エントランスへはここをクリック   


<会津若松>
蒲生氏郷と鶴ヶ城

池田こみち 青山貞一
掲載月日:2011年12月27日
 独立系メディア E−wave 無断転載禁

第5次福島県内現地調査〜歴史文化編〜(2011.12.25-27)
@<北茨城>六角堂と岡倉天心 F<会津若松市>蒲生氏郷と鶴ヶ城
A<いわき市>勿来の関 G<会津若松市>蒲生氏郷と茶室・麟閣
B<いわき市>勿来火力の復旧状況   H<奧会津>西会津の冬景色
C<いわき市>岩間の復旧状況 I<奧会津>下郷町の雪風景と大内宿
D<いわき市>漁港の復旧・復興状況 J<奧会津>いつもと変わらない南会津
E<いわき市>豊間海岸と薄磯海岸

 2011年12月26日、会津若松地区の西会津地区における放射線調査が一段落したとき、わずかな時間であるが、吹雪吹く、鶴ヶ城を訪問した。


雪の鶴ヶ城(若松城、黒川城、会津若松城とも言われる)
撮影:池田こみち Nikon CoolPix S10  2011.12.26


雪の鶴ヶ城の三の丸近くの堀
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8  2011.12.26


雪の鶴ヶ城の三の丸近くの堀
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8  2011.12.26

●蒲生氏郷と鶴ヶ城

 15世紀半ば黒川城とその城下が成立していたとされる。戦国時代中後期には、蘆名氏中興の祖・盛氏が出て黒川城を中心に広大な版図を築いた。

 1589年(天正17年)、蘆名氏と戦いを繰り返していた伊達政宗は豊臣秀吉の制止を無視し蘆名氏を滅ぼし黒川城を手に入れたが、政宗は1590年(天正18年)に秀吉に臣従し、会津を召し上げられた。

 正宗に代わり黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年(文禄元年) より大大名に相応しい近世城郭に改造した。また城下町を整備した。1593年(文禄2年)望楼型7重(5重5階地下2階とも、また7重の天守が竣工し、名を「鶴ヶ城」に改めた。

 その蒲生氏郷は当代一流の武人であり政治家であったが、同時に文化人でもあった。とりわけ茶の湯は千利休の高弟として知られるところであった。千利休は氏郷を「文武二道の御大将にて、日本において一人、二人の御大名」と評している。しかしながら、氏郷は40歳で生涯を終えている。秀吉が世を去る3年前のことである。


雪の鶴ヶ城の鉄門近くにて
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8  2011.12.26

 以下は、初代 蒲生氏郷(幼名、鶴千代。 夫人は織田信長の娘、冬姫)の生涯である。

 弘治2年(1556)  近江国日野城主、蒲生賢秀の長男として生まれる。
 永禄11年(1568) 13歳の時、小田信長の人質となり、岐阜城に入る。
 天正10年(1582) 本能寺の変で日野城に信長の一族を守り立て籠もる。
 天正12年(1584) 伊勢の北畠氏攻めの功績で伊勢松ヶ島へ12万石で移封。
 天正16年      松阪城を築く。
 天正18年(1590) 8月、豊臣秀吉とともに黒川(若松)へ入る。会津92万石。
 文禄元年(1592) 黒川を若松と改め城下町を整備。
 文禄2年(1593)  若松城天守閣が完成する。
 文禄4年(1595)  肥前(佐賀県)の名護屋城で病に倒れ、京都の蒲生邸で亡くなる。
 文禄5年(1596)  興徳寺に無縫塔(卵形)が建てられる。


蒲生氏郷像

 蒲生 氏郷は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(ますひで)、または教秀(のりひで)。またキリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン(或いはレオ)。子に蒲生秀行。

 蒲生氏郷、辞世の句
  限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風
  (風など吹かなくても、花の一生には限りがあるので、いつかは散ってしまう。
  それを春の山風は何故こんなに短気に花を散らしてしまうのか)
  まだまだ武将として働いていける。その矢先の死に悔いの残る辞世である。

 以下は、公式ページに見る蒲生氏郷


蒲生氏郷の生い立ち

 政宗のあと、会津は伊勢松坂(三重県)の領主蒲生氏郷(がもううじさと)に与えられました。

  氏郷は弘治2年(1556)、近江国日野城主(滋賀県)蒲生賢秀の子として生まれました。幼くして織田信長の人質となりましたが、その非凡な才能を信長に愛され、娘冬姫と結婚することとなりました。1代の英雄信長が若き氏郷に与えた影響は大きなものであったと思われます。

 その後、秀吉のもとで小牧・長久手の合戦に活躍し、伊勢国松ヶ島(後の松坂)に12万石を与えられ、九州征伐・小田原征伐の功のよって会津40万石、後に92万石の領主となりました。

■文武両道


 氏郷は鯰尾の兜をかぶり、常に先頭に立って敵に突入する勇猛な武将として知られますが、その反面、和歌や宗教に理解のある、安土桃山文化を代表する文化人としても有名です。とりわけ茶道では利休七哲の筆頭にあげられたほどです。

 利休の曾孫江岑宗左の残した、「江岑夏書」(こうしんげがき)では、利休が秀吉に切腹を命じられたとき、自分が京都にいたならば師の利休を死なせるようなことはしなかったものをと、氏郷が口惜しがったことが書かかれてあり、茶の湯を通じた利休と氏郷の交流には興味深いものがあります。

短い生涯

 このように、文武両道に秀でた氏郷は36歳の若さで会津の領主となり、仙台の伊達政宗や山形の最上義光などを抑える要(かなめ)の役割を果たしましたが、文禄4年(1595)2月7日、40歳の若さでこの世を去りました。

 当時の名医、曲山瀬三によれば、死因は下毒症とされていますが、あまりにも若すぎる死にいくつかの謀殺説も伝えられています。辞世は「限りあれば ふかねど花は散るものを心みじかき春の山風」とあり、墓は京都の大徳寺と会津若松市内の興徳寺に残されています。

 氏郷の死後、その子、鶴千代(のちの秀行)が13歳の若さで跡を継ぎますが、慶長3年(1598)幼弱で家中を統率できないという理由で、下野国宇都宮18万石(栃木)に減封されました。氏郷未亡人である冬姫が秀吉の意に従わなかったからとも伝えられています。


つづく