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増上寺・寛永寺の灯籠

世田谷区の実相院に17基 (4)

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda
December 26 2017
独立系メディア E-wave Tokyo
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1.はじめに        2.ハードな歴史修正主義?  3.実相院紹介 
4.実相院の歴史      5.実相院の境内、伽藍   6.灯籠現地調査  
7.刻印確認調査@   8.刻印確認調査A    9.刻印確認調査B  
10.刻印確認調査C  11.調査結果    12.全体コメント


徳川家の紋章 
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8 2014-11-12

4.
実相院の歴史

 歴史的には、実相院はその昔「世田谷城」があった一角にある広大な庭を持つ寺です 以下は、寺院を紹介する解説版の内容です。

◆曹洞宗 鶴松山実相禅院



 寺伝によれば、当時の開山は天永琳達大和尚、開基は、吉良左兵衞佐氏朝とも子の頼久ともいう。本尊は薬師如来。

 天正十八(1590)年、小田原北条氏の滅亡に際し、世田谷城主の吉良氏朝は城を去り、下総国生実(現千葉市)に逃れた。

 徳川家康が江戸入府後、氏朝は再び世田谷に帰ったが、世田谷城は廃城となり戻ることを許されず、この地に閑居し慶長八(1603)年示寂した。

「新編武蔵国風土記稿」には、「今境内ニ氏朝夫婦ノ碑アリ、氏朝ノ碑面ニハ実相院殿四位下学翁玄参大居士、慶長八年九月六日ト刻シ、夫人ノ碑ハ鶴松院殿快窓寿慶大姉トアリ。」と記されているが、現在、この墓碑は所在不明である。

 慶安元(1648)年、家光より朱印地十石二斗二升を賜っている。

   
                           昭和61年11月




実相院本堂外観の上部にあった豊臣家の紋章
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2017-12-22

 実相院は天永琳達大和尚により創建。開基は吉良氏朝またはその子頼久といわれています。

 1590年(天正18年)主家の小田原北条氏の滅亡により、吉良家は下総に逃れたが、徳川家康の江戸入府後に吉良氏朝は世田谷に戻り、実相院で隠居したとされています。寺名は氏朝の法名実相院殿前従四位下学翁参玄大居士より、山号は夫人の法名鶴松院快窓寿慶大姉によっています。

 徳川家光より1648年(慶安元年)に10石の朱印状を拝領されています。ただし、1868年(慶応4年)に檀家数の減少(12軒)のため朱印地を返上しました。

 明治初期には勝光院と合併の話が出て廃寺になる寸前に至りましたが、住職はじめ檀家の努力によりもちこたえることができました。

 明治40年代に実相院住職の佐々木義宣により旧荏原郡西部の中学卒業者で四三会が結成されています。

 1957年(昭和32年)に本堂が改築されました。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2017-12-22

<参考>吉良氏朝氏と世田谷場

 吉良氏朝
(きら うじとも) 1543−1603 戦国-織豊時代の武将。

 天文12年生まれ。吉良頼康(よりやす)の養子。永禄3年武蔵世田谷城(東京都)をつぎ,北条氏康(うじやす)の娘と結婚。天正(てんしょう)18年豊臣秀吉の小田原攻めに際し上総(かずさ)(千葉県)にのがれ,関東に入国した徳川家康につかえて世田谷に1120石をあたえられたが,のち返上した。慶長8年9月6日死去。61歳。本姓は今川。

 なお、世田谷城は東京都世田谷区豪徳寺にあった日本の城。世田谷城は、吉良氏によって築かれた平山城。世田谷に本拠を置いた奥州吉良氏が代々居を構えた。




つづく