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伊能忠敬と日蓮の足跡を
たどる千葉の旅
 

伊能忠敬
(第三次測量、東北日本海沿岸)
第四次測量、東海・北陸)

青山貞一 Teiichi Aoyama・池田こみち Komichi Ikeda
Dec.11, 2018 独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁


千葉視察総合目次

隠居・観測・測量  一次測量(蝦夷地) 二次測量(伊豆・東日本)
三次測量(東北・日本海)、四次測量(東海・北陸)
五次測量(近畿・中国)、六次測量(四国)
七次測量(九州一次)、八次測量(九州二次)
九次測量(伊豆諸島)、十次測量(江戸府内) 
地図作成作業と伊能忠敬の死
地図の種類・特徴・精度、測定方法等
伊能忠敬記念館  伊能忠敬年表
参考・芝丸山古墳と伊能忠孝記念碑
参考・忠孝測量の碑と星座石
参考・伊能忠敬九十九里記念公園
参考・伊能忠敬参照文献一覧

伊能忠敬

第三次測量(東北日本海沿岸)

測量計画


 忠敬らは、前回計画を立てながらも実行できなかった蝦夷地の測量をやり遂げたい気持ちがありました。だが忠敬の立てた測量計画が幕府に採用される見込みは相変わらず薄かったのです。そこで、まずは内地の測量に従事した方がよいと判断しました。

 享和2年(1802年)6月3日、忠敬は堀田正敦からの測量命令を、至時を通して聞きました。測量地点は日本海側の陸奥・三厩から越前まで、および太平洋側の尾張国から駿河国までで、これと第一次・第二次測量を合わせて東日本の地図を完成させる計画でした。また、8月に起きる日食も観測するよう指示されました。

 本測量では人足5人、馬3匹、長持人足4人が与えられ、手当は60両支給されました。これは過去2回よりもはるかに恵まれた待遇で、費用の収支もようやく均衡するようになりました。

測量

 一行は6月11日に出発、奥州街道を進み6月21日に白河まで辿り着きました。ここから奥州街道を離れ会津若松に向かい、山形、新庄などを経て、7月23日に能代に到着しました。ここで、8月1日に起こる日食を観測するための準備を整えました。しかし当日は曇りで、太陽は日食が終わる直前にほんの少し見えただけで、観測は失敗に終わったのです。

 8月4日に能代を発ち、羽州街道を油川(現青森市)まで進みました。途中の弘前では宿の設備や対応が悪く、忠敬は役人に注意しました。このように第三次測量からは、忠敬が測量に協力的でない役人を叱りつけることがままありました。これは幕府の事業を請け負っているという自負が強くなってきたためだろうと考えられています。

 油川からは第一次、第二次と同じ道をたどり、8月15日に三厩に到着しました。ここから算用師峠を越えて日本海側の小泊(現中泊町)に行き、そこから南下しました。

 9月2日から6日まで二手に分かれて男鹿半島を測量し、9日からは象潟周辺を測量しています。当時の象潟は入り江の中に幾多の島々が浮かぶ景勝地でしたが、忠敬測量の2年後に起きた象潟地震によって土地が隆起し、姿を全く変えてしまったのです。そのため、忠敬によって実測された地震前の象潟の記録は貴重なものとなっています。

 その後、越後に入ると、海岸沿いでも岩山が多くなり、苦労をしながらの測量となりました。9月24日に新潟、10月1日に柏崎、10月4日に今町(現上越市)に到着し、ここで海岸線を離れて南下しました。そして追分(現軽井沢町)から中山道を通って、10月23日に江戸に戻りました。


大日本沿海輿地全図中図  東北
Source: The Sumitomo Foundation

地図作成等

 江戸に帰った忠敬らは地図作成に取り掛かりましたが、今回の測量だけでは東日本全体の地図は作れないため、下図のみ作成して、享和3年(1803年)1月15日に幕府に提出しています。

 また、今回の測量結果から忠敬は再度子午線一度の距離を計算し、28.2里という、第二次測量の時と同じ値を導き出しています。しかし至時は、この値は自分の想定していた値よりも少し大きいとして、忠敬の結果を信用しなかったのです。

 忠敬はこの師匠の態度に不満を感じました。そして、「この値が信用できないというのであれば、今まで自分が行ってきた測量を全て疑っているということではないか、ならば今後測量を続けることはできない」と言っています。至時は忠敬を宥め、何とか次の測量の手はずを整えました。

第四次測量(東海・北陸)


 『大日本沿海輿地全図』第76図 越後(越後・時水村・長岡・潟町)
(国立国会図書館デジタルコレクションより)

測量

 享和3年(1803年)2月18日、忠敬は至時を通じて堀田正敦からの辞令を受け取りました。今回の測量地域は駿河、遠江、三河、尾張、越前、加賀、能登、越中、越後などで、また、佐渡にも渡るよう指示されました。人足や馬は前回と同様で、旅費としては82両2分が支給されました。

