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池上本門寺再訪
    

 (東京都大田区)


22.塔頭C

東之院、安立院、法養寺、永寿院、心浄院

青山貞一・池田こみち・ 斉藤真実

April 〜May, 2018  独立系メディア E-wave Tokyo 無断転載禁

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 塔頭@ 塔頭とは、本行寺
 塔頭A 実相院、真性院、西之院、厳定院、南之院、理境院
 塔頭B 覚源院、本成院、本妙院、常仙院、中道院
 塔頭C 東之院、安立院、法養寺、永寿院、心浄院
 塔頭D 妙雲寺、養源寺、照栄院、長勝寺、山光寺、善慶寺

・蓮華山東之院 旧本山:池上本門寺 法縁:池上芳師法縁
 蓮華山東之院、〒146-0082 東京都大田区池上1丁目7ー7


出典:グーグルマップ


東之院の概説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


出典:猫の足あと


東之院の本堂前にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


東之院の庭園
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


出典:グーグルマップ

・東之院の概要
 日蓮宗寺院の東之院は、日蓮聖人が池上宗仲公の館に逗留されていたとき、直弟子日興聖人の庵室として創建されたと伝えられ、その弟子日法聖人を開山とします。

・東之院の縁起
 東之院は、日蓮聖人が池上宗仲公の館に逗留されていたとき、直弟子日興聖人の庵室として創建されたと伝えられ、その弟子日法聖人を開山とします。

・池上の寺めぐりによる東之院の縁起
 弘安5年(1282)日蓮聖人の直弟子日持聖人の庵室として開創。東之坊とよばれた。江戸末期に池上本門寺総門の外、本成院の向かいにあった玄理坊と合併。玄理坊は貞享年中(1648-1688)の創建で古くは辻之坊とよばれた。天保12年(1841)雑司が谷の感応寺が廃寺となったとき、その余材を貰い受けて現在地に再興された。
再建に際し、徳川一橋家の奥女中などの加護、寄進を受けたので、一橋池の題目堂ともよばれた。(池上の寺めぐりより)

出典:猫の足あと


慈性山安立院 旧本山:池上本門寺 法縁:池上芳師法縁
 〒146-0082 東京都大田区池上1丁目7ー10


出典:グーグルマップ


安立院の概説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


文と写真の出典:猫の足あと 


安立院の本堂
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


安立院の紋章
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


安立院の本堂前にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


小町草が見頃でした。
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


安立院の庭にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16

・概要
 安立院は、日澄聖人の開創で、開創当寺は池上本門寺裏門の前にあり上之坊と称していました。

・縁起
 「池上の寺めぐり」による安立院の縁起
元応2年(1320)以前の開創。池上本門寺2世日朗聖人の直弟子日澄聖人の開創。もとは池上本門寺裏門の前にあり上之坊と称した。日澄聖人は池上宗仲公が館を寄進して大坊本行寺を建立したとき、招かれて事実上の開山となり、上之坊を弟子の日恩聖人に譲った。後に荒廃したが、元治元年(1864)池上本門寺54世日英聖人により再建された。隣接の自證坊を江戸期に合併したと伝えられる。(池上の寺めぐりより)


・勧明山法養寺 旧本山:池上本門寺 法縁:小西法縁
 勧明山法養寺、現住所 東京都大田区池上1-19-25


出典:グーグルマップ


法養寺の概説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


法養寺の山門前にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


法養寺の文化財
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


出典:法養寺公式Web

・法養寺の概要
 日蓮宗寺院の法養寺は、勧明山と号します。法養寺は、池上本門寺12世日惶上人が開山となり天正6年(1578)神田三河町に創建、慶長年間に下谷稲荷町へ移転、江戸時代には江戸城西御丸と大奥の祈祷所となり「わら店の法養寺」と呼ばれたといいます。明治43年(1910)当地にあった妙教庵と合併、翌年当地へ移転したといいます。

