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池上本門寺再訪
    

 (東京都大田区)


2.本門寺と日蓮

青山貞一・池田こみち・ 斉藤真実
April 〜May, 2018  独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁

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 塔頭D 妙雲寺、養源寺、照栄院、長勝寺、山光寺、善慶寺
 先に進む前に池上本門寺と日蓮について概要を紹介しておきましょう!

本門寺の概要



 池上本門寺の寺格は大本山、山号を長栄山、院号を大国院、寺号を本門寺とし、古くより池上本門寺と呼ばれてきました。また日蓮入滅の霊場として日蓮宗の十四霊蹟寺院のひとつとされ、七大本山のひとつにも挙げられています。


池上本門寺と境内(一部)
出典:Wikimedia Commons


池上本門寺のソメイヨシノ  2018年3月25日
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900


  本門寺の宝塔  左が斉藤真実、右が池田こみち
  撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900  2018-4-4

本門寺の歴史

 池上本門寺は、弘安5年(1282年)9月8日、病身の日蓮は身延山(甲斐、山梨)を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かいます。9月18日に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着。生涯最後の20数日間を過ごすこととなります。

 同年同月に、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源と言われています。

 同年10月13日に日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれ、以来「池上本門寺」と呼びならわされています。その後は日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承しました。

 池上氏館の居館部分は本門寺西側の谷の一帯にあったと考えられており、現在は、1276年(建治2年)建立された池上氏館内の持仏堂(法華堂)を起源とする本門寺の子院・大坊本行寺の境内となっています。

 本門寺は、鎌倉・室町時代を通じて関東武士の庇護を受け、近世に入ってからも加藤清正や紀伊徳川家等諸侯の祈願寺となり栄えました。

 江戸時代、不受不施派を奉ずる本門寺は、身池対論を経て久遠寺の傘下に収まりました。第二次世界大戦の空襲によって五重塔、総門、経蔵、宝塔を除く堂宇を焼失しましたが、戦後順次復興しています。

◆池上本門寺の考古学

 池上本門寺には多数の近世(江戸時代)の墓所が分布し、狩野探幽墓所などは文化財指定を受けています。2002年(平成14年)から2003年(平成15年)には、重要文化財五重塔の解体修理に伴い、塔周辺の墓地整理が行なわれました。

 大名墓として、米沢藩上杉家圓光院殿墓所、肥後熊本藩細川家清高院殿及び高正院殿墓所の3墓所、また奥絵師狩野家の4家(仲橋狩野宗家、鍛冶屋町狩野、浜町狩野、木挽町狩野)の1つ、木挽町狩野家2代目狩野養朴常信墓所、3代目狩野如川周信墓所、9代目狩野晴川院養信墓所の3墓所の発掘調査が、立正大学の坂詰秀一教授を団長に、本門寺と大田区教育委員会、立正大学考古学研究室により実施されました。

 調査により、近世墓の上部構造と下部構造が考古学的に解明されまし。特に下部の埋葬施設に関しては調査例が僅かであり、重要な調査成果と評価されている。墓所は解体修理された後、若干位置を移動され、現在は補強の上復原整備されています。調査成果は発掘調査報告書として刊行されました。発掘調査報告書は、本門寺霊宝殿受付にて購入可能です。

 紀州徳川家内室の墓所西側に南北方向に走る土手があり、池上氏館居館部分の土塁と考えられています。徳川家墓所に面した土塁東側斜面の一部には、墓所造営に伴うと見られる石垣で覆われています。

 大田区教育委員会によると、宝塔及び徳川氏墓所、大坊本行寺を含む台地西側の谷一帯は、池上氏館の根小屋(居館部分)であり、土塁は根小屋に付随する遺構と考えられています。


紀州徳川家内室の墓所
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018年4月4日


紀州徳川家内室の墓所と灯籠
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018年4月4日
 
出典:Wikipedia

日蓮

 日蓮(貞応元年(1222年)2月16日[2] - 弘安5年(1282年)10月13日は、鎌倉時代の仏教の僧。鎌倉仏教のひとつである日蓮宗(法華宗)の宗祖です。

 滅後に皇室から日蓮大菩薩(後光厳天皇、1358年)と立正大師(大正天皇、1922年)の諡号を追贈されました。


日蓮
出典:Wikimedia Commons


木造日蓮聖人坐像(国の重要文化財)
出典:Wikimedia Commons


池上での入滅図
出典:Wikimedia Commons

立正安国論

 日蓮が文応元年(1260年)7月16日に得宗(元執権)北条時頼に提出した文書が立正安国論です。

 日蓮は、相次ぐ災害の原因は人々が正法である法華経を信じずに浄土宗などの邪法を信じていることにあるとして対立宗派を非難し、このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けると唱え、逆に正法である法華経を中心とすれば(「立正」)国家も国民も安泰となる(「安国」)と主張しました。

 その内容に激昂した浄土宗の宗徒による日蓮襲撃事件を招いた上に、禅宗を信じていた時頼からも「政治批判」と見なされて、翌年には日蓮が伊豆国に流罪となりました。この事は「教えを広める者は、難に遭う」という『法華経』の言葉に合う為、「法華経の行者」としての自覚を深める事になりました。

 しかし、時頼没後の文永5年(1268年)にはモンゴル帝国から臣従を要求する国書が届けられて元寇に至り、国内では時頼の遺児である執権北条時宗が異母兄時輔を殺害し、朝廷では後深草上皇と亀山天皇が対立の様相を見せ始めました。

 日蓮とその信者は『立正安国論』をこの事態の到来を予知した予言書であると考えるようになったのです。日蓮はこれに自信を深め、弘安元年(1278年)に改訂を行い(「広本」)、さらに2回『立正安国論』を提出し、合わせて生涯に3回の「国家諫暁」(弾圧や迫害を恐れず権力者に対して率直に意見すること)を行いました。


つづく