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幕末の歴史を刻む上野の

5.徳川家寛永寺、輪王寺宮

青山貞一 Teiichi Aoyama   池田こみち Komichi Ikeda 
山形美智子 Mihicko Yamagata   鷹取 敦 Atsushi Takatori


December 19 2014
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幕末の歴史を刻む上野の森 寛永寺 
@寛永寺の誕生 D徳川家と寛永寺 H大黒天 L尾形乾山
A上野戦争 E黒門と時鐘堂 I五重塔
B上野公園と寛永寺 F開山堂、清水観音堂 J家綱霊廟勅額門
C寛永寺 根本中堂 G不忍池辯天堂 K綱吉霊廟勅額門
歴代徳川将軍家家系  徳川歴代将軍の生誕・没年月日と将軍在位期間


寛永寺の門にある徳川家の紋章
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-12-13





◆徳川家と寛永寺

 ここでちょっと寄り道をします。寛永寺と徳川将軍家との関係についてです。

 近世を通じ、寛永寺は徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受け、大いに栄えました。

 ただし、創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺ではありましたが、菩提寺という位置づけではなかったのです。

 徳川家の菩提寺は2代将軍秀忠の眠る芝の増上寺(浄土宗寺院)だったのです。

 しかし、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言しました。

徳川 家光

 江戸幕府の第3代将軍(在職:1623年 - 1651年)。2代将軍秀忠の二男(嫡男)。母は浅井長政の娘で織田信長の姪にあたる江。乳母は春日局(福)、乳兄弟に稲葉正勝、稲葉正吉、稲葉正利がいます。

 15人の徳川将軍のうち、(父親の)正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみであり、さらに将軍の御内室(御台所)が生んだ将軍は家光のみでです。


 ........

 幕府の基盤が安定したと思われた寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の諸大名・百姓の経営は大きな打撃を受けます。

 更に正保元年(1644年)には中国大陸で明が滅亡して満州族の清が進出するなど、内外の深刻な問題の前に家光は体制の立て直しを迫られました。

 正保元年(1644年)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、農民統制では田畑永代売買禁止令を発布しました。

 慶安3年(1650年)には病気となり、諸儀礼を家綱に代行させ、翌年4月に江戸城内で死去しまする。

 享年48。家光の死に際しては、堀田正盛や阿部重次らが殉死しています。

 遺骸は遺言により東叡寛永寺に移され、日光の輪王寺に葬られました(日光東照宮)。同年5月には正一位・太政大臣が追贈され、法名は「功崇院」の案もありましたが、大猷院に定められた。翌承応元年(1653年)には大猷院廟が造営されています。

出典:Wikipedia

 その後、4代家綱、5代綱吉の廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となったのです。

 当然、増上寺側からは反発がありましたが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続きました。また、吉宗以降は幕府財政倹約のため、寛永寺の門の数が削減されています。


徳川家光  出典: Wikipedia


輪王寺宮

 寛永20年(1643年)、天海が没した後、弟子の毘沙門堂門跡・公海が2世貫主として入山します。

 その後を継いで3世貫主となったのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王です。

 法親王は承応3年(1654年)、寛永寺貫主となり、日光山主を兼ね、翌明暦元年(1655年)には天台座主を兼ねることとなりました。

 以後、幕末の15世公現入道親王(北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めることになります。

 貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸・尾張・紀州の徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていたのです。


輪王寺 慈眼堂 天海墓   出典:Wikipedia

 歴代輪王寺宮は、一部例外もありますが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれました。

 東国に皇族を常駐させることで、西国で天皇家を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、気学における四神相応の土地相とし、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もあります(「奥羽越列藩同盟」、「北白川宮能久親王(東武皇帝)」参照)。


つづく