エントランスへはここをクリック   インドネシア全体メニュー

    ボロブドウール寺院遺跡群
  Archaeological site of Borobdur temple

インドネシアと日本の進出
 Museum Kapal Samudra Raksa

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda
掲載月日:2017年1月31日
独立系メディア E−wave Tokyo
 
無断転載禁
@ 博物館へ A 博物館概要 B 船のレリーフ C 船の絵画 D 船の歴史
E 船の航路 F 船の展示 G 造船所 H シナモンルート I 海のシルクロード
J 大航海時代 K 東インド会社 L 東インド会社2 M 日本の進出

 なお、インドネシアと日本との関係についても言及しておきます。まず日本人のインドネシアへの進出としては以下があります。    出典:Wikipedia     


日本人の進出

1879年頃、日本人が続々とポンティアナックに渡ったとされている。

1916年以前にスラバヤ市に日本人が進出しており、台湾籍の日本人も少なくなかった。

1916年にはそこに三井物産会社出張所、台湾銀行出張所、大阪福島洋行、東京潮谷商会支店、東印度貿易組合、橋本、岡崎、高橋、その他二、三の雑貨店があった。

1920年10月に、バタヴィアにおいて日刊邦字新聞の瓜哇日報が発刊される[10]。また、南洋協会瓜哇支部が月刊誌の蘭領東印度時報を発行した。

1933年9月、蘭印政府は明らかに日本商品の進出を阻止することを目的とした緊急輸入制限令を発布し、セメントの輸入を制限し、12月にはビールの輸入も制限した。
 
 日本の外務省が対策を考えていたところ、オランダ政府が貿易調整を目的とした会議の開催を希望したため、結果が出るまで日本に不利となる新措置を取らないことを条件に、

1934年6月8日から日蘭本会商が開始されたが、成果なく1934年12月21日に一時打ち切りとなった。会議中においても、蘭印政府は約束を無視して陶磁器、鉄フライ鍋、サロン綿布、晒綿布の輸入制限を新たに開始し、会議打ち切り後は40余種の商品に対して制厳令を乱発し、日本と蘭印は対立の状態となった。


 次にインドネシアなど東南アジア諸国と第二次世界大戦末期の日本軍との関係について以下に記します。

 以下は、藤原 彰氏(歴史研究者・映画自由ネット代表委員)による講演、「日本のインドネシア占領と独立運動」の冒頭部分を引用しています。



◆「日本のインドネシア占領と独立運動
 講演 、藤原 彰氏(歴史研究者・映画自由ネット代表委員)

 あの戦争がアジアの解放のための戦争だったのか、それとも日本の戦略戦争だったのかについては、戦後50年以上経っているのに、まだ日本の国内では真っ二つに意見が対立しています。

 欧米諸国もアジア各国も、あの戦争は日本の侵略戦争であったことで一致しています。日本がアジアの各国を独立させたのではなく、日本に対する闘いがアジア各国に独立をもたらしたのだ、ということは、歴史の真実だとして各国で認められている事実なのです。

 それに反するような考え方が日本から伝えられて行くと反発を買って、日本はアジアでは尊敬される国ではなくて、むしろ嫌われ、非難される国になっているというのが実情です。


 インドネシア独立は言うまでもなく、日本軍によって分割されているジャワ島だけでなく、東インド全体を独立させるというものです。そういう宣言です。

 それに対して連合国側は、それを認めない。とりわけ本国オランダはどうなっていたかと言えば、オランダ本国はドイツに占領され、亡命政権がロンドンに出来る。その亡命政権が実効的に支配出来るところはどこもないのです。本国が取られているのですから。そうすると、インドネシアを英米軍に回復してもらって、それを自分のよりどころにしたいと考えている。非常に強く独立反対の立場に立っているということが出来ます。

 実際、最初にやって来てのはオーストラリア軍です。その前に日本軍に厳しい命令を出す。武器の引き渡しを要求する。インドネシア独立軍(もとの防衛義勇軍)と、渡す、渡さないで、抗戦になる場合もある。ただし、末端の兵士まで同じ行動したかというと、対応がバラバラになる。

 その中で大きな事件は、10月に起きた「スラバヤ事件」です。スラバヤの独立軍が、日本軍の兵器を奪おうとしました。それに対して、やって来たオーストラリア軍と日本軍が一緒になって、大規模な戦闘になる。このスバラヤの戦闘では、独立軍が勝ちます。しかし、そうした激しい戦闘が起こって、結局11月にスラバヤで独立軍が勝利することから、戦争が全面化して行きます。

 その戦争は結局4年間、1949年まで続きます。その間に日本軍は、段階的にインドネシアから撤退して行きます。オーストラリア軍も撤退し、オランダ軍に替わって行くのですが、オランダ軍の力ではインドネシア独立軍を抑えることが出来なくなってしまう。植民地戦争の闘いとしては、第二次大戦後の世界の中では比較的早く独立側の勝利に終わり、1949年12月にハーグ協定が結ばれます。

 ハーグ協定では、オランダはインドネシアの独立を認め、独立軍の勝利が決まる。インドネシア共和国が成立する訳です。ベトナムのように、その後30年間も独立戦争を続けるところもありますけれど、オランダが割合力が弱かったということと、国際的批判があり、現実を認めなくてはならないのではないか、という声があった。特にイギリスは、インド、ビルマと独立を次々と認めていますから、そうした世界情勢の中でオランダも認めざるを得なくなって、結局4年間の独立戦争の後にインドネシアは独立し、国際社会の中でも認められて、インドネシア共和国が成立することになります。初代大統領は、その独立運動のシンボルであったスカルノが就任します。

