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第3回 アマルフィ海岸自治体の持続可能性基礎調査 2013-6
A Survey on Sustainability of Costiera Amalfitana Comune

初夏のアマルフィ海岸を行く
 7日目

チェターラの歴史

    青山貞一・池田こみち  2013年6月14日
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 2013年アマルフィ海岸現地視察調査報告<125本 全体メニュー>

     
アマルフィ海岸の位置  チェターラの紋章 イタリア国旗

◆チェターラの歴史

 アマルフィ海岸のチェターラ(Cetara)の起源は、西暦880年にさかのぼります。イスラム人(サラセン)の一グループがこの地に定住したことに始まるとされています。

 この年代、すなわち9世紀は、アマルフィ大聖堂はじめアマルフィ海岸の歴史のはじまりとされる年代と言えます。

 青々と緑豊かな柑橘類が茂る丘陵は、かつて古代サレルノ公国の国境があった地区であり、海岸教区があった地域です。かつて842年から879年までサラセン人の牙城でした。そのころの名残かチュターラからヴィエトリに通ずるまちのそこかしこには、イスラム型式の建築や構造物が今なおたくさんあります。

 西暦1030年以来、Cetaraはアマルフィ公国の司教、すなわち現在アマルフィ大聖堂として知られる教会の司教の指導を仰ぐことになります。そして1120年、チェターラの魚村はアマルフィ公国の政治的な支配の対象となります。

 チェターラは、当時、アマルフィを征服したノルマン人と、サンタ・マリア・ディ・エルキエ(現在でもチェターラの近くにある村の教会)のベネディクト会修道院とヴィエトリ・スル・マーレの北部にあるカーヴァの大修道院の庇護を受けることになります。

 下はこの日の最終目的地、ヴェイトリ・スル・マーレの北西にあったカーヴァの教会です。この近くにカーヴァの大修道院があるはずです。


ヴェイトリ・スル・マーレの北西にあったカーヴァの教会
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2011年3月


ヴェイトリ・スル・マーレの北西にあったカーヴァの教会
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2011年3月

 下は大修道院があるカーヴァ・デ・ティレー二の町です。ヴィエトリ・スル・マーレ、そしてチェターラのすぐ北にあります。


大修道院があるカーヴァ・デ・ティレー二の町の位置
出典:グーグルマップ

 下がカーヴァの大修道院です。写真はそのカーヴァの大修道院の公式Webのものです。背景の山は見覚えがあります。コムーネはヴィエトリ・スル・マーレのすぐ北のカーヴァ・デ・ティレーニです。


カーヴァの大修道院  出典:http://www.badiadicava.it/

 当時、カーヴァ大修道院は、北アフリカからの巡礼者や物品などの交易力を持っており、後に修道院は海上交通、交易から収入を得、さらにそれらの財力を背景にリコナーザ岬の港や船舶を手に入れソレントやシチリア、さらにジェノヴァ、ピサなどとも交流していたとされています。

 その後も修道院は、海上交易から得た資金で、近くの海岸や港を獲得したとされています。

◆ベネディクト教会(修道院)

 529年にヌルシアのベネディクトゥスがローマ・ナポリ間のモンテ・カッシーノに創建しました。その戒律は「服従」「清貧」「童貞(純潔)」でした。ベネディクト会士は黒い修道服を着たことから「黒い修道士」とも呼ばれました。

 ベネディクトゥスが修道院の生活の規範とした戒律(「聖ベネディクトの戒律」)は、12世紀に至るまで西方教会唯一の修道会規であり、フランシスコ会・ドミニコ会以後の多くの修道会の会憲・会則のモデルとなりました。ベネディクトゥスの妹スコラスティカも、同じ精神を持って生活する女子修道院を開いています。


聖ベネディクトゥスのメダル(en:Saint Benedict Medal)

 同会の会員は「清貧」「従順」「貞潔」および「定住」の誓願をたて、修道院において、労働と祈りの共同生活を送った。これが観想修道会の基準となりました。

 同会が中世ヨーロッパにおいて、伝道・神学・歴史記録・自然研究・芸術・建築・土木のそれぞれにおいて果たした役割は大きいと言えます。

 修道院が広大な領地や財産を有するようになった時代、教会刷新をめざしてクリュニー会がベネディクト会の中から派生し、910年、クリュニー改革運動が起きました。12世紀中ごろ以降のベネディクト会は、世俗化により衰退した時期もありましたが、1400年頃から再び改革運動が起きました。

出典:Wikipedia

 下は、アマルフィ海岸における東チェターラの位置です。ただし、アマルフィ海岸はミノーリから西に数10kmあります。
 
 チェターラのすぐ西(地図中右)は、今回の最終宿泊地、ヴィエトリ・スル・マーレのライト(Raito)です。なお、今回エルキエには寄っていませんが、2011年3月に寄っています。 


出典:グーグルマップ

 1534年オスマントルコは、22隻のガレー船で上陸し、シナンパシャ率いるオスマン軍は、住民や奴隷をもってきた船で連れ去ろうとしました。船への搭乗に抵抗した300人の住民と奴隷全員が容赦なく虐殺されたといいます。オスマン軍から逃れた生存者の多くはナポリに避難したとされています。

◆ガレー船(ガレーせん、galley)

 ガレー船は、主として人力で櫂(かい、オール)を漕いで進む軍艦です。古代に出現し、地形が複雑で風向きの安定しない地中海やバルト海では19世紀初頭まで使用されていました。

 正確にはガレーであり、この語だけで船であることも意味していますが、この語が一般的でない日本では「船」を付して呼ばれることが多いようです。


これは16世紀におけるマルタの典型的な構造を持つガレー船の模型。
この時期がガレー船最後の最盛期となった。突撃船首が確認できます。

出典:Wikipedia

 それ以降、チェターラの海岸にはトーレ(要塞、見張り番の塔)が建設されたといいます。おそらく同時期にネラーノ、プライアーノなどアマルフィ海岸に多数存在するトーレが造られたと推察できます。


チェターラのトーレ(要塞、見張り台) 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2011年3月

 下はチェターラの沿岸にあるトーレ(要塞、見張り台)をズームアップしたものです。


チェターラのトーレ(要塞、見張り台) 撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2011年3月

 1685年以降、チェターラでの人々の生活、そして教育、文化などはベネディクト修道院によるところが多いとされています。チェターラも、自然と芸術文化のすばらしさ、この地に固有な地理、地形などにより、アマルフィ海岸の一角として、チェターラはのユネスコの世界遺産に登録されています。


つづく