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温故知新:秩父事件
長野から参戦した人々
青山貞一・池田こみち
掲載日: 2012年12月26日
独立系メディア「今日のコラム」
無断転載禁

温故知新・秩父事件 2012.12.20-22
@長野から参戦した人々 C長野から参戦ルート
A佐久における困民軍と政府軍の衝突 D第3のルートで群馬から長野へ
B小海町「東馬流」の古戦場 E南相木村と北相木村

 ひょんなことから私達は秩父の地形と歴史、文化に魅せられ、さらに秩父事件の存在を知る様になって、2009年12月25日から今まで、埼玉県西部にある秩父事件の現場を追って何度となく出かけるようになった。

 以下の論考は、それらの現地調査をもとに執筆した「
温故知新・秩父事件」である。

温故知新・秩父事件 2009.12.25-27
秩父というまち・秩父神社 事件の現場を歩くB半納・石間
秩父というまち・武甲山 事件の現場を歩くC龍勢会館資料
地場産業のちちぶ銘仙 映画「草の乱」について
事件の概要と背景・原因 当時の生糸の生産・流通
事件の現場を歩く@井上伝蔵 自由民権運動と農民蜂起
事件の現場を歩くA椋神社


出典:映画「草の乱」で


椋神社境内にある秩父事件百年の碑。椋神社にて
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 その後も秩父事件に興味を強めるようになり、秩父事件に関連するさまざまな資料が一括管理、展示されている石間交流学習館を訪問した。

 以下はその際に執筆した論考である。

 
秩父再訪(秩父事件資料館) 2010.9.19
池田こみち:秩父を再び訪ねて感じたこと
鷹取敦:秩父を訪れて学んだこと
青山貞一:秩父再訪を敢行して @石間交流学習館訪問
青山貞一:秩父再訪を敢行して A石間交流学習館の展示


石間交流学習館周辺の環境 山間の急斜面に養蚕農家が
張り付くように建っていた
撮影:青山貞一、Nikon Cool Pix S8


石間交流学習館の展示室にて
撮影:鷹取敦 2010.9.19

 以下は、秩父事件の概要を示す。

秩父事件の概要

 秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「
困民党(秩父困民党。秩父借金党・負債党とも)」を組織し、1884年(明治17年)8月には2度の山林集会を開催していた。

 そこでの決議をもとに、請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷(埼玉県秩父市)で代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理(代表)として推挙された。

 蜂起の目的は、暴力行為を行わず、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった。

 自由党解党2日後の10月31日、下吉田(旧吉田町)の椋神社において決起集会が行われ、蜂起の目的のほか、役割表や軍律が制定され(下記参照)、蜂起が開始された。早くも翌11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄した(なお一部には、指導部の意に反して暴力行為や焼き討ち等を行った者もいた)。



五ヵ条の軍律
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 しかし、当時既に開設されていた電信によりいち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、一部汽車をも利用して警察隊・憲兵隊等を送り込むが苦戦し、最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑えたため、11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された。

 一部の急進派は長野県北相木村出身の菊池貫平を筆頭とし、さらに農民を駆り出して十石峠経由で信州方面に進出したが、その一隊も11月9日には佐久郡東馬流(現小海町の馬流駅付近)で鎮台兵の攻撃を受け壊滅した。その後、おもだった指導者・参加者は各地で次々と捕縛された。
 
 事件後、約14000名が処罰され、首謀者とされた田代栄助・加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・菊池貫平・井上伝蔵の7名には死刑判決が下された(ただし、井上・菊池は欠席裁判での判決。井上は北海道に逃走し、1918年にそこで死去した。菊池はのち甲府で逮捕されたが、終身刑に減刑され、1905年出獄し、1914年に死去)。

 なお本事件に関しては、従来は専ら自由民権思想及び松方デフレの強い影響下に発生したと考えられてきたが、近年はそれらに加えて、他の養蚕地域との比較や、上述の国際的環境の影響、秩父地方特有の民俗学的(つまり金昌寺子安観音、出牛という地名等より推認される、隠れキリシタンの存在)状況等に関しても考慮した研究の必要性が高まっている。

