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プラハ城のすべて


Aチェコ・プラハの歴史

青山貞一 Teiichi Aoyama

12 October 2008 無断転載禁

■プラハ城のすべて(目次)
 (1)世界史とグーグルアース  (2)チェコ・プラハの歴史  
 (3)ヤン・フスのこと
 (4)プラハ城に入る (5)プラハ城の歴史 (6)プラハ城の建築 
 (7)ヴァルダヴァ川とカレル橋


 それでは手始めに、チェコ(ボヘミア)とプラハのまちの歴史を振り返ってみよう!

■チェコ(ボヘミア)の歴史  参考・出典:Wikipedia

 ボヘミアは、古代にボヘミアからモラヴィア、スロバキアにかけての地域に居住していたケルト人の一派、ボイイ人に由来する。

 6世紀以降、西スラヴ人が移住し、モラヴィアの西スラヴ人とともに現在のチェコ人となった。しかし、ドイツに接しているために歴史的にドイツ人も多く居住し、政治的・文化的にドイツとのつながりは深い。

 7世紀にアヴァール人の侵攻を受けた後、9世紀頃にプシェミスル家のもとで公国を形成し、10世紀以降は神聖ローマ帝国に属して政治的に現在のドイツと結びついた。11世紀から12世紀にはボヘミア公は神聖ローマ帝国領内では当時まだほとんど存在しなかった王号をもつボヘミア王となり、高いステータスを獲得するが王権は弱く、実質上は歴代の王の後ろ盾となったドイツ人の傀儡として存在した。

 チェコ及びボヘミアは、その地理的な重要性から中世から近世にかけては「ボヘミアを征する者は、ヨーロッパを征す」とも言われた。

 プシェミスル家断絶後の1310年からはドイツ貴族ルクセンブルク家がボヘミア王を受け継いだ。神聖ローマ皇帝カール4世となったルクセンブルク家のボヘミア王カレル1世は、プラハに大学を設立してボヘミアに学問を根付かせた。

 15世紀にはプラハ大学からヤン・フスが出て宗教改革に乗り出すものの外圧により失敗するが、その過程でそれまでチェコを実質支配していたドイツ人を追放し、ポーランドのフス派プロテスタントと協力して戦い抜いたことはスラヴ民族主義の萌芽として注目される。

 16世紀からはルクセンブルク家断絶後にその所領を獲得したオーストリアのハプスブルク家の支配を受け、1618年には白山の戦いでハプスブルク軍相手にたった半日で敗北した結果、チェコのスラヴ人貴族は完全に根絶され、ドイツ人貴族のみとなった(チェコ貴族の入れ替え)。


オーストリア・ハプスブルク家のマリア・テレジア

 三十年戦争後期にスウェーデンに占領された。その後、ヴェストファーレン条約によって、ハプスブルク家に返還され、絶対王政下に置かれた。19世紀にはオーストリア帝国の一部となった。

 ※ プラハ城や大聖堂にあった文物は、スウェーデンに持ち去られたが、
    それらはハプスブルグ家、イタリア経由で現在、ローマのバチカン
    宮殿の一角にあるシスティーナ礼拝堂(バチカン博物館)に保管、
    展示されている。


 19世紀前半にはチェコ人の民族運動が盛り上がって次第にドイツ人から自立しようとする動きが高まり、1918年に1004年以来914年ぶりにようやくドイツ人の支配から離れると、新たに独立したチェコスロバキアの中心地域となった。


■プラハの歴史  参考・出典:Wikipedia

 6世紀後半にスラヴ民族によりヴルタヴァ川河畔に集落が形成された。9世紀後半にはプラハ城、10世紀頃にヴィシェフラト城が建てられ、両城に挟まれたこの地に街が発達した。

 973年にキリスト教の司教座が置かれると、ユダヤ人の入植が始まった。しかし、プラハは度重なる戦渦に巻き込まれ、荒廃してしまう。

 1346年にボヘミア王カレル1世が神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれ、カレル4世(ドイツ語名カール4世)となると、神聖ローマ帝国の首都はプラハに移され、プラハ城の拡張や、中欧初の大学、カレル大学の創立、カレル橋の建設とヴルタヴァ川東岸市街地の整備などの都市開発が行われ、ローマやコンスタンティノープルと並ぶ、ヨーロッパ最大の都市にまで急速に発展。「黄金のプラハ」と形容されるほどだった。

