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シルクロードの今を征く

Now on the Silk Road

楊貴妃墓2

西安
(Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は楊貴妃とその墓の2です。

◆楊貴妃墓2

・貴妃となる


浮世絵師、細田栄之によって描かれた楊貴妃
Source:Wikimedia Commons
Hosoda Eishi (1756-1829) - British Museum, パブリック・ドメイン, リンクによる


 745年(天宝4載)、貴妃に冊立されます。『楊太真外伝』によると、初めての玄宗との謁見の際、霓裳羽衣の曲が演奏され、玄宗は「得宝子」という新曲を作曲したと伝えられています。

 父の楊玄は兵部尚書、母の李氏は涼国夫人に追贈され、また叔父の楊玄珪は光禄卿、兄の楊銛は殿中少監、従兄の楊錡は?馬都尉に封じられます。さらに、楊錡は玄宗の愛娘である太華公主と婚姻を結ぶこととなりました。楊銛、楊錡と3人の姉の五家は権勢を振るい、楊一族の依頼への官庁の応対は詔に対するもののようであり、四方から来る珍物を贈る使者は門を並ぶほどであったと伝えられています。

 746年(天宝5載)には嫉妬により玄宗の意に逆らい、楊銛の屋敷に送り届けられました。しかし玄宗はその日のうちに機嫌が悪くなり、側近をむちで叩き始めるほどでした。この時、高力士はとりなして楊家に贈り物を届けてきたため、楊貴妃は太華公主の家を通じて夜間に後宮に戻ってきました。

 玄宗は楊貴妃が戻りその罪をわびる姿に喜び、多くの芸人をよんだと伝えられています。それ以後さらに玄宗の寵愛を独占するようになりました。その後、范楊・平盧節度使・安禄山の請願により、安禄山を養子にして玄宗より先に拝礼を受けた逸話や、安禄山と彼女の一族が義兄弟姉妹になった話が残っています。

 748年(天宝7載)には3人の姉も国夫人を授けられ、毎月10万銭を化粧代として与えられました。楊銛は上柱国に、またいとこの楊国忠も御史中丞に昇進し、外戚としての地位を固めてきています。

 玄宗が遊幸する時は楊貴妃が付いていかない日はなく、彼女が馬に乗ろうとする時には高力士が手綱をとり鞭を渡しました。彼女の院には絹織りの工人が700名もおり、他に装飾品を作成する工人が別に数百人いました。権勢にあやかろうと様々な献上物を争って贈られ、特に珍しいものを贈った地方官はそのために昇進しました。

 750年(天宝9載)にまた玄宗の機嫌を損ね、宮中を出され屋敷まで送り返されます(『楊太真外伝』によると、楊貴妃が寧王の笛を使って吹いたからと伝えられています)。しかし吉温が楊国忠と相談の上で取りなしの上奏を行い、楊貴妃も髪の毛を切って玄宗に贈った。玄宗はこれを見て驚き、高力士に楊貴妃を呼び返させました。『楊太真外伝』によると、それ以降さらに愛情は深まったとされます。

 751年(天宝10載)、安禄山が入朝した時、安禄山を大きなおしめで包んだ上で女官に輿に担がせて、「安禄山と湯船で洗う」と述べて玄宗を喜ばせました。しかしその後も安禄山と食事をともにして夜通し宮中に入れたため醜聞が流れたといいます。

 752年(天宝11載)、李林甫の死後、楊国忠は唐の大権を握りました。この頃、楊銛と秦国夫人は死去しますが、韓国夫人・国夫人を含めた楊一族の横暴は激しくなってゆきました。また楊国忠は専横を行った上で外征に失敗して大勢の死者を出し、安禄山との対立を深めたため、楊一族は多くの恨みを買うこととなりました。

 754年(天宝13載)、楊貴妃の父の楊玄?に太尉・斉国公、母の李氏に梁国夫人が追贈され、楊玄珪は工部尚書に任命されます。楊一族は唐の皇室と数々の縁戚関係を結びますが、安禄山との亀裂は決定的になってきました。