 2月25日に一行は出発し、東海道を沼津まで測量しました(第二次測量の再測)。沼津からは海岸沿いを通り、御前崎、渥美半島、知多半島を回って、5月6日に名古屋に着きました。名古屋からは海岸線を離れて北上し、大垣、関ヶ原を経て、5月27日に敦賀に到着しました。


大図 渥美半島付近(千葉県香取市 伊能忠敬記念館所蔵)
Source:Wikimedia Commons


『大日本沿海輿地全図』。中図のうちの一枚で、中部地方を示したもの。
出典:(一社)東京都測量設計業協会


大日本沿海輿地全図中図  中部
Source: The Sumitomo Foundation

 28日から敦賀周辺を測量し、その後日本海沿いを北上して行きましたが、5月末から6月にかけては隊員が次々と麻疹などの病気にかかり、測量は忠敬と息子の秀蔵の2人だけで行なうこともありました。

 6月22日には病人は快方に向かい、24日に一行は加賀国へと入りました。しかし加賀では、地元の案内人に地名や家数などを尋ねても、回答を拒まれました。これは、加賀藩の情報が他に漏れるのを恐れたためです。そのため忠敬は藩の抵抗にあいながらの測量となったのです。加賀を出て、7月5日からは能登半島を二手に分かれて測量しました。

糸魚川事件

 8月2日頃からしばらく忠敬は病気にかかり体調の悪い日が続いていました。そんな中、8月8日に訪れた糸魚川藩で、糸魚川事件と呼ばれるいざこざを起こしました。

 忠敬はこの日、姫川河口を測ろうとして手配を依頼したところ、町役人は、姫川は大河で舟を出すのは危険だと断りました。ところが翌日に忠敬らが行って確認したところ、川幅は10間程度しかなく、簡単に測ることができたのです。忠敬は、偽った証言で測量に差し障りを生じさせたとして、役人たちを呼び出してとがめ、藩の役人にも伝えておくようにと言いました。

 その後、忠敬一行は直江津(現上越市)を通過して、8月25日に尼瀬(現出雲崎町)に到着、ここで船を待って8月26日に佐渡島にわたり、二手に分かれて島を一周し、9月17日に島を離れました。佐渡の測量によって、本州東半分の海岸線はすべて測量し終えたことになります。

 翌日からは内陸部を測りながら帰路につきましたが、途中の六日町(現南魚沼市)で、至時からの至急の御用書を2通受け取りました。糸魚川での事件が江戸の藩主に伝わり、藩主から勘定所に申し入れがあったためです。

 至時は1通目の公式な手紙で、「忠敬の言い回しはことさら御用を申し立てるようでがさつに聞こえる、もってのほかだ」と非難しました。2通目の私的な手紙では、「今後測量できなくなるかもしれないから、細かいことにこだわってはいけない」と、割合くだけた調子で注意しました。忠敬はこれに対して弁明の書を出しました。

 その後一行は三国峠を越え、三国街道から中山道に入り、10月7日に帰府しました。

 帰府後、忠敬は糸魚川事件の詳細な報告書を提出しました。至時の力もあって、結果的に忠敬は幕府から咎められることはなく、測量に支障をきたさずに済みました。

至時の死

 忠敬が帰府したとき、至時は西洋の天文書『ラランデ暦書』の解読に努めていました。この本には緯度1度に相当する子午線弧長が記載されており、計算したところ、忠敬が測量した28.2里に非常に近い値になることが分かりました。これを知った忠敬と至時は大いに喜び合ったと言います。

 しかし翌文化元年(1804年)正月5日に、至時は死去しました。至時の死後、忠敬は毎朝、至時の墓のある源空寺の方角に向かって手を合わせたといいます。幕府は至時の跡継ぎとして、息子の高橋景保を天文方に登用しました。

日本東半部沿海地図

 忠敬らは第一次から第四次までの測量結果から東日本の地図を作る作業に取り組み、文化元年(1804年)、大図69枚、中図3枚、小図1枚から成る「日本東半部沿海地図」としてまとめあげました。

 この地図は同年9月6日、江戸城大広間でつなぎ合わされて、十一代将軍徳川家斉の上覧を受けました。ただし忠敬は身分の違いにより、この場には出席していません。

 初めて忠敬の地図を見た家斉は、その見事な出来栄えを賞賛したのではないかといわれています。9月10日、忠敬は堀田正敦から小普請組で10人扶持を与えるという通知を受け取りました。

 また、この年、漢学者として佐原にて門人の教育にあたっていた久保木清淵が後漢の鄭玄の『孝経』註釈を復元した『補訂鄭註孝経』を刊行しましたが、忠敬は同書の序文を執筆しています。


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