 以下は秩父事件時に椋神社で発表された役割表である。

役割                出身           姓名
-----------------------------------------------------
総理               大宮郷        田代栄助
副総理              石間村         加藤織平
会計長              下吉田村       井上伝蔵
会計長             日野沢村       宮川津盛
同兼大宮郷小隊長      大宮郷         柴岡熊吉
参謀長             長野県北相木村   菊池貫平
甲大隊長           男衾郡西ノ入村   新井周三郎
同副               風布村         大野苗吉
乙大隊長           下吉田村        飯塚森蔵
同副 下吉田村 落合寅市 (後に丙大隊長)

出典:Wikipedia
 
 私達は秩父事件に魅せられその後も、幾度となく秩父、奥秩父、長瀞、寄居、皆野など埼玉県西部に出かけることになった。

  

●事件の詳細経過

 秩父地方では、自由民権思想に接していた自由党員らが中心となり、増税や借金苦に喘ぐ農民とともに「困民党(秩父困民党。秩父借金党・負債党とも)」を組織し、1884年(明治17年)8月には2度の山林集会を開催していた。

 そこでの決議をもとに、井上伝蔵をはじめとした請願活動や高利貸との交渉を行うも不調に終わり、租税の軽減・義務教育の延期・借金の据え置き等を政府に訴えるための蜂起が提案され、大宮郷(埼玉県秩父市)で代々名主を務める家の出身である田代栄助が総理(代表)として推挙された。

 蜂起の目的は、暴力行為を行わず(下記「軍律」参照)、高利貸や役所の帳簿を滅失し、租税の軽減等につき政府に請願することであった。


 早くも翌11月1日には秩父郡内を制圧して、高利貸や役所等の書類を破棄した(なお一部には、指導部の意に反して暴力行為や焼き討ち等を行った者もいた)。


出典:映画「草の乱」荒川渡渉の図より
映画、草の乱より
龍勢会館にて
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 しかし、当時既に開設されていた電信によりいち早く彼らの蜂起とその規模を知った政府は、一部汽車をも利用して警察隊・憲兵隊等を送り込むが苦戦し、最終的には東京鎮台の鎮台兵を送り郡境を抑えたため、11月4日に秩父困民党指導部は事実上崩壊、鎮圧された。

 一部の急進派は
長野県北相木村出身の菊池貫平を筆頭とし、さらに農民を駆り出して十石峠経由で信州方面に進出したが、その一隊も11月9日には佐久郡東馬流(現小海町)で鎮台兵の攻撃を受け壊滅した。その後、おもだった指導者・参加者は各地で次々と捕縛された。


撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 事件後、約14000名が処罰され、首謀者とされた田代栄助・加藤織平・新井周三郎・高岸善吉・坂本宗作・菊池貫平・井上伝蔵の7名には死刑判決が下された。

 ただし、井上・菊池は欠席裁判での判決。井上は北海道に逃走し、1918年にそこで死去した。菊池はのち甲府で逮捕されたが、終身刑に減刑され、1905年出獄し、1914年に死去した。




●長野から秩父事件の蜂起に参加した人々

 ところで、秩父事件の蜂起には、秩父から遠い長野県佐久郡北相木村、南相木村、小海などから参加した人々がいた。

 現在の長野県佐久郡北相木村から参戦した菊池貫平と出井為吉は、秩父事件を最後の最後まで闘った勇士としてつとに有名である。

 菊池は埼玉県皆野にあった本陣が解体された後、自ら新たに総理となり坂本宗作、伊奈野文次郎、島崎嘉四郎らとともに現在の長野県佐久郡
小海町東馬流まで転戦している。

 菊池貫平については、以下の動画を見ていただきたい。

★秩父事件、最後まで戦った菊池貫平(ハイビジョンドキュメンタリー)