・法養寺の縁起
 法養寺は、池上本門寺12世日惶上人が開山となり天正6年(1578)神田三河町に創建、慶長年間に下谷稲荷町へ移転、江戸時代には江戸城西御丸と大奥の祈祷所となり「わら店の法養寺」と呼ばれたといいます。明治43年(1910)当地にあった妙教庵と合併、翌年当地へ移転したといいます。

・池上の寺めぐりによる法養寺の縁起
 天正十五年(1587)頃、神田三河町に開創。慶長年間(1596-1615)幕命により下谷稲荷町に移転。江戸城西御丸と大奥の祈祷所となり「わら店の法養寺」とよばれた。また、境内に熊谷稲荷大明神を祀り、江戸市中の信仰を集めた。

 明治四三年(1910)当地にあった妙教庵と合併し、翌年この地に移った。妙教庵は、もと当地にあった蓮光坊が荒廃したため九代将軍徳川家重に仕えた妙教尼が寛保三年(1743)に再興した寺である。(池上の寺めぐりより)

・御府内寺社備考による法養寺の縁起
 池上本門寺末 下谷不唱小名
勧明山法養寺、境内古跡拝領地千五百坪余
起立天正六戊寅年、本山十二代日惶上人之代。

 拙寺儀は
 両御丸大奥御祈祷所ニ御座候ニ付、正、五、九月御祈祷、御巻数御洗米御供物料両御丸江献上仕候。壱ヶ年六度、甲子大黒天御祈祷御洗米 両御丸江献上仕、二月初午、九月廿二日稲荷大明神祭礼御祈祷御札御洗米両御丸江献上仕、十月祖師日蓮大士会式法要之御供物料公方様江献上仕来候。例年右之通り之格式ニ御座候。
将軍 宣下并 若君様御誕生御祝儀、御能御座候節は拝見被 仰付候。御吉例御座候。依之朝夕天下泰平御武運御長久之御祈祷相務め奉申上候。開山妙経院日等、慶長十八癸丑年五月十二日遷化。
本堂
本尊中央題目
釈迦、長ヶ一尺三寸坐像。上行。無辺行。浄行。安立行。文殊、長ヶ八寸五分坐像嗣子ニ乗。普賢、長ヶ八寸五分象ニ乗坐像。持国天。昆沙門天。広目天。増長天。不動明王。愛染明王。鬼子母神。十羅剃女、木立像長ヶ各八寸五分ツツ十躰。日蓮大士之像。
右は
高巌院様御建立之尊躰ニ御座候。子安妙見大士、丈ヶ二寸五分立像琢磨法眼作ト云。
右銘文左之通。(中略)
御祈祷堂、三間ニ五間。
熊谷稲荷大明神木像。
宗庵権現木坐像。
三十番神同 別堂有之候処、明和九年類焼後再建不仕候。
大黒天木立像
鬼子母神同
右、鬼子母神之儀は
有徳院様御感得被為 在候。
惇信院様於 西之御丸御疱瘡被遊候節、御祈祷被仰付に付、御奉納被遊候、尊躰御座候。尤御祈祷堂、葵 御紋附之戸帳水引之儀は、享保十八丑年二月竹姫君様御祈祷被 仰付候節、御寄附被 遊候。則安永二巳年、寛政二成年 御紋御改之節、奉蒙御免許候。
釈尊捏磐像。
右は寛文三年
天真院様御寄附被遊候。絹地惣縫地像ニ御座候。釈尊之羅髪は則
天真院様御前髪を以、被為縫候由申伝候。
地中二坊
実相坊。間坊主実相坊日性、元禄六酉年九月七日卒。本尊釈迦 多宝。
要仙坊。開坊主要仙坊日逞、元禄七戌年五月十一日卒。
右、要仙坊は明和九辰年類焼後未普請不仕候二付、本尊釈迦多宝は本院江願置候。
以上丙戊書上(御府内寺社備考より)

