を深海の悪夢のように描くドキュメンタリー。

*Lake Victoriaを以下「ヴィクトリア湖」と書く。

 綿井氏は「(2006年10月の)山形国際ドキュメンタリー映画祭で大賞だろうと僕も思っていたが、予想とはちょっと違う結果だった」とコメントしている。実際には審査員特別賞・コミュニティシネマ賞を受賞している。

 綿井氏のザウパーに相当肩入れしたようなコメントは筆者にとって以外である。

 我が国の新聞その他におけるドキュメンタリー映画『ダーウィンの悪夢』の紹介は、綿井氏の概略紹介も含めて、ザウパーのホームページの『Darwin’s Nightmare』*の内容を要約して紹介しているものがほとんどである。

 そして、その大半は好意的である。しかしながら、タンザニア在住、あるいはタンザニアをよく知る日本人には頗る評判が悪い。

 筆者はタンザニアに行ったことはないが、仕事の関係で海外経験南米に始まり、最期はパキスタンに一年半仕事で滞在するまで、ほとんど海外関係の仕事をしてきたが、この映画には納得のいかないひとりである。そのため、映画を観た後でいろいろ調べてみた。それを以下に論及する。

*1 Hubert Sauper HP
http://www.hubertsauper.com/

*2 Darwin’s Nightmare
http://www.darwinsnightmare.com/index.htm

 上記の日本語版が下記のサイト*である。ザウパーの英文サイトを邦訳したものである。

* 映画『ダーウィンの悪夢』公式サイト
http://www.darwin-movie.jp/

3.ザウパーはなぜこのドキュメンタリーをつくったか

 ザウパーは自身の英語HPでなぜこの映画をつくったかを述べている。

Origins of NightmareThe idea of this film was born during my research on another documentary, KISANGANI DIARY that follows Rwandese refugees in the midst of the Congolese rebellion. In 1997, I witnessed for the first time the bizarre juxtaposition of two gigantic airplanes, both burstingwith food. The first cargo jet brought 45 tons of yellow peas from America to feed the refugees in the nearby UN camps. The second plane took off for the European Union, weight with 50 tons of fresh fish. Imet the Russian pilots and we became "kamarads". But soon it turned out that the rescue planes with yellow peas also carried arms to the same destinations, so that the same refugees that were benefiting from theyellow peas could be shot at later during the nights. In the mornings, my trembling camera saw in this stinking jungle destroyed camps and bodies. First hand knowledge of the story of such a cynical reality became the trigger for DARWIN’S NIGHTMARE, my longest ever cinematographic commitment.----- [Origins of Nightmare]

http://www.darwinsnightmare.com/darwin/html/startset.htm

 筆者自身の邦訳:「この映画のアイディアは、コンゴ暴動の渦中のルワンダ難民を追った別のドキュメンタリー映画「KISANGANI DIARY」のリサーチ中に生まれた。1997年に、私は巨大な飛行機が二機並ぶ奇妙な(光景)を初めて見た。2機とも食料ではちきれんばかりだった。最初の貨物機は、近くにあった国連キャンプの難民たちのために、アメリカから45トンの黄色いえんどう豆(yellow peas)を運んできた。そしてもう1機は、50トンの新鮮な魚を積んでEUへと飛び立っていった。私はロシア人パイロットたちと会い、親友"kamarads"となった。

 そして、えんどう豆を運んでくるこの救援機が同じこの空港に武器を運んでくる飛行機にもたちまちのうちに変身するということだった。えんどう豆を恵んでもらった難民たちが、その夜中に撃たれるかもしれないのだ。朝には、私の身震いしたカメラが悪臭を放つジャングルの破壊されたキャンプ群と多くの死体を捉えることにもなるだろう。こんな皮肉な現実のストーリーが元になって『ダーウィンの悪夢』を作るきっかけになったが、私は今までにない長期間をこのために費やした。」


 綿井氏の紹介文の中にも、----魚を運ぶロシアの輸送機、往路には武器を運んでくるのか…。-----とあるように、いかにもムワンザに往路で武器を運んでくる貨物機が復路でナイル・パーチを運んで飛び立つことをこの映画の背後に匂わせているドキュメンタリーである。

 しかし、ザウパーのHPにも、その空港が『ダーウィンの悪夢』の舞台であるムワンザ空港だとはどこにも書いていない。

 しかし、『ダーウィンの悪夢』では、そう思わせるような構成となっている。これがタンザニア政府を不快にさせた大きな原因のひとつであろう。そのほかにも、明確に指摘もしないし、確証も提示しないが、そうおもわせるような意図を持ったシーンが続々とでてきて、観客をザウパーの意図する方向に導いていく。

