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Now on the Silk Road

   秦始皇帝陵 

西安
(Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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秦始皇帝博物院1 秦始皇帝博物院2   秦始皇帝陵1  秦始皇帝陵2
  
 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

◆秦始皇帝陵2

  

 秦の始皇帝(紀元前259年-紀元前210年)は、13歳の時に王位を継承し、22歳の時に自ら国の政務を執りました。当時東にあった6つの国を統一し、中国初めての封建王国を築きました。50歳の時に亡くなり、この陵に埋葬されました。

 この陵は彼の即位した直後に造り始め、70万人の囚人を集めて38年間かけて造られました。まだ発掘されていませんが、司馬遷の書いた「史記」によると、中は地下水も出るほど深く掘られ、銅で固めてからお棺を下ろしたということです。

 また、数多くの金銀財宝を守るため、自動的に発射できる弓矢が仕掛けられていたり、自然再現のため、天井に宝石で太陽や月、星などを鏤め、水銀を河や海として中に流しているとも言われています。

 始皇帝の陵墓は、死後20年も経たないうちに、楚王項羽の軍によって発かれたと言われています。項羽は更に、三世皇帝で始皇帝の孫・子嬰を殺しており、咸陽の宮殿をも焼き払い、「火は三月滅えず」と記されています。

 出典:日本旅行

秦の始皇帝とは


史記・秦始皇本紀』  
Source:Wikimedia Commons

 始皇帝(紀元前259年2月18日 - 紀元前210年)は、中国戦国時代の秦王(在位紀元前246年 - 紀元前221年)です。 

 中国統一を成し遂げた後に「始皇帝」と名乗っています。統一後、始皇帝は、重臣の李斯とともに主要経済活動や政治改革を実行しました。従来の配下の一族等に領地を与えて世襲されていく封建制から、中央が選任・派遣する官僚が治める郡県制への全国的な転換(中央集権)を行い、国家単位での貨幣や計量単位の統一、交通規則の制定などを行いました。

 万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などの大事業を行っています。また、法による統治を敷き、自身の政治を批判する学者や本を始末した焚書坑儒を実行したことでも知られています。

 以下は秦代の長城(万里の長城)です。小さな点は戦国時代までにあったもの。大きな点が始皇帝によって建設された部分。後の王朝も改修や延長を行い現在に至っています。


秦代の長城(万里の長城)
Source:Wikimedia Commons


始皇帝の天下巡遊路
Source:Wikimedia Commons

始皇帝陵 (驪山)

 秦王に即位した紀元前247年には自身の陵墓建設に着手しました。それ自体は寿陵と呼ばれ珍しいことではありませんが、陵墓は規模が格段に大きかったのです。阿房宮の南80里にある驪山が選ばれ始められた建設は、統一後に拡大されました。始皇帝の晩年には阿房宮と驪山陵の建設に隠宮の徒刑者70万人が動員されたという記録があります。

 木材や石材が遠方から運ばれ、地下水脈に達するまで掘削した陵の周囲は銅で固められました。その中に宮殿や楼観が造られmした。さらに水銀が流れる川が100本造られ、「天体」を再現した装飾がなされ、侵入者を撃つ石弓が据えられたといいます。珍品や豪華な品々が集められ、俑で作られた官臣が備えられました。これは、死後も生前と同様の生活を送ることを目的とした荘厳な建築物であり、現世の宮殿である阿房宮との間80里は閣道で結ばれました。

 1974年3月29日、井戸掘りの農民たちが兵馬俑を発見したことで、始皇帝陵は世界的に知られるようになりました。ただし、始皇帝を埋葬した陵墓の発掘作業が行われておらず、比較的完全な状態で保存されていると推測されます。現代になり、考古学者は墓の位置を特定して、探針を用いた調査を行いました。この際、自然界よりも濃度が約100倍高い水銀が発見され、伝説扱いされていた建築が事実だと確認されました。

 なお、現在は「始皇帝陵」という名前が一般的になっていますが、このように呼ばれるようになったのは漢代以降のことであり、それ以前は「驪山」と呼ばれていました。


現代に残る霊渠

万里の長城


万里の長城(ただし、これは明代の長城)
Source:Wikimedia Commons

 中国は統一されましたが、始皇帝はすべての敵を殲滅できたわけではありませんでした。それは北方および北西の遊牧民でしt。戦国七雄が争っていたころは匈奴も東胡や月氏と牽制し合い、南に攻め込みにくい状態にありました。

 しかし、中国統一のころには勢力を強めつつあったので、防衛策を講じました。始皇帝は蒙恬を北方防衛に当たらせました。そして巨大な防衛壁建設に着手しました。逮捕された不正役人を動員して建造しました。この壁は、現在の万里の長城の前身にあたります。これは、過去400年間にわたり趙や中山国など各国が川や崖と接続させた小規模な国境の壁をつなげたものでした。


◆秦始皇帝陵

 秦始皇帝陵(しんしこうていりょう)は、中国陝西省西安北東30kmの驪山北側(臨潼区)にある、秦始皇帝の陵(墓)とその周辺にある兵馬俑坑のユネスコの世界遺産(文化遺産)としての総称です。


秦始皇帝陵(緑色)とその周囲の墓域
Source:Wikimedia Commons
By Bairuilong - Own work, CC BY-SA 3.0, Link



秦始皇帝陵
Source:Wikimedia Commons

概要

 秦の始皇帝は中国史初の皇帝でしたが、その強大な力を利用し大きな陵墓を建てました(人形を作り埋葬したのは二代皇帝胡亥という説もある)。これが秦始皇帝陵です。

 1974年に中華人民共和国で地元の住民により発見されました。

 史記は始皇帝の遺体安置場所近くに「水銀の川や海が作られた」と述べています。この記述は長い間、誇張された伝説と考えられていましたが、1981年に行われた調査によるとこの周囲から水銀の蒸発が確認され、真実である可能性が高くなりました。


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