合寺された妙教庵の縁起
・妙教庵

 内膳山の南、永壽院の隣なり、妙教比丘尼と云もの寛保三年に創立せり、この尼はもと御城につかへ奉りしものなりしが、後に薙髪して妙教と號し、惇信院殿の尊體御安穏御武運長久を祈奉らんがため、庵室を建立せしと云、時にこの地は蓮光坊と云塔頭ありしが、享保よりこのかた荒廃して、又再興するものもなければ、荊棘の地となりしを、妙教力を盡して庵室をおこし、法華経一部を書写して寶塔に納め、三寶祖師の像を安置して、永く天下安全を祈りけるとなり、これによって両山第二十六世日芳上人妙教庵の號をさづけて、いよいよ信心懈らざりしとぞ、今不動明王の像、及び開基清信院妙教日理尼の像を安ず。(新編武蔵風土記稿池上村項より)

出典:猫の足あと


・不変山永寿院 旧本山:池上本門寺 法縁:池上神楽坂法縁
 〒146-0082 東京都大田区池上1丁目19ー10


出典:グーグルマップ


永寿院の概説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


永寿院の門
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


永寿院の入口(門)
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


永寿院本堂の前の青山貞一
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


永寿院の本堂
出典:大田区教育委員会


永寿院の紋
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


・永寿院概要
 寛永年間後半(1630年代)、本門寺16世 心性院日遠聖人の隠居所として開山。関ヶ原の戦いでの軍功により、徳川家康に仕えた大名、備中庭瀬藩主 戸川逹安(とがわみちやす)が下屋敷を寄進したと伝えられており、逹安の法名「不変院殿覚如日真大居士」に因み山号は「不変山」といいます。

 堂宇が完成したのは、日遠聖人の弟子 日東聖人(本門寺17世)によるもので、当初は日東聖人の法号に因み「蓮乗院」とよばれていました。その後、お万の方の方の孫芳心院(紀州徳川順宣の娘、鳥取藩主池田光仲の妻)の帰依を受け「永寿院」と改称。揚羽蝶の寺紋も池田家からたまわったといわれています。

 宝永5年(1708)に没した芳心院の墓所は、造営に一万両はかかったであろうとの風説から通称「万両塚」といわれています。

出典:不変山永寿院公式Web

・永寿院の縁起

 永寿院は、戸川肥後守から下屋敷の寄進を受けた池上本門寺16世日遠聖人が開基となり、池上本門寺17世日東聖人(蓮乗院)が堂宇を建立したといいます。紀州家初代徳川頼宣の娘(芳心院殿)の帰依により、永寿院と改称したといいます。

・池上の寺めぐりによる永寿院の縁起
永寿院

 寛永十九年(1642)以前の開創。備中庭瀬藩主戸川逵安が本門寺十六世日遠聖人に帰依して自らの下屋敷五千坪を聖人の隠棲地として寄進し、日遠聖人の弟子日東聖人(本門寺十七世)により堂宇が完成した。当初は日東聖人の院号にちなみ蓮乗院とよばれた。その後、お万の方の孫芳心院(紀州家初代徳川頼宣の娘、鳥取藩主池田光仲の妻)の帰依を受け、永寿院と改称。宝永五年(1708)に没した芳心院の墓所は「万両塚」とよばれている。(池上の寺めぐりより)