・数々の伝承


宝山遼墓の壁画「楊貴妃教鸚鵡頌経図」
Source:Wikimedia Commons
Unknown artist of Liao Dynasty - Liao Tomb of Mountain Pao, パブリック・ドメイン, リンクによる


 『楊太真外伝』などに、740年に後宮に入った時から755年までの楊貴妃に関する多くの伝承が伝えられています。

 『楊太真外伝』によると、楊一族の隆盛と横暴、玄宗の楊貴妃へのあまりの寵愛に、「女を生んでも悲しむな 男を生んでも喜ぶな」というはやり唄が長安で唄われ、玄宗と共にたびたび教坊の芸人たちの音楽や歌舞、技芸、あるいは文人たちの詩会を見て楽しんでいました。

 ある日、玄宗が諸王(唐王朝の一族)を招いて宴を行ったところ、木蘭の花の様子に玄宗が不興を感じていることを見て取り、酔いながらも霓裳羽衣の曲の舞を踊って取りなし、玄宗を喜ばせたことがありました。

 別の日、玄宗が作曲を行った演奏会では琵琶を担当し、王や郡主(王の娘)、楊貴妃の姉妹はみな彼女を師とあおぎ、一曲作成するごとに多くの贈り物がなされました。この演奏会の時、謝阿蛮という妓女に与えた紅粟玉の腕輪は高句麗から得た宝物でした。

 磬(打楽器の一種)の名手でもあり、梨園の楽人ですらかなうものがありませんでえした。彼女の琵琶はラサの壇で作られた蜀の地から献上されたもので、その絃は西方の異国から献上された生糸でできていました。磬は藍田の緑玉を磨いたものでできており、飾りの華やかさは当代並ぶものがないものでした。また彼女の紫玉の笛は、嫦娥からもらったものであるという伝説もありました。また「涼州」という歌を自分で作曲し、死後に玄宗によって世に広められたと伝えています。

 興慶宮の沈香亭において、玄宗が李白に作詩させ李亀年に歌わせた「清平調詞」において、李白の詩に自分を趙飛燕にたとえた部分がありました。このことを高力士に指摘され、侮辱と思い李白の官位授与を妨げました。そのため玄宗が趙飛燕の話題を避けた話や「そなたなら風に飛ばされない」とからかった説も伝えられ、楊貴妃が豊満であったのではという説の根拠となっています。なお、この話題を出した時、楊貴妃が「霓裳羽衣は舞えますのに」と不機嫌になったため、玄宗は「虹霓」という名の屏風を贈っています。

 また有名なエピソードとして、楊貴妃がレイシ(ライチ、茘枝)を好み、嶺南から都長安まで早馬で運ばせたことも伝えられています。玄宗が毎年10月に華清宮(温泉宮)に赴き、その冬を過ごす時に楊貴妃が同じ輿に乗り端正楼に住み蓮花湯という温泉に入っていたことも知られます。

 他に玄宗とともに二つが合わさった蜜柑を食べて、その姿を絵に描かせた話や、嶺南から献上された白い鸚鵡に「雪衣女」という名をつけ、人の声を完全に使えたため「多心経」をおぼえさせたが、ある日、鷹につかまれて殺されたので埋めて鸚鵡塚と名付けた話があります。また、安禄山に楊貴妃自身からも多くの贈り物を贈っています。

 玄宗が親王と碁を打っている時、玄宗が負けそうになると、狆を放して碁盤を崩し、玄宗に喜ばれました。また、つけ髷で髪を飾り、黄色の裙(長いスカート)を好み、龍脳(香料の一種)をつけていたため、遠くまでその香りがして、衣を通してその香りがスカーフ(領巾)に移るほどであったとも伝えられています。

 755年(天宝14載)、6月の彼女の誕生日に玄宗は華清宮に赴き、長生殿において新曲を演奏し、ちょうど南海からライチが届いたため「茘枝香」と名付けました。この時、随従の臣下からの歓喜の声が山々に響いたと伝えられます。

