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晩秋の長州・萩短訪

N萩の城下町を歩く

青山貞一 東京都市大学

現地訪問 2009年11月21日〜22日

独立系メディア E-wave Tokyo
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長州藩・毛利家
@今に残る希有な歴史文化都市 H吉田松蔭誕生地と一族
A萩市の産廃処分場問題 I吉田松蔭刑死と墓所
B産廃処分場問題講演会 J毛利家の菩提寺 東光寺
C反射炉跡と造船所跡 K松陰神社と松下村塾
D浜崎地区:旧萩藩 御船倉 L御成道と萩城跡
E浜崎地区:旧山村家住宅 M菊屋家住宅とその庭園
F菊ヶ浜・相島・笠山 N萩の城下町を歩く
G萩博物館 Oエピローグ

 萩城城下町の呉服町には菊屋家住宅以外に下の地図にあるように、高杉晋作家、木戸孝允家、青木周弼家など幕末から明治維新にかけ活躍した名士や豪商の住宅、武家屋敷、御用商人が集中している。



 この城下町一帯を歩いていると、江戸後期にタイムスリップした錯覚におちいる。

 興味深いことに武家屋敷の中にはどの家にも夏みかんがなっていることが分かる。

 萩歴史スケッチ(読売新聞西部本社刊)によれば、萩の地にはじめて夏みかんが植えられたのは、萩藩御用達だった今魚店町の熊谷家とされる。

 熊谷家に伝わる文書には、1831年(天保2年)、客を招いた際の献立の中に夏みかんの萩地方の呼び名である橙(だいだい)と書かれ、翌天保3年には約100個の実を贈答用にしたことが記されてるという。


出典:日本の旅風景


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 萩名産の和菓子として、夏みかんを砂糖でまぶした菓子もある。萩焼の器の中に入れたこのお菓子を土産にもいただいた。


萩名産の夏みかん砂糖菓子


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


 ところで、萩と言えば陶器の萩焼が有名だ。萩焼に造詣が深い津田さんのご案内で萩城下町に集中する萩焼のギャラリーを見る。1点で30万円、100万円を超す陶器もたくさんある。私自身、陶磁器に趣味がなく、”猫に小判”状態だが、その道の人なら一日中楽しめるだろう。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 この地域には松蔭の門下や盟友の誕生家も集中している。実際に今でもそのお孫さんなど親類が住んでいる家もある。それらの多くは公開されている。
主な生家を訪問した。

■高杉晋作生家

 菊屋横町に入り少し歩くと左手に高杉晋作の生まれた家が残っている。

 高杉晋作は、1839年(天保十年)に藩士 高杉小忠太の長男として生まれた。明倫館に学ぴ、19才の時、松下村塾に入門した。吉田松陰は、晋作を 久坂玄瑞と競争させてその才能をみがき出し、玄瑞と並んで松下村塾の双壁そうへき といわれた。

 1863年(文久三年)、下関にて外国軍艦の攻撃に備えるために、 農民や町人も入隊した奇兵隊をつくり、その奇兵隊などの諸隊をひきいて討幕運動の中心人物として 活躍した。 だが1867年(慶応三年)、幕府が倒れるのを見ることなく肺結核のために弱冠29才でなくなっている。

出典:萩温泉旅館協同組合Web


高杉晋作の生家にて
撮影:堀洋太郎氏



高杉晋作の生家
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

■木戸孝允(桂小五郎)生家

 江戸屋横町に入ると、すぐの所の右手に桂小五郎(後の木戸孝允)の生まれた家がある。 家は2階建てで、1階には小五郎が生まれた部屋、 2階には小五郎の勉強部屋などがあり昔のままの状態を保っている。2階の勉強部屋の長押なげしには、 小五郎が若いころ墨で書いた死而後巳という落書きが残っている。

 これは「死んでしまえば、すべてが終わってしまう」という意味、 「生きている今こそ、何かをやらなければならない」という小五郎の若い情熱をあらわしている。

 木戸孝允は京都でも、明治維新で活躍した人物として人気がある。 桂小五郎は、1833年(天保四年)に藩医和田昌景の長男として生まれ8才の時、近く住む藩士柱家の養子となったが、 まもなく養父母ともに亡くなり、実家である和田家のこの家で成長した。 17才の時、兵学の門下生として明倫館で吉田松陰に学んだ。

  その後、江戸に出て剣術や西洋の兵学を学ぴ、討幕運動の立役者となり、 長州藩(今の山口県)と薩摩藩(今の鹿児島県)の同盟を成功させた。

  小五郎は、33才の時に、藩の命令によって木戸という名字にあらため 明治になって、新しい政府のもとで参議として廃藩置県に力をつくしたり、 欧米を視察して新しい国づくりに役立てた。明治維新で活躍したころには木戸孝允という 名前でよばれていた。木戸孝允は、 1877年(明治十年)に京都で病死、 四十五才だった。

出典:萩温泉旅館協同組合Web


桂小五郎(後の木戸孝允)の生家にて
撮影:堀洋太郎氏


木戸孝允の生家にて
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

■青木周弼(あおき・しゅうすけ)生家

 青木周弼は、1803年(享和三年)に大島郡和田村(今の山口県 東和町)の 医師 青木玄棟 の長男として 生まれた。

 初めは三田尻(今の防府市)の名医能美友庵 ・ 洞庵父子について医学を学ぴ、 のち江戸に出て坪井信道や宇田川榛斎からも 教えをうけた。医学上の名声が高くなって、第十三代藩主毛利敬親に めしかかえられ、明倫館の好生堂 (医学所)の 先生となって西洋医学を広めたという。

 1863年(文久三年)に、六十一才で亡くなった。 周弼は、高杉晋作が十才の時、 疱瘡にかかった際に、 診療した医者としても知られている。

 周弼の弟の青木研蔵も、 藩の西洋医学界の中心となって活躍し明治天皇に医者としてつかえた。研蔵の養子の青木周蔵は、明倫館で学ぴ明治時代には外務大臣となった。

出典:萩温泉旅館協同組合Web


青木周弼の生家にて
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


青木周弼の生家
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8



撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

■鍵曲がり

 夕方、呉服町を後に、私達は平安古地区にある、いわゆる「鍵曲がり」(かいまがり)に向かった。鍵曲がりは、鍵の手に曲がった通路を意味する。



 外敵との戦いの際に、相手の見通しを悪くして、敵の進入を防ぐためものとされている。萩藩では堀内地区に屋敷を構えていた重臣たちは、堀内が手狭になったことから新たに平安古地区に下屋敷を求めた。

 その重臣たちの屋敷を守るために造られたこの平安古鍵曲がりは、堀内地区・追廻し筋の鍵曲とともに城下町特有の街路の姿をそのままに残している。

 夏みかんが実る季節になると、土塀の上から黄色の果実がのぞく風景は、萩ならではの風物、景観となっている。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8


出典:(社) 萩市観光協会公式サイト「ぶらり萩あるき」 


つづく