・新編武蔵風土記稿による永寿院の縁起
永寿坊

 御廟山の南方にあり。もと蓮乗院と呼ぶ。両山第十六代日遠上人の開基なり。その地はもと檀越戸川肥後守が下屋敷なり。日遠隠室造立のために寄附せし所なり。しかるに紀州南龍院殿の御実母養珠院殿大野本遠寺、紀州養珠寺の御建立あって、開山に日遠上人を招待せられけるにより、日遠は本門寺を弟子日東へ譲り、且当所庵室造立のことを託す。よって蓮乗院日東当院を立、故に人呼で蓮乗院といふ。後当院第六世日秀の時養珠院殿の御帰依ありし日遠の開基なるを以て、南龍院殿の御愛女因幡守光仲室、芳心院殿帰依し給ひ、その弟子永寿丸と申せしが多病なりしを、本門寺の祖師へ祈請をたて、もしつつがなく生長あらんには出家なさしむべしとありしに、其願むなしからず、人と也けれど、其剃髪を惜み永寿丸の代として観成院日遥を猶子とし、やがて当院へ住職せしめたり。其時芳心院殿より永寿院の号を賜へり。これ永寿丸を出家なさしむべしとの、願望にそむかざるの心とぞ聞えける。さて又芳心院殿より、寺院永代相続の料として米十二石と、月俸若干を寄附せらる。又紀州殿よりも月俸を賜へりとぞ。されば当院は戸川肥後守を開基の大旦那とし、芳心院殿を中興開基とす。本尊三寶祖師を客殿に安置す。又芳心院殿感得の立像釈迦佛あり。その絵日遠、日東等の曼荼羅数幅あり。(新編武蔵風土記稿池上本門寺項より)

出典:猫の足あと

 永寿院の南端、地上約33mの丘の頂上に、紀伊徳川家芳心院の墓所があります。

※ 芳心院墓所(万両塚)


出典:大田区教育委員会
 ー墓の主はよほど蛇が嫌いの俗説、を生んだ、堀を巡らした万両塚・永寿院ー


紀伊徳川家の万両塚、芳心院墓所(万両塚)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16



紀伊徳川家の万両塚、芳心院墓所(万両塚)
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16

 以下はグーグルマップの衛星写真で見た芳心院墓所(万両塚)です。


グーグルマップの衛星写真で見た芳心院墓所(万両塚)


永寿院 万両塚
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


※ 万両塚 芳心院墓所(万両塚)

 「万両塚」という呼称は、建設費が一万両に及んだとの俗説から生じた芳心院墓所の俗称である。

 この万両塚は「芳心院墓所(俗称万両塚)」として大田区史跡に指定されているが、その説明にもこの俗説が紹介されると共に、周囲に空堀を巡らすその姿も「堀溝は現在空堀になっているが、旧幕時代には常時水がたたえられていた。これは芳心院が、生前蛇嫌いであったため、没後も蛇を遠ざける目的であったと伝えられている」と紹介されている。

 そもそも蛇は泳げる動物なのであるが、この伝承のため、地元の人の中には芳心院を「ヘビヒメ」と呼称している方も多い。

 万両塚の堀溝は、保存整備に伴う発掘調査の結果、当初から空堀であったことが確認されており、もとより蛇を遠ざけるためのものとは考えがたい。
また、万両塚は芳心院の没後に造営されたものではなく、生前に自らが建設した寿塔であることも、誤認されている。

 このような「万両塚」の名称や俗説がいつ頃生じたかについては定かではないものの、もとより
鳥取藩の記録には見られず、江戸期においては、永寿院の寺伝として芳心院の逆修塔(寿塔)であることが、明確に伝えられている。
また、少なくとも戦前までの本門寺の記録や縁起書にも一切見ることができない。

 しかしながら、この俗説や俗称は、地元である池上に深く根付いたものであることは確かである。池上山上で唯一ともいえる、広大な墓域と巨大な石材を多用するこの特異な墓所の姿が、庶民の目に如何に奇異に映り、かつ鮮烈な印象を与えていたかを、この伝説は我々に示しているのである。

出典:永寿院公式Web

※ 芳心院の生い立ちと略伝

 芳心院は紀州藩祖徳川頼宣の第一女。名を茶々姫といい、鳥取藩祖池田光仲に嫁したことから因幡姫とも呼ばれる。寛永8年(1631)9月22日生まれ。出生地については、池田家の史料では江戸紀州藩邸にて生まれたとあるが(註1)、紀州家記録である『南紀徳川史』からは、紀州にて生まれていることが窺われる。母は加藤氏(瑶林院)。生母は側室中川氏(理真院)である(註2)。