『 開元天宝遺事』によると、二日酔いに苦しんだ後、庭の花の露を飲んで肺を潤した説話、玄宗とともに牡丹の花の香りを嗅いで酔いを覚ました説話、豊満な肉体であったため夏の暑い時に口に玉でできた魚を入れて暑さを癒した説話、夏の暑い日に流した汗が紅色をしてよい香りがしたという説話(顔料、香料のためという意味か、元々そういう体であったためという意味か不明)を伝えています。

 また玄宗との酒のたけなわに、玄宗が宦官を百余人、楊貴妃が宮女を百余人率いて、後宮において両陣に分かれて戦争ごっこを行いました。これを「風流陣」と呼んで、敗者は大きな牛角の杯で酒を飲み談笑したという説話が残っており、これは後に画題にもなっています。

 白居易の詩『新楽府』の一首「胡旋女」では、楊貴妃は胡旋舞という西域から渡来した舞を舞っていたという描写があります。

・安史の乱と最期

 755年(天宝14載)、楊国忠と激しく対立した安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落した(安史の乱)。この時、玄宗は親征を決意し、太子・李亨(後の粛宗)に国を任せることを画策しましたが、楊国忠・韓国夫人・?国夫人の説得を受けた楊貴妃は土を口に含んで自らの死を請い、玄宗を思いとどまらせたと伝えられます。その後、唐側の副元帥である高仙芝は処刑され、哥舒翰が代わりに副元帥となり、潼関を守りました。

 756年(至徳元載)には哥舒翰は安禄山側に大敗し捕らえられ、潼関も陥落しました。玄宗は首都・長安を抜け出し蜀地方へ出奔することに決め、楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らが同行することになりました。

 しかし馬嵬(陝西省興平市)に至ると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は楊国忠と韓国夫人たちを殺害しました。さらに陳玄礼らは玄宗に対して、「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求しました。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばいましたが、高力士の進言によりやむなく楊貴妃に自殺を命ずることを決意しました。

 『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死(首吊り)させられました。この時、南方から献上のライチが届いたので、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられます。

 陳玄礼らによってその死は確認され、死体は郊外に埋められました。さらに安禄山は楊貴妃の死を聞き、数日も泣いたと伝えられています。その後、馬嵬に住む女性が楊貴妃の靴の片方を手に入れ、旅人に見物料を取って見せて大金持ちになったと伝えられます。

 玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後、改葬を命じましたが、礼部侍郎・李揆からの反対意見により中止となりました。しかし玄宗は密かに宦官に命じて改葬させました。この時、残っていた錦の香袋を宦官は献上したといいます。また玄宗は画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたといいます。

長恨歌と長恨歌伝

 楊貴妃死後50年経った806年(元和元年)頃に、玄宗と楊貴妃の物語を題材にして白居易が長編の漢詩である『長恨歌』を、陳鴻が小説の『長恨歌伝』を制作しています。

 きっかけは、王質夫を加えた3人で仙遊寺に見学に赴き、その時に楊貴妃が話題にのぼり、感動した王質夫が白居易に後世に残すために詠み上げることを勧めたためであるといいます。また、白居易も陳鴻に物語として伝えるように勧めたと伝わっています。

後世への影響
・文学・音楽・戯曲


楊貴妃(『能楽図絵』月岡耕漁画)
Source:Wikimedia Commons
月岡耕漁 - ウォルターズ美術館: Home page  Info about artwork, パブリック・ドメイン, リンクによる


・白居易の『長恨歌』を題材に作られた能「楊貴妃」がある(金春禅竹作)。

・音楽作品としては、山田検校の「長恨歌」、光崎検校の「秋風の曲」がある。

・井上靖は楊貴妃の生涯を元に『楊貴妃伝』を執筆した。

・『楊貴妃伝』はさらに、2004年に宝塚歌劇団星組で舞台化された。

・中国で後世、多くの小説、漢詩、雑劇、戯曲の題材として取り上げられた。さらに、日本においても、古典文学で話題にたびたび取りあげられ、古川柳などでも題材としていくつも使われている。

