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江戸の桜名所探訪

城南5山御殿山

青山貞一

掲載日:2015年3月29日
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◆名所探訪・目黒川両岸の秀逸なサクラ
@目黒川に桜見物船  A目黒川沿いに五反田へ  B目黒川沿いに大崎へ  C目黒川沿いの大崎新副都心
D目黒川沿いの東海寺周辺
江戸の桜名所探訪・城南5山 御殿山
@城南5山、御殿山  A御殿山 北品川4  B御殿山庭園  C御殿山と権現山
D明治の鉄道と御殿山  E東海道線沿いに権現山へ  F権現山公園
◆江戸の城南5山探訪 八ッ山・島津山・池田山
@八ッ山、開東閣、ソニー村  A島津山、ソニー資料館  B島津山、清泉女子大  C池田山、旧正田邸跡
 
 目黒川の「サクラ」の次は、江戸時代から城南5山とよばれ品川区内にあります御殿山、島津山、池田山など5つの山(丘)の「サクラ」を歩いてまわり写真を撮影しました。

 城南5山については、すでに目黒川の五反田のところで説明していますが、以下にその概要を再掲します。ただし、以下では歩いた順に山を並べ替えています。

◆江戸時代の城南5山概要

・御殿山
現在の品川区北品川3 - 6丁目付近の高台に相当します。名称は、徳川将軍家が鷹狩の折りに休んだ品川御殿があったことに因んでいます。ここにはミャンマー大使館、原美術館などもあります。

・八ツ山
現在の港区高輪3 - 4丁目付近の高台に相当します。名称の由来については諸説あります。この地に八つの岬があったので「八ツ山」と名づけたという説、八人の諸侯の屋敷があったので「八ツ山」と名づけたという説、この地がかつての谷山(やつやま)村の一部だったことから谷山が「八ツ山」に転化したという説などです。なお八ツ山にはかつて岩崎家の別邸で、現在は三菱グループの施設となっている開東閣があります。

・島津山
現在の品川区東五反田1・3丁目付近の高台に相当します。名称は、旧島津公爵邸に因み、同邸宅は現在清泉女子大学となっています。ブルネイ大使館などもあります。

・池田山
現在の品川区東五反田4・5丁目付近の高台に相当します。名称は、備前岡山藩の池田家の下屋敷があったことに因んでいます。池田山には、池田山公園やねむの木の庭といった公園も整備されており、インドネシア大使館もあります。

・花房山
現在の品川区上大崎3丁目付近の高台に相当します。名称は、明治、大正期の外交官である花房義質の別邸があったことに因んでいます。

出典:Wikipedia

 下が城南5山の位置を示しています。JR五反田駅からJR目黒駅、JR大崎駅、JR品川駅にかけて5山があります。私達の研究所は、御殿山(北品川5丁目)→八ッ山(高輪3丁目)→池田山(東五反田5丁目)→花房山(上大崎4丁目)、その後は品川区旗の台、目黒句大岡山とオフィスを移しています。

 その意味で江戸時代の城南5山は、私達にとって非常に思い出深い場所となっています。


城南5山の位置
出典:グーグルマップ 


御殿山(ごてんやま)

 城南5山の最初は御殿山です。

 御殿山は「目黒川とサクラ」で最後に行った大崎新副都心のすぐ北側からJR山手線の海側の北品川一帯、現在の地番では品川区北品川3丁目、4丁目と5丁目に相当します。

 なお、御殿山地区へはJR品川駅、JR大崎駅以外に京急の北品川駅が最も近い駅となっています。


東京都における御殿山の位置  出典:グーグルマップ


◆江戸時代の御殿山の位置

 下は歌川広重(初代)の東都名所 御殿山花見 品川全図の一部です。多くの絵から構成されており、見づらいのですが、江戸時代の御殿山と北品川宿の位置関係が明確に示されている貴重な資料と言えます。

 下図では右側にサクラ花見の御殿山が描かれ、中央に東海道の北品川宿が見えます。さらに上側には沢山の船が停泊する東京湾が描かれています。


東都名所 御殿山花見 品川全図の一部 歌川広重(初代)
出典:江戸時代の道、第11回、品川区

 以下は、楊斎延一、東京名所「御殿山より品川を望む」、明治32年(1899)です。出典は品川区インターネット美術館です。

 この東京名所「御殿山より品川を望む」(明治32年)と上の東都名所「御殿山花見」の絵(江戸時代)はほぼ似た位置、すなわち御殿山から東京湾を望んだものと推察できます。 


