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スコットランド独立国民投票の背景

(3)スコットランド人の源流と

キリスト教の伝播

青山貞一 Teiichi Aoyama

September 9 ,2014
Alternative Media E-wave Tokyo
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※独立系メディアの<スコットランド>スレッド

 グレートブリテンの連合王国以前の歴史、文化を大づかみに示せば、スコットランドとイングランドは、同じグレートブリテン島にいたものの、民族も言語も宗教もまったくといってよいほど異なっていたと言える。

 スコットランドは、もともとアイルランド同様、言語でゲール語系、民族でピクト系、ブリトン系、ケルト系、さらに宗教でカソリックが卓越している。主たる王朝はスチュアート王朝である。

 一方、イングランドは、言語は英語系、アングル人、アングロサクソン系、さらに宗教は英国教会(プロテスタント系)である。もちろん時代区分によって異なるが、要約すれば上記のように区別される。主たる王朝は、チューダー王朝である。


スコットランド、イングランド、アイルランドの大きな区分


ケルトの源流と歴史的展開

◆スコットランド人と言語の源流      参考出典:Wikipedia

 ローマ帝国がブリタンニアから撤退したとき、スコットランドは、大別してふたつのグループに分かれていた。

・ピクト人:
 ケルト系ともいわれるが、民族的起源はわかっていない。クライド川以北とフォース湾(ピクタヴィアと呼ばれる地域)に勢力を張っていた。

ローマの影響を受けたブリトン人:
 フォース湾の南にあったストラスクライド王国(5世紀-11世紀)、カンブリアのレッジド王国などの国およびボーダーズのセルゴヴァエ族、ヴォタディニー族、ゴドヅィン族などである。

 さらに、3つのグループからなる民族がスコットランドに渡ってきた。これらの民族がどこから来たかについてはわかっていない。

◆ピクト人(Picts)
 フォース川の北、ローマ帝国支配下の頃にカレドニアと呼ばれていたスコットランド地方に居住していたコーカソイド種族。彼らは古代ローマ人が命名したピクト (Pictiはラテン語で、体を彩色していた人々か刺青をしていた人々を指していた) 部族と推測される。
 印をつけるか描くと言う意味のウェールズ語、Pryd が関連している可能性がある。『ガリア戦記』の中でユリウス・カエサルはケルト人が刺青をしている事に触れ、「ブリトン人は体に青で模様を描き、戦場で相手を威嚇する」と語っている。ピクト人はピクト語を喋っていたが、詳細はほとんど知られていない。     出典:Wikipedia

◆ブリトン(Briton, Brython)
 前ローマ時代にブリテン島に定住していたケルト系の土着民族、および彼らの文化・言語を指す。単に「Briton」というと近代英国民のことを指すので学術上、この民族集団を指すときは「ブリテン諸部族(British tribes)」、「古代ブリトン人 (ancient Britons)」、または「ブリトン民族 (ethnic Britons)」とも呼ばれる(このような書き分けはケルト系語族の区分け、ブリタニック語とゲール語の違いを語る時に用いられる)。   出典:Wikipedia
 
 古アイルランド語を使うゲール人、なかでもダルリアダ人が5世紀後半ごろアイルランドから渡ってきた。かれらはアウタ・ヘブリディーズ諸島(Outer Hebrides)およびスコットランド西岸地域にダルリアダ王国を建設した。

◆ダルリアダ王国(Dalriada )
 アイルランドから渡ってきたスコット人がスコットランド西部に建国した王国。500年ごろ、ファーガス・モー・マク・エルクが二人の弟を連れてキンタイア半島に上陸。アッド川のほとりのダナッドにダルリアダ王朝を樹立し、自らファーガス2世として初代国王についた。 6世紀終わりから7世紀初頭には、現在のアーガイル・アンド・ビュート、Lochaber、そして北アイルランドのアントリム州までもほぼ包含していた。ダルリアダはアイルランドのゲール人がスコットランドに築いた植民地とみなされてきた。ダルリアダ王国は、先住民族のピクト人のアルバ王国と激しい抗争を繰り返した。しかし、5世紀ごろよりスコットランドに入ってきたキリスト教の影響もあって、スコット人とピクト人は徐々に融和していった。アイダーン・マク・ガブラーン王(en、574年頃-609年頃)の時代にダルリアダ王国は最高潮に達した。

    出典:Wikipedia
ダルリアダ王国の領域 

 一方、イングランド北東部バーニシア王国およびヨーロッパ大陸から広がってきたアングロ・サクソン人は、7世紀ゴドヅィン族を征服した民族で、ゲルマン的なスコットランド語を話していた。

