エントランスへはここをクリック   

短訪 平林寺 野火止用水

青山貞一 Teiichi Aoyama 池田こみち Komichi Ikeda

May 15 & December 29, 2015
Independent Media E-wave Tokyo
無断転載禁

 平林寺の「島原の乱 供養塔」から松平信綱一族の霊所・墓所に向かう途中、下の3枚の写真にある「野火止用水」がありました。ただし、下の3枚の写真は2015年12月15日に平林寺に伺ったときのものです。

 春に平林寺に来たときも、野火止用水を確認していましたが、この野火止用水は 、東京都立川市の玉川上水(小平監視所)から埼玉県新座市を通り新河岸川(志木市)に続く用水路を意味します。 別名を伊豆殿堀(いずどのぼり)というように、この用水路は、松平信綱(伊豆守)が川越藩主であったときに行った上水(用水)確保のための用水路建設の名残です。

 この野火止用水の開削の歴史は古く、承応4年(1655年)、上述の徳川幕府老中の松平伊豆守信綱によって開削された用水路で、信綱の官職名をとり「伊豆殿堀」とも呼ばれています。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-12-15


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-12-15


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S8  2015-12-15


◆野火止用水  出典:Wikipedia

 平林寺の南1km付近を流れる野火止用水、延長 25km
 取水元 玉川上水(小平監視所)(東京都立川市幸町)
 合流先 新河岸川 (埼玉県)
 流域の自治体
  東京都 立川市、小平市、東大和市、東村山市、東久留米市、清瀬市
  埼玉県 新座市、朝霞市、志木市

 以下は拝観受付から平林寺に入りすぐ左にある「野火止用水」の解説板です。残念ながら非常に薄暗い場所に銀色のプレートに解説文があります。


「野火止用水」の解説板   出典:埼玉県

 以下は平林寺周辺の野火止用水の位置です。水色の太線が野火止用水の位置を表しています。


出典:平林寺で頂いたパンフレットの上に野火止用水の位置を入れました。

 下は新座市(埼玉県)から東久留米市(東京都)、清瀬市(東京都)に至る野火止用水の位置です。右上のみどり色の部分が平林寺となります。その拡大は上の地図となります。


出典:野火止用水を巡るコース(約8km) 新座市

 野火止用水(のびどめようすい、のびとめようすい)は 、東京都立川市の玉川上水(小平監視所)から埼玉県新座市を通り新河岸川(志木市)に続く用水路です。 別名を伊豆殿堀(いずどのぼり)といます。 かつてはいろは樋をとおって、旧宗岡村にも水を送っていました。


開削
 
 多摩地域には関東ローム層の乾燥した武蔵野台地が広がり、生活用水に難渋する乏水地帯の原野でしたが、近世には江戸幕府開府に伴い用水確保のため江戸近郊の開発が加速しました。

 承応2年(1653年)、幕府老中で上水道工事を取り仕切っていた川越藩主松平信綱は、多摩川の水を羽村から武蔵野台地を通す玉川上水を開削しました。

 その後、玉川上水から領内の野火止(新座市)への分水が許され、承応4年(1655年)に家臣の安松金右衛門と小畠助左衛門に補佐を命じ、野火止用水を作らせました。

 工期は40日、費用は3000両でした。玉川上水7、野火止用水3の割合で分水しました。主に飲料水や生活用水として利用され、後に田用水としても利用されるようになりました。

 開削に前後して川越藩では農民や家臣を多数入植させ、大規模な新田開発を行いました。野火止用水の開削によって人々の生活が豊かになったことを信綱に感謝し、野火止用水を信綱の官途名乗りである「伊豆守」にあやかって伊豆殿堀と呼ぶようになりました。
 
 新座市立野寺小学校の校歌には「めぐみの水よ 伊豆堀よ」という歌詞があるほか、他市立小学校でも「智慧伊豆の流れを汲んで」と、信綱(と安松らの功労者たち)の人柄や向学心を歌詞とした校歌が歌われています。


平林寺の南1km付近を流れる野火止用水
出典:Wikipedia

水質の劣化と改善

 戦後に入り生活様式が変化すると野火止用水は次第に本来の役割を失い、生活排水が用水に入るようになります。

 特に1963年から周辺の宅地化が進行したため水質汚染が激しくなりました。1964年、関東地方が旱魃に見舞われたために東京が水不足となり、分水が一時中止されます。

 1966年、再度通水されるようになりますが、水量が制限されたため水質汚染は改善されず、1973年には、東京都の水事情の悪化によりついに玉川上水からの取水が停止されてしまいます。それに伴い用水路の暗渠化が進みました。


野火止用水、再生の動き

 埼玉県と新座市は文化的業績の大きい野火止用水を滅ぼしてはならないと「野火止用水復原対策基本計画」を策定して、用水路のしゅんせつや氾濫防止のための流末処理対策を実施し、東京都の「清流復活事業」により1984年、高度処理水(下水処理水)を使用して水流が復活しました。

  流域に住むボランティアによる清掃活動もしばしば行われています。そのため現在では鯉が泳ぐほどの清らかな流れを保ち、流域住民の憩いの場となっています。

 歴史的にも貴重な野火止用水をよみがえらせようとの住民の機運が高まり、東京都により昭和49年(1974年)に隣接する樹林地とともに歴史環境保全地域に指定され、下水処理水をさらに浄化した高度処理水を流水に活用する「清流復活事業」を実施し、昭和59年(1984年)に野火止用水に流水がよみがえり現在に至っています。

 小平グリーンロードの一部でもある野火止用水は、春の富士見橋付近の桜や新緑の頃の野火止用水沿い樹林地など、身近でありながら四季折々豊かな自然を感じることのできるポイントが数多く点在しています。ぜひ一度、野火止用水の散策にお出かけください。