楊斎延一、東京名所「御殿山より品川を望む」、明治32年(1899)
出典:品川区インターネット美術館


◆江戸時代の御殿山の現在の位置

 上の貴重な2つの絵から推察すると、JR山手線の海側にあたる北品川3丁目は江戸時代は御殿山の主要部分を構成していましたが、明治維新以降、とくにJR山手線やその後の京急電鉄の開通により御殿山を地形改変することで山(丘)は大幅に削られています。

 すなわち以下の地図で北品川3丁目と4丁目、5丁目は丘陵、高台として一体のものでしたが、明治以降のJRや京急などの鉄道の軌道を立地する際に、3丁目と4丁目の間の丘陵が削られ、現在の谷とに地形が改変されています。


江戸時代の御殿山相当地区   出典:グーグルマップ

 その結果、現在における「御殿山」は、ミャンマー大使館、セルビア大使館、モーリタニア大使館などの大使館や原美術館など閑静な住宅地、さらに森ビルが開発した御殿山ヒルズ(現在はトラストタワーという高級マンションとマリオットホテル、品川教会、御殿山庭園)などとして再開発されている北品川4丁目さらに「ソニー村」と言われた北品川5丁目地域、さらに上述のJR山手線の海側に当たる北品川3丁目の「権現山公園」あたりが相当するものと推察されます。


江戸時代と現在の「御殿山」の地形断面の変化
 ただし、縦軸はディフォルメしていいます。 出典:青山貞一

 下の衛星写真は現在の御殿山周辺を示しています。鉄道の軌道が東西に御殿山を分断していることがよく分かります。<北品川3>の北に相当する部分に「権現山公園」があります。権現は言うまでも無く徳川家康を示します。江戸時代、この辺は「品川御殿」ともよばれていました。


江戸時代の御殿山相当地区   出典:グーグルアース

 下の写真は「権現山公園」に行くための階段です。当然のことながら、この権現山公園は桜の名所となっています。


北品川3丁目の権現山公園に行くための階段
出典:グーグルストリートビュー


出典:サクラハウジング

権現山公園(ごんげんやま)

 北品川 3-9-5[地図] 江戸時代の桜の名所・御殿山に連なる高台(権現山)に位置する細長い公園。様々な遊具が置かれた遊戯ゾーンと桜の木を中心とした林のゾーンに分かれている。
 
 江戸時代の桜の名所・御殿山に連なる高台(権現山)に位置する細長い公園。様々な遊具が置かれた遊戯ゾーンと桜の木を中心とした林のゾーンに分かれています

出典:「品川大崎地区の公園」、品川区


◆御殿山の歴史

 以下に御殿山の歴史について紹介しますが、御殿山は江戸時代からサクラの名所であったことが、随所の記述からよく分かります。

◆御殿山の歴史

 御殿山(ごてんやま)は、東京都品川区北品川にあり高輪台地の最南端に位置する高台です。城南五山のひとつに数えられます。

歴史
 新編武蔵国風土記稿によれば、太田道灌が江戸城に入る前の長禄年間(1457年 - 1460年)に城を構えて居住していましたたが(御殿山城)、夢のお告げがあったため江戸城に入り、御殿山城には宇多川和泉守長清を配したという伝えがあります(『道灌日記』からの引用)。

 当時は眼下に、浅草湊と並んで栄えた品川湊を見下ろす高台であったそうです。

 徳川家康が江戸城に入ってからは、御殿山城は「品川御殿」と呼ばれ、歴代将軍鷹狩の休息所として、また幕府重臣を招いての茶会の場として利用されていたほか、桜の名所として有名でした。

 下は歌川広重描く御殿山(1836年 - 1843年)です。すぐ近くに東京湾があり、サクラの名所と同時に、東京湾が一望できる江戸時代の名所であったことが分かります。


歌川広重描く御殿山(1836年 - 1843年)