 芳心院は寛永10年7月5日に母加藤氏(瑶林院)とともに江戸へ下向し、以降は江戸紀州藩邸にて生活する(註3)。正保2年(1645)4月18日に池田光仲に嫁し、同4年12月22日に光仲との間に綱清(鳥取藩二代藩主)を、慶安3年(1650)10月11日には仲澄(鳥取支藩新田藩祖)を設けている。

 芳心院は光仲と共に池田家上屋敷にて生活したが、実父である紀州頼宣より頂戴した渋谷の屋敷(隠田屋敷)も所有していた(註4)。貞享2年(1685)に光仲が隠居するに伴い、翌3年4月19日、池田家上屋敷より芝金杉の下屋敷に移る(註5)。

 元禄6年(1693)7月7日、国元において光仲が歿すると、「池上本門寺の聖人」を芝の屋敷に招じて落飾するが、芳心院はその髪を使者の託して鳥取に送らせ、光仲葬送時に光仲棺上へそれを供えている(註6)。また、芳心院妙英日春の法号は、万治3年(1660)以前に授けられていることが確認できるものの(註7)、藩内では光仲歿後の落飾時より芳心院君と呼称されるようになった。

 光仲歿後の芳心院は、芝の屋敷にあって大きな存在感を示していた。長年にわたって芳心院に仕えた年寄藤枝(藤衛)の甥など、芳心院の「御頼」にて仕官した人物は、池田家文書『控帳』(註8)や『因府年表』に特記され、数人が確認できる。中でも、史料上芳心院との関係は未詳なものの、光仲生前の貞享4年(1687)に芳心院「御頼」にて召し抱えられた浪人山脇六郎右衛門は、芳心院に重用されたようで、光仲歿後には芳心院歿年に至るまでのほぼ例年、国元にあって盆、暮の光仲墓参における芳心院の代参役を勤めている。

 また、綱清娘の峯姫(後に芳心院の意向で遊姫と改名)の養育や、国元に隠棲した綱清へ定期的に茶を送り、綱清はそれを家臣と共に喫するなど、芳心院の事蹟は池田家の史料上に散見する。

 芳心院の鳥取池田家における存在の大きさは、徳川家康の孫としての貴種性に裏付けられたものであることは言うまでもない。それは万両塚の基礎背面銘や骨蔵器銘に堂々と「東照大神君令孫」と記されていることが如実に物語る。

【註】
1、『鳥取藩史』第三巻(鳥取県立中央図書館 昭和45年)世家三「光仲公夫人徳川氏」
2、『南紀徳川史』第一冊、南龍公 公子譜略 茶々姫君項。理真院は万治元年10月9日に亡くなり、紀州養珠寺に葬られたが、明治8年に和歌山報恩寺(現、日蓮宗本山)へ改葬された。また、池上本門寺院家筆頭を勤めた大坊本行寺の過去帳には「理真院妙尊日覚、紀州二之丸殿」と記されており、池上でも供養が行われていたことが判る。
3、『南紀徳川史』第一冊、南龍公 御簾中譜略 瑶林院殿項
4、『因府録』巻第弐 隠田御屋敷の事。〈『鳥取県史』6近世資料(昭和49年)所収〉
5、『因府年表』〈『鳥取県史』7近世資料(昭和51年)所収〉
6、興禅院殿御葬式記(『鳥取藩史』第三巻)
7、瑶林院芳心院願経[図版18]
8、鳥取県立博物館蔵「池田家文書」中にある鳥取藩執政の藩政日記。本稿では特に註記しない限り、記述の多くをこの史料に拠った。