 以下は、
菊池寛平と井出為吉についての概要である


●長野から秩父事件の蜂起に参加した人々

菊池貫平 (1847・弘化4年生まれ) 
信州南佐久郡北相木村 自由党員 困民党軍参謀長


菊池寛平

 村内屈指の養蚕家であり、代言人でもあった。三沢村の萩原勘次郎から要請を受け、蜂起直前の10月27日に同郷の井出為吉とともに来秩。蜂起に際して「軍律5カ条」を起草し自ら参謀長に就く。「今日を期して全国ことごとく蜂起し、現在の政府を転覆して国会を開く革命の乱」であると秩父事件を捉えているのが特徴。

 11月4日の皆野本陣解体後、自ら新たに総理となって坂本宗作・伊奈野文次郎・島崎嘉四郎らとともに東馬流まで転戦。行方知れずのまま欠席裁判で死刑。 明治19年に甲府で逮捕。憲法恩赦で死刑を免れ北海道で無期徒刑。明治38年に出獄し郷里に帰った。大正3年没。


五ヵ条の軍律 この軍律をつくったのが菊池寛平
撮影:青山貞一 Nikon Digital Camera Cool Pix S8

 
秩父事件の指導者の一人。信濃国南佐久郡北牧村に生まれ,同郡北相木村菊池家に婿養子となる。

 一時岩村田町で代言人となったが,1884年,秩父事件に同村の井出為吉と参加し,困民軍の参謀長となり軍律5ヵ条を起草した。11月3日,皆野において憲兵隊との銃撃戦を指揮し,翌日本陣が解体すると坂本宗作らと山中谷を長駆して信州に入り,600名の農民を集めたが,9日未明東馬流の一戦に敗れ,困民軍は野辺山原で解体した。欠席裁判で死刑。

 出典:コトバンク

井出為吉 (1859・安政6年生まれ)
信州南佐久郡北相木村 自由党員 困民党軍軍用金集方


菊池寛平と井出為吉の像
出典:秩父事件、最後まで戦った菊池貫平(ハイビジョンドキュメンタリー)

 村内屈指の豪農で明治12年に21歳にして村会議員、明治16-17年にかけて戸長と学務委員をつとめた。井出の自宅などからは『仏国革命史』『広議世論』『民権自由演説規範』『欧米政党沿革史』などの膨大な蔵書が発見されており、相当のインテリで積極的な自由民権家であった事がわかる。

 明治17年10月下旬、菊池貫平とともに秩父へゆき秩父困民党に参加。蜂起に際しては軍用金集方となる。商人から軍用金を借りした際、証文に「革命本部」と書いた事は有名。事件後軽懲役8年の判決を受けるが憲法発布の恩赦で出獄し、そののちは教員や役場吏員をつとめた。明治38年死去。

出典:http://www.chichibujiken.org/folder/post-5.html

 
なお、長野県佐久郡小海町の東馬流 における戦闘では、困民軍側の死者は、13名が出ている。以下がその主な戦死者と出身地である。

 長野県佐久郡
  高野町:倉沢 米吉    37歳
       高見沢儀四郎  21歳
       日向 留作    23歳
  大日向:小須田与作    54歳
  小海町東馬流:
       井出ジャウ    30歳

 長野県外
  埼玉県秩父郡風布村:
       大野喜十郎    20歳

 群馬県甘楽郡藤岡市上日野:
      山田鉄五郎    35歳

 また長野県佐久郡で秩父事件に関与し、軍隊・警察に検挙された者は、総数558人に及んでいるが、その内訳は、海瀬10人、高野町44人、穂積2人、小海32人、南相木200人、北相木184人、宿岩15便、その他となっており、佐久郡南相木村、北相木村の者が圧倒的に多いことが分かる。

 
そこで今回は、菊池寛平、井出為吉ら秩父事件に長野から参戦した人々とその出身地域に注目し、2012年12月21日、秩父事件の本陣が置かれた皆野から長野における戦闘の主戦場となった小海町の東馬流まで、その足跡を追った。 


つづく