 しかし元禄15年(1702年)2月11日四ッ谷太宗寺付近の出火で青山から麻布御殿へ至り、品川宿でようやく鎮火、御殿は焼失し8月14日に廃されました。

 寛文年間(1661年 - 1673年)から桜が移植され、文政7年(1824年)の『宿差出明細帳写』(品川町史)によると、御殿山の面積は11,500坪(38,016平方メートル)、600本に及ぶ桜の名所として整備されています。

 以下は葛飾北斎が描いた御殿山ですが、ここでもサクラがシンボルとなっています。


葛飾北斎『富嶽三十六景』の「東海道品川御殿山ノ不二」(1832年)

 幕末期には、国防のための台場建設用土砂採取場となり、山の北側(現在の北品川3丁目3番、4番付近 - 北品川4丁目7番東側付近)がえぐられ、窪地となりました。

 開国後の文久元年(1861年)、幕府は英国をはじめ諸外国の公使館を御殿山に建設することを計画しました。しかし、翌年12月12日、完成間近の英国公使館を高杉晋作・志道聞多(井上馨)・伊藤俊輔(伊藤博文)ら尊皇攘夷派13名が襲撃し全焼させました。

 明治期には、鉄道敷設のために御殿山は東西に分断されました。付近には益田孝など富裕者の屋敷が多くありました。

 昭和22年(1947年)1月、前年に創業したソニーが本社を御殿山地区に移転しました。御殿山はソニーの「創業の地」とされ、ソニー本社一帯は「ソニー村」とも呼ばれました。しかし、ソニーの本社は平成19年(2007年)に港区に移転し、その後、御殿山地区の施設の売却が進められた結果、平成26年(2014年)にはソニー歴史資料館等が残るのみとなっています(ソニー歴史資料館については島津山で詳述します)。


ソニー村だったころの品川区北品川地区

 下は消えゆく「ソニー村」という朝日新聞の記事です。地元に近い住民としても、非常に寂しいことでした。

消えゆく「ソニー村」 品川・御殿山、旧本社ビル解体へ
 伊沢友之2014年11月11日20時40分  朝日新聞

19日に解体が始まるソニーの旧本社ビル(手前)。「ソニー村」でソニーが使う建物はいま、左奥のソニー歴史資料館などわずかだ=4日、東京都品川区、朝日新聞社ヘリから、嶋田達也撮影

 東京都品川区の御殿山地区は、かつて大手電機メーカー「ソニー」の根拠地だった。「ソニー村」とも呼ばれたが、それも今は昔。ソニーの衰退に合わせるように、村が消えつつある。

 御殿山地区にある「NSビル」。「SONY」のロゴが取り外され、人の出入りがなくなった地上9階地下1階の建物に、5日、解体工事開始を知らせる標識がつけられた。

 ビルは1990年に完成。かつて、ソニーの本社が置かれていた。今年4月、北隣のビルと一緒に161億円で売却された。解体は今月19日に始まり、来年9月末までに更地になる。ソニーの元幹部は「仕方ないと思うが寂しい」。

 ソニー村は、ソニーの「創業の地」でもある。創業者の故井深大氏らが、創業翌年の47年1月、この地に本社を移した。

出典:Wikipedia

 御殿山は歌川広重や葛飾北斎に何度も描かれていますが、下は安藤広重の『御殿山花盛』です。


安藤広重の『御殿山花盛』    出典:Wikipedia

 下は歌川広重の『御殿山花見』(1840年)です。


歌川広重の『御殿山花見』(1840年)    出典:Wikipedia

 下は、鳥文斎栄之の『御殿山花見』(1791年 - 1797年)」です。


鳥文斎栄之『御殿山花見』(1791年 - 1797年)」    出典:Wikipedia

 なお、江戸時代、御殿山のすぐ前に東京湾があったのですが、その後の埋め立てで大幅に地形が変わっています。

 下は「東京みなと館」館長、大野伊三男氏が書かれた『東京港埋立のあゆみ』にある東京湾の埋め立ての経緯を示した地図ですが、左は1905年時点の東京湾、右はほぼ現在の東京湾です。

 御殿山の地先がすぐ東京湾の海面であることが分かります。現在は埋め立て地の上に東京入管事務所、その南に八潮ニュータウン、さらにその南には巨大に埋め立てられ羽田空港が開発されています。


出典:東京みなと館」館長、大野伊三男氏が書かれた『東京港埋立のあゆみ』、東京都港湾局


つづく