エントランスへはここをクリック   

革命家 フィデル・カストロ
Fidel Castro
 
青山貞一


掲載月日:2009年1月25日
独立系メディア「今日のコラム」You Tube


特集:チェ・ゲバラ&フィデル・カストロ

青山貞一:ゲバラの生涯を4時間超で映画化「チェ」鑑賞記
青山貞一:
革命家・チェゲバラ 
Che Guevara's Speech At the United Nations(English)
青山貞一:米国の経済封鎖、オバマ大統領は封鎖解除を!
青山貞一:革命家 フィデル・カストロ 
青山貞一:チェ・ゲバラの世界観、国際主義と国連演説
 
革命家 チェゲバラ 新作映画2本
鷹取敦:「チェ」2部作鑑賞記

 
 チェ・ゲバラについて話すとき、忘れてはいけないのはゲバラの盟友、フィデル・カストロだろう。

 日本には、金持ちの象徴的存在として「医者と弁護士」という言葉がある。実はゲバラはもともと医者、そしてカストロはもともと弁護士である。

 だが同じ医者と弁護士でも、彼らは絶えず社会経済的弱者を助ける正義感に満ちた医者であり弁護士であった。


Es discurso de Fidel Castro
演説するフィデル・カストロ Source:AP


Es discurso de Fidel Castro
演説するフィデル・カストロ SourceWorld Press

 下のYouTube動画は民衆を前に演説する、フィデル・カストロ。


Es discurso de Fidel Castro
演説するカストロ Source:You Tube

 以下はフィデル・カストロの略歴と闘争歴(出典はWikipedia)

■フィデル・カストロとは

 フィデル・アレハンドロ・カストロ・ルスは、キューバの前国家元首で政治家、革命家、軍人、弁護士、元アマチュア野球選手、社会主義者である。


Es discurso de Fidel Castro
演説するカストロ


 カストロはアメリカ合衆国の事実上の傀儡政権であったキューバのフルヘンシオ・バティスタ政権をゲバラら倒し、いわゆるキューバ革命を達成、キューバを社会主義国家に変えた。

 カストロは1965年以来、キューバ共産党第一書記。キューバ共和国の前・国家評議会議長兼閣僚評議会議長(首相)である。

■フィデル・カストロの闘争歴

 カストロはスペインのガリシア人移民で裕福な農場主アンヘル・カストロ・イ・アルギツの息子としてマヤリの近くのビランで生まれた。ハバナの私立小学校コレヒオ・ベレンを始めとするイエズス会の学校で教育を受け、野球に熱中した。

 1944年には最優秀高校スポーツ選手に選ばれ、1945年にはハバナ大学に入学、法律を学ぶ。 大学では政治活動に参加、革命反乱同盟(UTR)に加入する。在学中の1948年8年には投手としてメジャーリーグ選抜と対戦、3安打無得点に抑える。

 大学卒業後、1950年〜1952年弁護士として貧困者のために活動する。

 その後カストロはオルトドクソ(保守)党から1952年、議員に立候補、しかしフルヘンシオ・バティスタ将軍の率いるクーデターはカルロス・プリオ・ソカラスの政府を倒し、選挙の結果は無効となった。カストロはその後、憲法裁判所にバティスタを告発した。請願は拒絶され、カストロは裁判所を糾弾する。

 カストロは武装勢力を組織し、1953年7月26日、130名の同志とともにモンカダ兵営(サンティアーゴ・デ・クーバ)を攻撃。攻撃者の80人以上が死に、カストロは逮捕され裁判で、カトリック司教の仲裁で死刑は免れたが、懲役15年が宣告され投獄される。

 カストロは獄中ではホセ・マルティなどを愛読、「歴史は私に無罪を宣告するだろう」を発刊する。1955年5月に恩赦によって釈放され、2ヶ月後にメキシコに亡命、後にアメリカに移り活動を続けた。

 19566年12月2日、わずか60フィートのプレジャーヨット、グランマ号でトゥスパン(ベラクルス州, メキシコ)から他の「7月26日運動(M-26-J)」のメンバー(総勢82名)とともに、マンサニヨ(グランマ州, キューバ)に上陸した。


キューバ全図 Map of Cuba   Source:Google Map

 ※ 地図上、北西部に首都のハバナ(スペイン語ではラァバーナと発音)
    があり、中央に主戦場となったサンタ・クララがある。さらに東端に
    アフガン人、イラク人兵などを人権無視で国際的に非難されている
    米国が強制収容している「米軍のガンタナモ基地」がある。



チェ・ゲバラとフィデル・カストロ
SOURCE: Government of Cuba

 だが日中の上陸であった為、キューバ空軍により攻撃され、激しい戦闘で82人のうちの18人が生き残りマエストラ山脈へ一旦退く。


シエラ・マエストラ山脈
SOURCE: Wikipedia

 そこからバティスタ政府とのゲリラ戦を再開、生存者の中には革命後に閣僚となるチェ・ゲバララウル・カストロ、またカミロ・シエンフェゴスが含まれていた。カストロの運動は民衆の支援を獲得し800人以上の勢力に成長した。

 1958年5月24日にバティスタはカストロの軍に対して17の大隊を送り出した。数字の上で圧倒されていたにもかかわらず、カストロの軍隊は政府軍兵士の多くの軍務放棄によって、一連の勝利を成し遂げた。

 1959年の元日、カストロの軍隊は首都ハバナ近郊に迫り、バティスタと次期大統領カルロス・リベロ・アグエロは国外逃亡し、カストロの軍はハバナを指揮下に置いた。


カストロ(左端)とゲバラ(右端)
SOURCE: Wikipedia