出典:永寿院Web
 


・大経山心浄院 
旧本山:池上本門寺 法縁:池上芳師法縁
 
心浄院、〒146-0082 東京都大田区池上1丁目19-28


出典:グーグルマップ


心浄院の概説
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


心浄院  
出典:ヤフーロコ


心浄院の由来
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


心浄院の本堂前にて
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


心浄院の庭
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


心浄院の庭
撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16




出典:グーグルマップ衛星写真

・心浄院の概要
 日蓮宗寺院の心浄院は、池上本門寺3世日輪聖人が大泉坊と称して元享3年(1323)に創建したといいます。

・心浄院の縁起
 心浄院は、池上本門寺3世日輪聖人が大泉坊と称して元享3年(1323)に創建したといいます。

・池上の寺めぐりによる心浄院の縁起
 元享三年(1323)本門寺三世日輪聖人が、日蓮聖人の故郷安房や、ご自身の故郷平賀を遠く望む当地に庵室をつくり大泉坊と称した。日輪聖人在世中に日徳聖人が再興し心浄院と改称したと伝えられるが、享保年間(1716-1736)の火災で資料を失ったため、その年代などは不明である。また、檀越の小木氏は日蓮聖人が佐渡流罪のとき弟子の日朗聖人に教化された島民で、日朗聖人を慕い池上に住み当院を興したとも伝えられる。(池上の寺めぐりより)
新編武蔵風土記稿による心浄院の縁起

・心浄坊
 山の東南の方堤方村の境にあり。もと大泉坊といへり。九老日輪上人のはじめ住せし地なり。後に日徳上人日輪の奮跡の湮滅せんことを嘆き、自ら中興せり。よりて日輪を開基とし、その身は第二世となれり。客殿六間に五間。本尊三寶及び四天王を安ぜり。(新編武蔵風土記稿池上本門寺項より)

出典:猫の足あと


 めぐみ坂を下る前、心浄院の対面にあるのが堤方神社です。


撮影:池田こみち Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


※ 堤方神社(つつみかた・じんじゃ)

 
堤方神社の概要
 堤方神社は、大田区池上にある神社です。堤方神社は、区立大森第四中学校横にある神社です。堤方神社の創建年代は不詳ですが、江戸時代初期に若宮八幡社として創建したと伝えられます。明治42年旧堤方村村内にあった三所神社(江戸期には熊野社といった)、十二神社(江戸期には十二天社といった)、稲荷神社、境内の稲荷神社を合祀、明治43年に旧地名堤方村より社号をとり堤方神社と改称したといいます。


堤方神社の本殿
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


堤方神社の神楽殿
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16

堤方神社の由緒
 堤方神社の創建年代は不詳ですが、江戸時代初期に若宮八幡社として創建したと伝えられます。明治42年旧堤方村村内にあった三所神社(江戸期には熊野社といった)、十二神社(江戸期には十二天社といった)、稲荷神社、境内の稲荷神社を合祀、明治43年に旧地名堤方村より社号をとり堤方神社と改称したといいます。

新編武蔵風土記稿による堤方神社の由緒
(堤方村)
若宮八幡社

 年貢地、村の南にあり。本社9尺四方、拝殿2間に3間、巽に向ふ。前に木の鳥居をたつ。両柱の間7尺。増上寺境内の鎮守にて、村内妙雲寺の持。

熊野社
 除地6畝20歩、村の北方本門寺境内に続きてあり。此地の鎮守なり。社9尺四面、南向、前に鳥居を建つ。柱間1間。毎年正月28日をもて祭礼をなせり。村民の持、この社の後に小高くして塚の如くなるものあり。権現塚と云。何れの頃か塚上の古松大風に吹おられし故、その堤をほりしに古刀古器を得たり。されど異日祟りあらんことを畏れて、元の所へ埋めたりと村老の傳へなり。

・十二天社(堤方神社に合祀)
 小名十二天にあり、小祠。 (新編武蔵風土記稿より)

・「大田区の神社」による堤方神社の由緒
創建之年代はわからない。
 もと若宮八幡社と呼ばれていたが、明治42年旧堤方村村内にあった三所神社(江戸期には熊野社といった)、十二神社(江戸期には十二天社といった)、稲荷神社、境内の稲荷神社を合祀し、翌43年堤方神社と改称した。(「大田区の神社」より)


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900 2018-5-16


つづく