 ここで問題なのは、この独立に対して、日本がどういう立つ場であったのか、ということです。

 日本は、基本的には、インドネシアは独立させず、日本直轄の領土にすると言ってきたわけです。インドネシア人を、「兵補」とか「義勇軍」とかに編成したのも、日本軍の下働きをさせる意味だったのです。

 ですからインドネシア人は、兵補という形で日本軍に直接使われたり、或いは労務者として連れて行かれたりしなした。またインドネシアへは、軍隊だけなく商社もいっぱい資源開発のために出て行っています。

 日本人の人口は、軍隊よりも多かった。その人々のために、インドネシアの女性が何万人も慰安婦にされた。ということで、結局日本はインドネシアの独立の援助をしたのではなく、それを抑えた側に終始立っていた。

 そして、最後の段階で、戦争の局面が悪くなってきた時に、インドネシア軍の離反を防ぐために「将来は独立させてやる」といって日本軍に協力させる、防衛義勇軍を作らせるわけです。

 ところがその防衛義勇軍が何のことはない、独立軍の下になってしまった。兵補や義勇軍が独立軍の主要なメンバーとなって、日本軍と闘うことになりました。

 8月16日、日本軍は義勇軍と兵補を解散と決定しました。解散命令を出して武器をみんな取り上げようとする。ところがそうはうまくいかない。日本の降伏を知った兵補や義勇軍は、解散命令にも、武器の取り上げにも従わない。「将来独立させる」とした約束の取り消しも認めないということになります。その後、武器弾薬をめぐって日本軍とインドネシア軍の闘争が続くわけです。

 結局日本は、インドネシアの独立を救けたのでなく、妨害した。妨害したけど、結果的には彼らは日本と闘うことで力をつけ、やがてやって来たオランダ軍に勝利したということになります。

 中略

 日本軍がアジア諸国の独立を救けたのではなく、日本と闘うことでアジア諸国民は強くなって行ったのです。

 これは、東南アジア全体に言えることです。

 例えばビルマ(現在、ミャンマー)の場合、日本は形式的にはビルマの独立を認めました。認めたけれども、実質的には政治、外交、経済の実権を日本は握っていたわけです。

 日本がビルマに侵攻して行く時は、インドネシアの場合とは異なって、ビルマ人をあらかじめ訓練して「ビルマ独立義勇軍」を作らせておいて、これを連れて入って行った。これらはビルマ独立とともに、ビルマ国軍になるわけです。

 ところで、このビルマ国軍はどうしたか。日本の本心を見抜いているわけです。そこでインパール作戦で日本が負けると、反乱を起こしてしまう。日本軍の背後から日本軍を襲うわけです。この反乱を起こしたビルマ国軍の司令官がアウンサンで、例のアウンサン・スーチーさんのお父さんです。この人が、戦後のビルマ独立の先頭に立ち、日本軍と闘うことで独立したわけです。

 ベトナムもそうです。「ベトミン」(ベトナム独立同盟)は、日本と闘うことで力を貯えて、戦後の長い反仏闘争、さらに反米闘争を闘い抜いて、今のベトナムを作って行く訳です。

 日本軍がアジア諸国民の独立を救けたのではなく、日本と闘うことでアジア諸国民が強くなって行ったのです。

 中国共産党の周恩来が、冗談に「中国革命は日本のお陰だ」と言ったと言われていますが、それと同じことで、結局インドネシアの場合も典型的な例でした。

 日本はアジア解放とか、インドネシア独立を考えたのではありません。初めから日本に必要な物を取り上げる、資源豊かだから占領する、と考えて、そういう方針をもって臨んで行ったのです。そして独立運動を弾圧したのです。

 レジメにある「シンガパルナ事件」と「ポンティアナク事件」は、いずれもインドネシア独立のために闘った独立運動と、それに対する日本軍の徹底的な弾圧の例です。

 「シンガパルナ事件」というのは、この被害者が今日本に呼ばれていて証言集会をやっていますけれど、これは昭和19年の2月にジャワ島のシンガパルナという町で、イスラム教の寺院に対して日本が弾圧を加えました。

 神社参拝や天皇崇拝を強制した訳です。イスラム教の教えに反すると抵抗した者を、徹底的に弾圧したという事件なのです。

 「ポンティアナク事件」、これはボルネオの西にある大きな町ですが、ここは古い領主が支配している訳ですけれど、その領主が日本対して抵抗を企てたということを口実に、領主や華人を大量虐殺しています。

 どちらの事件も戦後、戦犯裁判で裁かれていますけれど、これは一つの例でありまして、いたるところで独立運動、日本に対する抵抗運動が、日本憲兵や軍隊の厳しい弾圧に遇って、大量虐殺が行われています。つまり、きれいごとでは決してなかったのです。

 日本は、インドネシアの独立を救けにいったのではなく、それを抑えに行ったと言えます。しかしその日本軍と闘うことで、インドネシアの独立は成し遂げられてのだ、というのが真実であります。

 それを美化して、「日本はインドネシアの独立を救けたのだ」、あるいは「アジアを解放したんだ」といった見方は、この戦争の真実を完全に歪める言い方に他なりません。この前の映画『プライド』がそうであったように、日本の軍国主義の復活の宣伝に使われることを、大変恐れるものであります。



つづく