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Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

三国志

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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  この部分は参考情報です。必要に応じてごらんください!

◆三国志(中国・後漢)

 三国志(さんごくし、三國志、ilan gurun-i bithe)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史です。

概要

 「三国志」とは、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇した、三国時代の歴史を述べた歴史書です。撰者は西晋の陳寿(233年 - 297年)です。


出典:https://kubo-village.com/three-kingdoms-business/

 後世、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手により、『三国志演義』として成立しました。

 「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、日本だけでなく、世界中に広まりました。

「三国志(歴史書)」と「三国志演義」の違い

 単に『三国志』と言う場合、本来陳寿が記した史書のことを指します。対して『三国志演義』とは、明代の白話小説であり、『三国志』を基としながらも説話本や雑劇から取り込まれた逸話や、作者自身による創作が含まれています。また、登場する地名・官職名・武器防具などは三国時代の時代考証からみて不正確なものも多いといえます。

中国における三国志の受容と流行

『三国志(歴史書)』の受容

 『三国志』は、信頼性の乏しい情報を極力排して簡朴明解な記述を行ったため、「質直さにおいて司馬相如を超える文章」(「陳寿伝」に載せる范頵の上表)「人物評価に見るべきものがあり、記事は公正正確なものが多い」(裴松之「上三国志注表」)などの高い評価を受けました。

 しかし南朝宋の裴松之がその簡潔すぎる記述を惜しみ、当時存在した諸種の文献を引用し注釈を作成しました。『三国志』とこの裴注、また『後漢書』、『晋書』、『華陽国志』、『世説新語』などに散見する三国時代の記述が三国志の史実世界を構成しています。

 『三国志』の戦乱と激動の記録は後世、特に唐宋の文人の詩想を大いに刺激しました。『三国志』をモチーフにした詩詞としては杜甫「蜀相」、杜牧「赤壁」、蘇軾「赤壁賦」、陸游「書憤」などが特に名高いと言えます。

 三国はそれぞれ正統性を主張しましたが、魏が蜀を滅ぼした後、魏から禅譲を受けるという形で司馬炎が建てた晋(西晋)によって、魏が正統であるとされました。 しかし、南北朝時代に入り、晋が全国政権ではなくなると(東晋)、習鑿歯が蜀漢正統論を唱え、次第に注目されるようになった。宋代には三国のうちどの国が正統であるかという、いわゆる「正閏論」が盛んになり、司馬光(『資治通鑑』)・欧陽脩(『明正統論』)・蘇軾(『正統弁論』)らは中国の過半を支配した実情から魏を正統としました。しかし、「正統」を決めようすること自体が現実的側面よりは観念的・倫理的な側面の強い議論であり、結局は観念論に基づいた朱子の蜀漢正統論(『通鑑綱目』)が主流となってゆきました。この歴史観は朱子学の流布と共に知識人階層に広まり、劉備を善玉とする『三国志演義』の基本設定に一定の影響を与えました。

 清代に考証学が盛んになると、王鳴盛『十七史商榷』・趙翼『二十二史箚記』・銭大昕『二十二史考異』・楊晨『三国会要』など多くの研究が著されました。これら考証学の成果は民国に入って盧弼『三国志集解』によって集大成されました。また、三国志時代の社会経済等については、同じく民国の陶元珍の『三国食貨志』(上海商務印書館 1934年)があります。

『三国志演義』・大衆文化の受容

 『三国志演義』は通俗歴史小説の先駆となり、これ以後に成立する『東周列国志』『隋唐演義』『楊家将演義』などに大きな影響を与えています。『三国志演義』自体の続編としては晋代を舞台にした酉陽野史『続編三国志』があります。また民国に入って、周大荒が蜀漢が天下を統一するように改作した『反三国志』(卿雲書局 1930年)というパロディ小説があります。

 『三国志演義』は、手軽に手に入り読むことができ、また戦略の成功・失敗例が明解に描かれているため、いわば「素人向け兵法書」としても重宝されました。張献忠・李自成・洪秀全らが農民反乱を起こした際、軍事の素人である彼らは『三国志演義』を「唯一の秘書」としたと言われています(黄人『小説小話』)。

 毛沢東も『三国志演義』や『水滸伝』を子供時代から愛読しており、そこから兵法を学んだとされています。また初期清朝は、満州旗人達の教育に有用な漢籍を「官書」として満州語訳したが、『三国志演義』も順治7年にダハイによって訳されて読まれていました。

 ヨーロッパに渡った三国志も満洲語訳をフランス語に翻訳したものでした。近年の奇書として成君億『水煮三国』(中信 2003年)があります。これは三国志の人物を現代世界に登場させ、ビジネス戦争を勝ち抜いていくというパロディ小説であり、未曾有の経済発展を続ける現代中国において『三国志演義』はビジネスという群雄割拠の戦乱を勝ち抜く兵法書とみなされました。

 三国志の物語の母体となったのは説話や雑劇、すなわち講唱文芸や演劇などの民間芸能ですが、これらは『三国志演義』という完成品を生み出した後も引き続き発展し続けます。演劇では京劇・川劇・越劇など、講唱文芸では子弟書・鼓詞・弾詞などで今も三国志は主要ジャンルの一つであり、また三国志の登場人物に関する民間伝説も多く生まれ、近年民俗資料として収集が進んでいます。これらの中には『三国志演義』とは違ったエピソードが語られているものも多くあります(例えば京劇の「三国戯」において貂蝉は「任紅昌」という本名を持っていますが、これは雑劇に由来する設定で『三国志演義』に取り入れられなかったものです)。