・明末期の笑話集『笑府』刺俗部に、楊貴妃と張飛の登場する笑話がある。

ある男が、野ざらしになっていた骸骨を見つけ、気の毒に思って供養をしてやる。その晩、男の家の戸を叩く者があり、「誰だ」と聞くと「妃(フェイ)」と答える。さらに尋ねたところ「私は楊貴妃です。馬嵬で殺されてから葬られることもなく野ざらしになっていたのを、あなたが供養して下さいました。お礼に夜伽をさせて下さい」と答え、その晩、男と夜を共にした。これを聞いてうらやんだ隣の男、野原を探し回ってやはり野ざらしになった骸骨を見つけ、供養したところ、その晩やはり戸を叩く者があり、「誰だ」と聞くと「飛(フェイ)」と答える。「楊貴妃かい」と訊くと「俺は張飛だ」という答え。仰天して「張将軍には何ゆえのお来しで」と訪ねると、張飛曰く「拙者、漢中で殺されてから葬られることもなく野ざらしになっておったのを、貴殿に供養していただいた。お礼に夜伽をさせていただきたい」。

・これがさらに日本で翻案されたのが、落語『野ざらし』。

・楊貴妃墓の概説

 楊貴妃の栄華と最期について語った上で、楊貴妃の死後のこととして、玄宗が道士に楊貴妃の魂を求めさせます。道士は魂となり、方々を探し、海上の山に太真という仙女がいるのをつきとめ会いに行きます。それこそが楊貴妃であり、道士に小箱とかんざしを二つに分けて片方を託し、伝言を伝えました。玄宗と楊貴妃が7月7日、長生殿で、「二人で比翼の鳥、連理の枝になりたい」と誓ったことと、この恨み(思い)は永遠に尽きないだろうということでした(比翼連理の故事)。

 平等な一対としての男女の永遠の愛の誓いを謳い上げた『長恨歌』は、広く世間に流布しました。このため、楊貴妃の物語は後世にまで広く伝わり、多くの文学作品に影響を与えました。


楊貴妃の墓(興平市)
出典:ふれあい中国   http://www.chinatirp.jp


出典:ふれあい中国   http://www.chinatirp.jp

 傾国の名花楊貴妃の墓は西安から70キロほど離れた興平県の馬嵬坡にある。彼女は718年に生まれ、756年に亡くなった。 745年に唐の玄宗皇帝の貴妃となり、玄宗は楊貴妃を得てから、毎日酒や歌舞や貴妃の愛に溺れて政務から遠ざかってしまった。このため、国内情勢が次第に悪化し、政治は窮境に陥った。 

 755年、勢力を貯えてきた安禄山が叛旗を翻し、所謂「安史の乱」が起こる。楊貴妃は玄宗皇帝に従って、戦火を避けた途中、馬嵬坡で近衛兵と指揮官の不満が募り、騒乱が起きた。兵士たちは「窮地に陥ったのは楊氏一族のせいである」と楊国忠を殺し、さらに、玄宗皇帝に楊貴妃を殺すことを要求した。時に楊貴妃は38才、子供ももたずに死んだ彼女の一生は、まさに「花の命は短くて苦しきことのみおおかりき」という詩の通りだった。 

 昔、楊貴妃の墓は土盛りだったが、墓の土は毎年春に白粉に代わって、香を漂わせたという。後にその白粉を顔に付けると美人になるという噂が広まり、大勢の若い女性がその白粉を欲しがり墓に集まった。このため、2,3年のうちに墓の盛り土がなくなってしまったという。 

 現在の墓は半球状のレンガで覆われており、墓前には「楊貴妃之墓」の碑がたてられている。楊貴妃の非業の死は人々の心を打ち、以来、歴代の多くの詩人が墓を参拝し、多くの詩を贈った。それらの詩は30基の石碑に刻まれ墓の回廊の壁に収められており、現在、墓地の辺りには門楼が建ち、亭、堂が復元されている。

出典:ふれあい中国   http://www.chinatirp.jp


楊貴妃墓3へつづく