 その言語はイングリス(Inglis)とよばれている。かつてはスコティス(Scottis)とよばれたスコットランド・ゲール語がイングリスにとって替わり、アイルランドなどで使われるようになった。しかし、昨今はゲール語が使われている。


◆キリスト教の伝播       参考出典:Wikipedia

 しばらくして795年以降ヴァイキングがスコットランド北西部にあるアイオナ島にやってきた。


アイオナ島の位置 出典:グーグルマップ 

 かれらスカンジナビア出身のオークニー貴族(Jarl)たちはアウタ・ヘブリディズ諸島、スコットランド北端のケイスネス・サザランドを支配下におさめ、先住の民族と混血が進んだ。

 最初にスコットランドにキリスト教をもたらしたのは、聖ニニアンである。

 彼はフォース湾沿岸部を根拠地にして南部・東部スコットランドで布教活動を行った。しかし、聖パトリックやコルンバの残した記録によれば、キリスト教は聖ニニアンの死(432年)からコルンバのスコットランド布教開始(563年)の間に忘れられてしまっていたとされている。

 ゲール人は、スコットランドのピクト人にふたたびキリスト教布教を行い、しだいにケルトの神話は忘れられていった。この時期もっとも有名な宣教師であるコルンバは、スコットランドのアイオナ島に辿りついてアイオナ修道院を建てた。

 下の地図はアイオナ島にある修道院の位置を示している。スコットランド北西部のマル島の西にある小さな島がアイオナ島である。

 私達はマル島の本島側の対岸、オバーン(Oban)という町まで何とかたどり着いたものの、フェリーの発車時刻には間に合わなかった。

 ただし、キリスト教は、ピクト人の王ブライディ1世のキリスト教への改宗がひとつの転換点となって広まったとも主張されているが、この点については異論もある。


アイオナ修道院の位置 出典:グーグルマップ  


アイオナ修道院

◆アイオナ修道院(Monastery of Iona)

 スコットランド西方海上に浮かぶインナー・ヘブリディーズ諸島のアイオナ島にあった中世ケルト教会の修道院。中世前期のキリスト教布教の中心地であった。

聖コルンバ
 アイルランドの守護聖人のひとりである聖コルンバが563年にアイルランドから亡命して創建した。聖コルンバやその弟子たちはこの島からスコットランドや西ヨーロッパにキリスト教伝道を行い、中世ケルト教会では最も格式の高い修道院であった。またキリスト教に帰依した初期のスコットランド諸王の埋葬地でもあった。

解説
 聖コルンバ(Saint Columba、521年12月17日 - 597年6月9日)はアイルランド出身の修道僧で、スコットランドや北部イングランド布教の中心となったアイオナ修道院を創建した。アイルランド語ではコルム・キル(Colum Cille)。これは教会の鳩を意味する語である。カトリック教会、聖公会、ルーテル教会、正教会の聖人。アイルランド、スコットランドの守護聖人。祝日は6月9日。

ケルズの書(The Book of Kells)
 三大ケルト装飾写本のひとつとして有名な『ケルズの書』はアイオナ修道院で製作され、後にアイルランドのケルズに移されたとされる。「世界で最も美しい書」とされる『ケルズの書』は現在、ダブリン大学トリニティー・カレッジ博物館が所蔵している。

 
               ケルズの書(The Book of Kells)
解説
 8世紀に制作された聖書の手写本。「ダロウの書」、「リンディスファーンの福音書」とともに三大ケルト装飾写本のひとつとされ、アイルランドの国宝となっており、世界で最も美しい本とも呼ばれる。縦33cm、横24cm。豪華なケルト文様による装飾が施された典礼用の福音書で、四福音書(マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書)が収められている。聖コルンバの偉業を称えるために、スコットランド、アイオナ島のアイオナ修道院で制作が着手され、その後アイルランドのケルズ修道院で完成された。現在は、ダブリン大学のトリニティー・カレッジ博物館に所蔵されている。


アイオナ修道院   出典:Wikipedia


アイオナ修道院内部  出典:グーグルマップ 

アイオナ島の現状
 聖コルンバ時代の修道院は木造であったが、ヴァイキングの度重なる襲撃を受けて衰えた。その後1200年頃ベネディクト会修道院として再建され、近代には廃墟となっていたが、有志の手で修復が行われた。アイオナ島は清浄な自然の美しさで知られ、現代ケルト教会発祥の地ともなった。

出典:Wikipedia

つづく