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初秋の筑前歴史短訪
F道真と太宰府天満宮

青山貞一 
16 September 2010
独立系メディア「今日のコラム」
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西南学院大学に残る 「元寇防塁」  
Aモンゴル帝国(大元)と日本の対応
B蒙古来襲・文永の役と「元寇防塁」
C蒙古来襲・弘安の役と今に残る「元寇防塁」
D博多区に残る秀逸な寺中町と禅寺  
E御笠川河畔の古跡 「濡衣塚」  
F道真と太宰府天満宮
G道真はなぜ神となったか

 2010年9月10日、午前中、西南学院大学で研究発表会などを行ったあと、バス6台に分乗し、太宰府にある九州国立博物館に移動した。ここで菅原道真公についての講話を1時間聞くためである。


私大図書館協会研究発表会にて(2010.9.10)
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10


出典:グーグルマップ

九州国立博物館

 訪問したのは九州国立博物館である。下に外観の写真を示す。パンフレットを見ると、この博物館は菊竹・久米設計共同体の設計、施工監理とのことだ。
 
 だが、博物館の建築場所が太宰府であることからして、写真にあるデザインや色彩はともにただ「奇をてらう」建築であって強い違和感を感じる。

 これは、たとえばポーランドの古都、クラクフに日本が資金援助し建築した日本美術技術センター・マンガでも同じことを感じた。クラクフのセンターの設計は磯崎新氏だ。 ともに日本政府が事業者でありスポンサーである。その意味では
文化庁の見識も疑いたい。 

 菊竹氏は確かに福岡県久留米市の出身だが、出身が福岡と言うだけであり、仲間の黒川紀章同様、「奇をてらう」デザイン。一方、久米の方は、「創立者・久米権九郎は、1920年代にドイツ・イギリスで近代合理主義の建築を学び、日本の近代建築の黎明期に、
豊かで実利的な空間を創造し実現した建築家です」というように、およそこの種の建築設計のコンセプトからはお呼びでないのではないか?

 もちろん、この建築には賛否両論あるだろう。しかし、太宰府のように歴史文化、地域性、自然環境が深くかかわる場所での建築設計に、有名、売れっ子の設計事務所を使うこと自体ナンセンスではなかろうか。


太宰府にある九州国立博物館
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10


太宰府にある九州国立博物館
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10

菅原道真公と太宰府天満宮についての講話 

 ところで、一時間の講話だが、講師の話したい放題である意味でおもしろかったが、この種の講話で演者から拍手や笑いを強要されたのも初めてである。

 講話内容だが、今までに聞いた話も多く、どうみてもこじつけ話もたくさんあるように感じた。まさに「死人に口なし」である。どこまでが事実、真実であり、どこからが作り話、それも面白おかしくするための作り話なのかわからない。せっかく全国各地の「知の殿堂」(図書館)から関係者が集まっての記念講演としては??であった。

 また演者は、オーディエンスが全国の私大図書館の関係者であることで、菅原道真を図書館学の創始者と無理矢理こじつけてくれていた(嗤い)。

記念講演のレジメ

 話のエッセンスは、ちょうど民主党の代表者選挙のまっただなかということもあってか、学者(研究者)であった道真が、なまじ政治(家)の世界に深く首をつっこみ、そこでも出世(右大臣)したために、同僚の高級官僚(左大臣)から妬まれ、そしみを受け、最終的に太宰府の地に左遷させられたという下りは興味深かった。

 講話(記念講演)を聞いた後、私は動く歩道を使って博物館から天満宮に向かった。


博物館から太宰府天満宮へ
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10


エスカレーターで博物館から太宰府天満宮へ 
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10

菅原道真公と太宰府天満宮

 まず、菅原道真について簡単に触れておこう。


菅原道真公像 
出典:Wikipedia

 菅原道真は学問の家に生まれ、右大臣にまでのぼりつめたが、左大臣藤原時平の圧力によって昌泰4年(901)、大宰権帥に左遷された。

 道真の大宰府での暮しは都とはうって変わって侘しいものであった。太宰府で与えられた官舎(南館)は床も朽ち屋根は雨漏りするようなものだった。

 道真は失意のうちにここで2年間を過ごし延喜3年(903)に亡くなった。 その遺骸を牛車に乗せて運んでいたところ、牛が動かなくなり、そこに埋葬した。これは道真がここに留まりたいのだと考えられ、また道真の遺言が、「牛が足を止めた所に葬って欲しい」というものだったとも言われている。

 本来、流罪となったものが死んだ場合、その首を京まで運び死亡確かめることになっていた。しかし、道真は例外であったと。
 
 結局、牛が止まった地が現在の太宰府天満宮のある場所であり、大宰府での住居・南館の地が現在の榎社となったと伝えられている。 後に道真のたたりを恐れ、墓所の上に社殿が建てられた。それが太宰府天満宮である。太宰府天満宮は、別名安楽寺ともいった。

 また道真の怨霊も鎮まったと思われた中世頃から、道真が生前優れた学者であったことにより学問の神として信仰されるようになった。


太宰府天満宮
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10

◆太宰府天満宮
 太宰府天満宮は919年(延喜19年)、左大臣藤原仲平が勅によって社殿造営を行った。数度の炎上を経た1591年(天正19年)に小早川隆景が再建する。五間社流造り、檜皮葺で、正面には唐破風状の向拝が付く、桃山時代の豪壮華麗な様式で、右には飛梅、左には皇后梅が配されており、現在国の重要文化財として指定されている。右に配される飛梅は、大宰府へ左遷された際に菅公を慕って一夜のうちに今日から空を駆けてきたという伝承をもつご神木である。千年以上の時を経た今も毎年その清香の華を咲かせいる。6000本植えられている梅はじめ、大樟や花菖蒲など、菅公を祀る境内は豊かな緑と花に包まれ、四季ごとに美しく彩られている。


太宰府天満宮の楼門
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10


太宰府天満宮の楼門
撮影:青山貞一 Nikon CoolPix S8 2010.9.10

◆楼門
 楼門は重層の入母屋造り、檜皮葺の二重門。全体は朱塗りされ、堂々たる風格にあふれた佇まいがすばらしい。慶長年間(1596〜1615年)に石田三成が再興したが明治時代に焼失、1914年に再建された。

 太宰府では延喜年に御廟が建てられ、その後大宰府官人として赴任した中央貴族たちによって次々と堂宇が寄進され寺院の形が整えられていった。荘園を40ヶ所以上持ち、平安時代の11世紀から12世紀が最盛期であったようだ。

 戦国時代、度々の戦乱に巻きこまれて太宰府の社殿は焼損、荒廃したが、豊臣秀吉の時代、筑前国の領主になった小早川隆景により本殿が再建され、江戸時代も藩主黒田氏によって復興が行われた。 

つづく


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