 現代の大衆文化としては、児童向けの『連環図画三国志』(上海世界書局 1927年)があり、実写ドラマとして『三国志 諸葛孔明』(湖北電視台 1985年)『三国志』(中国中央電視台 1990年)などがあります。また近年は日本のゲーム・漫画市場における三国志ブームが逆輸入されて、日本の作品を模倣して三国志の漫画・ゲームなどが制作されています。

 その他、中国国内での経済的意欲の高まりと共に三国志をテーマにした観光ビジネスの展開が各地で進み、ゆかりの地では巨大な石像の建立や記念施設が建てられ、中にはテーマパークのような施設も多くなっています。

◆三国志関連の名所旧跡としての武漢(ウーハン)
   出典:AraChina

 武漢は湖北にあり、東漢時代の末期、魏、蜀、呉の3つの国に分かれ、互いに対立していました。武漢は当時の荊州にあり交通の要所であったため、魏、蜀、呉が奪いあっていました。そしてここは劉備と孫権がともに曹操と戦った「赤壁の戦い」の舞台でもあります。ゆえに武漢には三国時代に関する旧跡と伝説がたくさん残っています。

 三国時代の黄武二年(223年)、呉の国の孫権は黄鵠山(今蛇山と呼ばれている)の川のそばに夏口城を築き、その内に展望楼をつくり黄鶴楼と名付けました。史上、最も早い時代に造られた黄鶴楼です。黄鶴楼は江南三大名楼の一つとして、「天下の絶景」といわれています。

劉備郊天壇

 劉備郊天壇は武漢東湖の磨山景勝地東一峰にあり、三方を水に囲まれ、景色がことのほか美しいです。東には湖を隔て落雁景勝地があり、西は楚天台と隣接しています。劉備郊天壇は東漢の建安13年(西暦紀元208年)に建造され始め、およそ1800年の歴史があります。

 現在の郊天壇は元の場所で修築されたもので、当時、劉備が天を祀る雄大な場面を再現しています。郊天壇の高さは104.5メートル、広場、神道、祭壇の三つの部分からなっています。広場の中央には鉄製の香炉があり、高さは4.5メートルもあります。神道は360階(360は中国古代では縁起のいい数字とされている)の石階で構成され、祭壇の上部は円形、下部は方形をし、「天円地方」を表しています。

 「郊天壇」の名の由来は、当時、劉備はまだ皇帝ではなく諸侯でした。そのため地を祀ることはできても天を祀ることはできず劉備はここの祭壇を郊天と呼び祀ることで法にもふれず、意をかなえることができました。ゆえにこの地には「天壇」と付けられています。

白馬洲

 白馬洲は武漢東湖の白馬景勝地にあり、隠馬洲とも呼ばれています。言い伝えでは三国時代の東呉の名人である魯粛は白馬に乗り劉備の兵営へ、曹操と戦うことを相談しに行きました。そして東湖についた時、白馬は疲れ果てて死んでしまいました。魯粛はひどく心が痛み、白馬を東湖の岸にあるこの洲に埋葬しました。そのためここは白馬洲と呼ばれるようになりました。白馬洲には一つの墓があり、白馬墳と呼ばれています。

亀山

 亀山は武漢市漢陽城の北に位置し、名所旧跡が多いことで知られている武漢市の三つの名山の一つです。関王廟、蔵馬洞、磨刀石、魯粛墓など三国時代に関連した遺跡が数多くあります。

 龟山は、古くからの有名な観光地です。龟山の正面から大江、北側から漢水、西側から月湖、南側からは連花湖を望むことができます。長江は、龟山と武昌にある蛇山に挟まれています。龟山には、多くの名所旧跡があることで人々に知られています。そこは関王廟、蔵馬洞、磨刀石、太平興国寺、桂月亭状元石、禹王宮、月樹亭、桃花洞羅漢寺、龍祥寺、魯肃墓、向警予烈士の霊園と紅色戦士共同墓地などがあります。

龟山の歴史と文化

 龟山は、優れた地理環境に恵まれています。長江と漢江はその両側にあります。長江は、龟山と武昌にある蛇山に挟まれているので、毛澤東の詞に「龟蛇鎖大江」と言うセンテンスがあります。その詞から、壮大な景色が想像できます。漢江は漢口江灘と向かい合い、渚には美しい西洋の建築が沢山あります。漢江と長江が合流して生じた三角形の地域は、南岸嘴と呼ばれています。

 南岸嘴の景色は美しく、武漢では一番素晴らしい所と高く評価されています。武漢の政府は、南岸嘴を開発したいとずっと思い、開発の計画を沢山集めましたが、うまく建設できない懸念があり、現在でも開発方法は決まっていません。武漢には三つの鎮があります。龟山はその中心に置かれています。龟山の両側には橋が掛けてあり、武漢の三つの鎮はこの二本の橋で結ばれています。それは驚くほどの素晴らしく壮大な景色です。

蛇山

 蛇山長江の南側、武漢市武昌区にあります。黄鵠山とも呼ばれています。蛇山は蛇行している蛇のようです。長さは約1790メートル、幅は約25~30メートル、海抜85メートルです。切り立っている山には名所旧跡がたくさんあります。

夏口城

 夏口城は、西暦223年、三国時代に蛇山に建てられました。王朝の交代に伴い、夏口城は、増築されてきました。黄鶴楼、八極楼、白曇楼など20軒あまりの有名な楼閣がその山に建築されました。李白、王維、陸遊などの有名な詩人が蛇山に登り、楼閣で歌を詠み、詩を作りました。現存する詩作は多くあります。たとえば、蛇山の頂きにある黄鶴楼に李白の詩が残っています

 出典:AraChina


 なお、三国志ゆかりの地としては、西安の西約120kmにある宝鶏市の五丈原(本シリーズの一部があります。その他、西安の東約380kmにある洛陽市にも関羽の首塚 があります。 


匈奴単于国・歴史1つづく