 そして、緑豊かな美しいまちづくりのためにも、皆さんの力でこの貴重な野火止用水と緑を美しい姿で後世に残してもらいたいものです。


 以下は新座市の公式Webにある野火止用水をあるくくです。

 ※野火止用水をあるく 新座市


 また、以下は「高等小学校読本 巻1」にある野火止の用水の部分です。以下では、松平信綱や平林寺との関連についても記されています。







出典:『高等小學讀本. 卷1』教科書に紹介された野火止用水、国立国会図書館

 なお、寺寶古文書十六通、新編武蔵風土記稿には、(野火止宿)平林寺そして野火止塚に関連し以下の論考がありました。

◆(野火止宿)平林寺

 境内六萬坪余、金鳳山と号し臨済宗にて京師妙心寺の末山なり、寺領五十石を賜へり、境内のめぐり多磨川分水を引て限れりといへり。寺の後の方は喬木をひしけりて山野の如し、是を上山と唱ふ。当寺はもと埼玉郡平林寺村に在てことに古刹なりしが、寛文の頃此地へ移れり。

 寺傳云永和元年春桂庵主此寺を岩槻に草造し、石室和尚をこふて開山とすと、按に高僧傳云、釋善玖、字石室、不詳姓氏、筑前人、文保犬午與古先元無涯浩等、同船入元一時禅匠無不薮其門、久参古茂和尚千金陵鳳臺遂稟許印嘉歴之初諧諸友東帰住義堂紹海相得友、従応安元年六月、遷建長住持、六年搆金龍庵於福山側解印而居、(中略)永和元年檀越建平林寺於武州巌槻、延玖為開山、始祖康應元年九月二十五日化于所住、春秋九十六云々、当寺始は堂舎も荘厳なりしが、後次第に衰へゆき、ことに関東の地年を経てをだやかならずしばしば戦争の場となりしかば、僧侶もこれが為に所を失ひ、住持すべきものあらざれば、或は断或は続て堂社子院もただ破滅の患をまぬかれしのみなり、天正の頃に至り泰翁善治といへる人住職たり、此禅師は北條の舊臣恒岡越後守が舎弟なり、兄の越後守は永禄九年の秋、上総国三船の臺の合戦に、太田源五郎氏資と共に討死せり、されば身は佛門に入ながら、戦国のならひにて武事に預り、兵卒を率ひたり。

 その頃安首座と書したる北條家の文書あり、今も当寺に所蔵せるは此禅師へ賜りしなり、此に住せし年月は詳かならざれど、遷化ありしは天正十九年なり、後つくべき者なかりしかば、東照宮の命により、駿河国臨済寺の住僧鐵山和尚をまねき下し住職をつかしめ給ひ、御朱印をも賜ふべきよしなりしが、鐵山固く辞し奉れり、其心におもへりしは、もし寺料あまた賜はらば、僧徒衣食の便を得て、勧業もをこたりなば却て道も衰へゆかんと、其志はさることなれど、年歴て後寺領なくば衰廃せしことを、深くなげき思召、再び塔頭聯芳軒の住持謙叟和尚をめし、強て御朱印を賜ひしとなり、鐵山名鈍元和三年十月八日寂し、靈光佛眼禅師と諡せり、夫より世を経て寛文の初石院和尚住職たりしとき、松平伊豆守信綱此寺を今の地へ移すべきの企てありしかど、それも果さずして同き三年に至り、其子甲斐守輝綱、父の志を継てやがてここに移し来り、父信綱を初め悉く改葬せり、此より寺領をも改めて村内西堀村にて賜へりて。

出典:寺寶古文書十六通(古文書詳細省略)


◆旧蹟野火止塚


 今平林寺境内あり、径十間、高さ五間余なり、此塚を野火留といへるは、伊勢物語に云、昔男ありけり、人のむすめをぬすみて武蔵野へいてゆく程に、ぬすびとなりければ国の守にからめられにけり、女をば草村の中にかくし置て逃にけり、みちくる人此野をぬすひとあなめりとて、火つけんとす、女佗て武蔵野はけふはなきぞ若草の、夫もこもれり、吾もこもれり、とよみけるを聞き、女をばとりてともにゐでに行にけりと、是はこのあたりなるよしいへり、此説のごとき全く此物語により、後の世よりいひも傳へ物にも記したれど、もとよりあとなき事なり。

 されど其説の起りしも、又近き世のこととはおもはれず、回国雑記に云このあたりに野火止の塚といへる侍り、けふはなやきそと詠ぜしによりて、烽火忽ちにやけとまりけるとなん、それよりこの塚を野火止と名け侍るよし、国の人申侍りければ、若草の妻もこもらす、冬さればやがてもかるる野火止の塚と云々、此後の事は古き書にも見あたらざれど、正保の頃の国図にも、原野の内に此塚突出して、立るさまを載たり、是は当寺此所に移らざる前なり、又此塚を土人九十九塚ともいへり、業平の百とせに、一とせたらぬつわも髪われやこふらん面影に見ゆ、とて、歌より起りたるなどいへば、弥付会の著しき瓣ずるにたらず、又当寺この地へ移りし時、固よりこの所は山野なれば、すくもなど掃き集め、かき上たる故、塚も一段高くなりけることなれば、すぐも塚なるを誤り唱へて、つくも塚といへりと、是は又当寺開けしより後のことといへば、尤近き世のことなれど、野火留塚の名はもとよりありて、後すくもなど積あげしかば、別にすくも塚と唱へしといへば、さもありしにや。

出典:新編武蔵風土記稿


つづく