 
ヴァルタヴァ川(モルダウ)川から見たプラハ城


プラハ旧市街地(3次元拡大図)  source: Google Earth

 次代国王ヴァーツラフ4世(ドイツ語名・ヴェンツェル)の治世、ヤン・フスによるローマ教皇庁への抗議が行われ、1415年にフスが火刑にされると、フス派によってフス戦争が勃発、ローマ教皇の十字軍を破るが、15世紀後半に当時繁栄を誇っていたハプスブルク家のアルブレヒト2世がボヘミア王になると、フス派は支配下に入った。

コンスタンツ会議のヤン・フス。その後有罪とされ火炙りとされる!

Painting of Jan Hus at the Council of Constance by Vaclav Broik (1883).
Source: Wikipedia, the free encyclopedia

 16世紀後半に次代のルドルフ2世の治世になると、芸術や科学を愛する王のもと、プラハに芸術家、錬金術師、占星術師などが集められ、プラハはヨーロッパの文化の中心都市として栄華を極めた。

 しかし、1618年にプラハ城で起きたプラハ窓外投擲事件を皮切りにビーラー・ホラ(白山)の戦いが勃発し、三十年戦争に発展。


プラハ窓外投擲事件   出典:Wikipedia

 1648年、カトリックの最後の牙城だったプラハはスウェーデン軍に包囲されるが、ヴェストファーレン条約が締結され、戦争は終結した。しかし、王宮はウィーンへ移転され、プラハは人口が激減する。また、チェコ語の使用禁止や、宗教弾圧や文化弾圧などを受け、チェコは独自の文化を失い、2世紀以上にわたって「暗黒の時代」といわれるチェコ民族文化の空白時代を迎えることとなる。

 一方で、1784年に4つの市議会に分かれていたプラハは、1つの市議会に統合された。その4区とは「フラッチャニ(城の丘)」(城塞・城塞の北部、および西部地区)、「マラー・ストラナ(小地区)」(下町、城塞の南部地区)、「スタレー・ムニェスト(旧市街)」(城塞の対岸・東側)、「ノヴェー・ムニェスト(新市街)」(その他の南方および東方地区)である。


プラハ全景(平面図)  source: Google Earth


プラハ全景(3次元図)  source: Google Earth

 さらに町は1883年に「ヴィシェフラト(「高い城」地区)」を、1850年に有名なユダヤ教徒コミュニティーの「ヨーゼフ街(ヨゼフォフ)」の併合をし、更なる拡大をする。

 18世紀末、フランス革命やドイツ・ロマン主義に影響を受けた知識人らによって再び民族独立の動きが強まる。1848年にはプラハ市民による、オーストリアに対する蜂起がおこるが失敗した。第一次世界大戦終結後の1918年になってようやくオーストリア・ハンガリー帝国が解体し、チェコスロヴァキア共和国が成立すると、プラハ城に大統領府が置かれ、首都となった。

 1922年初頭に、37の自治体を合併し、人口は676,000人となった。しかし、1938年、ナチス・ドイツによって占領され、チェコスロヴァキアは解体されてしまった。

 第二次世界大戦中はここに居住していたユダヤ人約5万人がナチスによって殺害された。しかし、プラハが大規模な戦火に曝されることはなかった。ただし小規模な被害はやはり被っており、たとえば旧市街広場にある「天文時計」で有名な「スタレー・ムニェスト旧市庁舎」の建物の一部は、ドイツ軍から受けた空爆により未だに一部が失われたままである。

 第二次大戦後は、社会主義国チェコスロヴァキアの首都となった。1968年にはプラハの春と呼ばれる改革運動が起こる。しかし、プラハ市民はワルシャワ条約機構軍の侵攻を受け、改革派は弾圧された。


Praga1968. プラハの春 
Source:Бутылки с заж.смесью в советские танки.jpg

 しかし、1989年のビロード革命により共産党政権は崩壊、1993年にチェコとスロヴァキアが分離するとチェコの首都となった。


プラハ国立博物館前の大通りの夜景
ヴァーツラフ広場

 2002年にドイツ東部からチェコを襲った水害では、ヴルタヴァ川が氾濫し、広範に床上浸水し、市の地下鉄が数ヶ月に渡って停止するなどの大きな被害を受けた。

 
つづく