 『ダーウィンの悪夢』のムワンザを農村調査の基地として使っている吉田昌夫氏は、「ザウパーの悪夢」に悩ませ続けられていて次のようにコメントしている。

 どうみてもこの映画は、現地事情を良く知らないザウパーが、コンゴについて作成した映画が当たったことに気をよくして、何かセンセーショナルな映画でもう1度当てたい、とビクトリア湖に70年前に入れた外来魚「ナイルパーチ」がシクリッド種の小魚を食べたため、その種が減ってしまっているという科学者の報告と、最近のナイルパーチ輸出が空輸で行なわれ、ムワンザ空港が東ヨーロッパからアンゴラに武器を空輸していた時の給油地であったことと、アフリカ人の貧困の状態とを結びつけ、ストーリーを作ったとしか思えません。ドキュメンタリー映画とはいえ、シナリオにあった場面のみ現地で隠し撮りしたものとなっています。タンザニアでは、この映画の内容を聞いた人々は怒っており、私がムワンザでこの8月に使っていた運転手も、住民によるこの映画に抗議するデモがあったといっていました。住民はとくにナイルパーチの肉は欧米やアジアに輸出されるが、住民には頭の部分と骨についた肉の部分しか与えられていない、と描かれていることに、また腐った部分しか食べられないとされていることに、特に誇りを傷つけられ、腐った部分を食べたら病気になることぐらい我々は知っている、と怒っていました。また映画で出てきたタンザニア人とされている者にケニア人やウガンダ人が使われており、「やらせ」ではないか、という疑惑も出ています。(私がタンザニア訪問中に見たDaily News紙*、(2006年)8月24日付け)映画では、はっきりいわないまでも、「みせかけ」で想像させてしまう手法が多く使われています。-----------
出典:フーベルト・ザウパー監督による
映画『ダーウィンの悪夢』について 吉田 昌夫 2006年10月6日


http://www.arsvi.com/2000/0610fm.htm

* Daily News紙はタンザニア・ダルエスサラームの英字日刊紙である。今回本論を書くにあたって、下記のサイトのアーカイブその他からも情報を収集した。

HP: http://www.dailynews-tsn.com/index.php

日本の映画『ダーウィンの悪夢』公式サイトには次のようになっている。

 前述の筆者の訳よりだいぶスマートだが、どうも、この映画の意図するところをさらに強調しており、オリジナルの英文を相当に意訳した、英文にない文章が挿入されている(下線部分 3ヵ所)ことに気がつく。

Director’s Note

 悪魔の起源この映画のアイディアは、コンゴ暴動の渦中のルワンダ難民を追った「KISANGANI DIARY」というドキュメンタリーのリサーチ中に生まれた。1997年、私は2機の巨大な飛行機が並ぶ奇妙な光景を目撃した。2機はともに食料ではちきれんばかりだった。1機のカーゴ機は、近くにあった国連キャンプの難民たちのために、アメリカから45トンの豆を運んできた。そしてもう1機は、50トンの新鮮な魚を積んで、EUへと飛び立っていった。私はロシア人パイロットたちと親しくなった。そしてこのような飛行機に隠された信じがたい事実を知ることになった。「コンゴに運んでいるのは人道物資だけだなんて思っちゃいけないよ。戦争に必要なものなら何でも運ぶんだ」豆を運ぶ救助機は、武器も同じ場所に運んでいる……つまり、豆を恵まれている難民たちは、その夜中に撃たれるかもしれない。そして朝には、私のカメラが破壊されたキャンプと死体を捉えるのだ。こんなシニカルな現実を自分の体験を通して知ったことが『ダーウィンの悪夢』を制作するきっかけとなった。私は、かつてこれほど長い時間を映画に費やしたことはなかった。


 ザウパーの訪日記者会見では、「四年間、タンザニアに住んでいたこと、その間、ずーと住んでいたのではなく、映画にもでてくるロシアの貨物機イリューシンに乗って、ヨーロッパとアフリカを往き来していたこと、撮影期間は全部あわせて6ヶ月、予算は金持ちが一回のバカンスで使う程度の非常に少ない金額だ」**と語っている。そして、「(タンザニアには)合計で4年間住んでいました。その間に色々な出会いや、色々なことがありました。とても複雑なものが凝縮されてこの映画が出来ました。」と語っている。

 ザウパーのHPでは、「わが親愛なる相棒サンドールSandor、そして私の小型カメラ、そして私というミニマムのクルーでこのドキュメンタリーを撮った***」といっている。

* http://blog.so-net.ne.jp/watai/2005-10-14
** http://www.darwin-movie.jp/
*** http://www.darwinsnightmare.com/darwin/html/startset.htm

(つづく)