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ガザ地区の基本情報

青山貞一

掲載月日:2009年1月4日
独立系メディア「今日のコラム」特集:ガザ問題


 以下のガザ地区及びガザ(都市)に関する基本情報である。文章系の出典は主にWikipedia、地図系情報は主にGoogle Mapによっている。

 ガザ地区は、パレスチナ自治政府の行政区画である。中心都市はガザである。ガザ地区は、中東のシナイ半島の北東部、東地中海に面して存在する帯状の地域で、パレスチナの一角に位置する。その名称は中心都市であるガザに由来している。約360 km2ほどの地域に150万人が生活している。

ガザ地区
  総面積   360 km2
人口  1,376,289 人
  人口密度  3,823 人/km2

 ガザはパレスチナの都市でガザ地区に位置し、パレスチナ自治区で最大の人口を有する。行政の中心地であるガザには約41万人が存在している。

ガザ(都市)
人口  (2006年現在)
409,680 人


ガザ市街地 Wikipedia


出典:Fuji Sankei Business i 2009.1.5


中東地域におけるガザ地区の位置


イスラエルとパレスチナ(ガザ、ヨルダン川西岸)の位置


ガザ地区の全体

 現在ガザ地区に住む人々の3分の2は1948年の第一次中東戦争によって発生したパレスチナ難民およびその子孫である。この難民問題の解決策は現在も決定していない。

歴史的経緯

1)エジプト・イスラエルによる支配

 1948年にイスラエルが独立し、周辺のアラブ諸国との第一次中東戦争が勃発しエジプトが占領した。1967年に第三次中東戦争が勃発するとイスラエルにより占領され、イスラエル人の入植が進んだ。

2)パレスチナ自治政府

 1993年の中東和平「オスロ合意」によって、ヨルダン川西岸地区の一部と共にパレスチナ自治政府の統治下に置かれた。治安はパレスチナ政府の治安部隊および市民警察軍によって維持されているが、現在も航空管制権と沿岸航行権はイスラエルが保持している。

 1998年、ガザ国際空港が開港したが、2001年にイスラエルにより破壊された。

 また、自治政府発足後も、入植者保護の為にイスラエル軍が駐留し、しばしば空襲(空爆)を行っていた。

 2004年には、シャロン首相のアドバイザー、アルノン・サフェルは「一発のミサイルには十発のミサイルをもって応じる。女性や子どもも死ぬだろう。女性たちが夫にもうカッサム(ロケット弾)を使わないように懇願するだろう。

 ガザに閉じこめられた"2.5 million people"(250万人、原文ママ)は、イスラム原理主義者に影響され、恐ろしい戦争になる。もし我々が生き残りたいならば、彼らを一日中、毎日、殺し、殺し、殺し続けなければならないと発言している。

 2005年8月までにイスラエルは全てのユダヤ人入植地を撤去、9月には全陸軍部隊をガザ地区から撤退させた(分離計画)。しかし、直後に過激派ハマースが選挙で勝利してパレスチナ自治政府の与党の座に就くと、イスラエルは態度を硬化した。

 2006年6月末にはハマース系武装勢力に拉致されたイスラエル兵士1名を救出するため、戦車隊を含む陸軍が侵攻した。その後もイスラエルによる攻撃は断続的に続いている。また、検問所はイスラエルの管理下にあり、ガザ地区は事実上イスラエルに封鎖されている。イスラエル軍による空襲は、その後も続いている。

3) ハマース政府

 2007年6月11日、ハマースがガザ地区を武力で占拠し、パレスチナ解放機構主流派のファタハは「クーデター」と批判した。イスラエルは経済制裁を強化し、再び大規模な侵攻を計画しているといわれている。ファタハ支持者を中心に、ガザ地区から脱出しようとする動きも見られる。ただし、日本では「ガザ脱出へパレスチナ人殺到」と報じられたが、実数では数百人程度で、ガザ地区の人口比としてはそれほどでもないという指摘もある。

 2008年1月9日、米国ブッシュ大統領のイスラエル・パレスチナ歴訪を機に、ハマースはイスラエルへのロケット弾攻撃を行った。イスラエルは報復にガザ地区を完全封鎖し、国連の援助車両さえ閉め出された。1月15日には、イスラエル軍がガザ市街地に侵攻。連日空襲を行っている。1月20日には封鎖により燃料が底を突き、ガザ地区唯一の発電所が操業を停止した。この結果、パレスチナの電力の1/3(イスラエル側の主張によれば、1/4)が供給されなくなった。

 2008年1月23日、エジプトとの国境の町ラファハで検問所近くの壁が爆破され、ガザ住民がエジプト側に流入した。その後も流入は続いており、不足している食糧や燃料を買い求めてガザへ戻る人々が列をなした。エジプト側は、当初は住民への同情もあり、非武装である限り容認した。1月25日に規制を始め、ハマースの同意を得た上で、2月3日に再封鎖された。これは、買い出しの時間的猶予を与えたための措置である。

 イスラエルは2月27日より、ハマース側のロケット弾により犠牲者が出たことへの報復として(ただし、ロケット弾攻撃自体は、イスラエルの空襲で、ハマース側に5人の犠牲者が出たことによる)、空襲を激化させ、さらに3月1日には地上部隊を侵攻させた。

 2月27日より、地上部隊を引き揚げた3月3日までの6日間だけで、パレスチナ側は110人以上、イスラエル側は3人の犠牲者が出ている。イスラエルのバラク国防相は3月2日、「ハマースは対価を払うことになる」と述べ、攻撃を続ける意向を示した。報道によれば、空襲ではサッカーをしていた10〜15歳の少年4人など、未成年者の犠牲者が相次いでおり、イスラエルの無差別攻撃も指摘されている。また、エジプトは負傷者の手当のため、一時的に検問所を開いて往来を認める措置を取った。

 3月6日、アムネスティ・インターナショナル英国支部など、英国8団体によれば、人口150万のうち80%が食料援助に依存。2006年の63%より悪化し、失業率は40%に達するなど、人道状況が1967年の占領開始後で最悪になったとする報告書を発表した。