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  シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

西安 (Xi'an、中国)
大雁塔・大慈恩寺・青龍寺

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月〜6月
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出典:青山貞一・池田こみち 2019 シルクロードの今を往く 

 次は中国西安市(長安市)の大雁塔です。

◆西安Xi'an 中国西安市)

◆大雁塔

 大雁塔(だいがんとう: Dayan Tower)とは、652年に唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像などを保存するために、高宗に申し出て建立した塔を意味します。


大雁塔
Source:Wikimedia Commons

◆玄奘(げんじょう、602年 - 664年3月7日)

 玄奘は、唐代の中国の訳経僧。玄奘は戒名であり、俗名は陳(チンイ)。諡は大遍覚で、尊称は法師、三蔵など。鳩摩羅什と共に二大訳聖、あるいは真諦と不空金剛を含めて四大訳経家とも呼ばれます。

 629年に陸路でインドに向かい、巡礼や仏教研究を行って645年に経典657部や仏像などを持って帰還。以後、翻訳作業で従来の誤りを正し、法相宗の開祖となりました。また、インドへの旅を地誌『大唐西域記』として著し、これが後に伝奇小説『西遊記』の基ともなっています。


Xuan Zang 玄奘三蔵
Source:Wikimedia Commons 

 玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、また、仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)、隋王朝に変わって新しく成立した唐王朝に出国の許可を求めました。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかったため、玄奘は国禁を犯して密かに出国、役人の監視を逃れながら河西回廊を経て高昌(高昌故城 参照に至りました。

 高昌王である文泰は、熱心な仏教徒であったことも手伝い、玄奘を金銭面で援助しました。玄奘は西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至りました。

 ナーランダ大学では戒賢に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝しました。ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受け、ハルシャ王へも進講しています。

 こうして学問を修めた後、西域南道を経て帰国の途につき、出国から16年を経た貞観19年1月(645年)に、657部の経典を長安(西安)に持ち帰りました。幸い、玄奘が帰国した時には唐の情勢は大きく変わっており、時の皇帝・太宗も玄奘の業績を高く評価したので、16年前の密出国の件について玄奘が罪を問われることはありませんでした。

 帰国した玄奘は、持ち帰った膨大な経典の翻訳に余生の全てを捧げました。太宗の勅命により、玄奘は貞観19年(645年)2月6日から弘福寺の翻経院で翻訳事業を開始しました。この事業の拠点は後に大慈恩寺に移りました。

 さらに、持ち帰った経典や仏像などを保存する建物の建設を次の皇帝・高宗に進言し、652年、大慈恩寺に大雁塔が建立されました。その後、玉華宮に居を移したが、翻訳作業はそのまま玄奘が亡くなる直前まで続けられました。麟徳元年2月5日(664年3月7日)、玄奘は経典群の中で最も重要とされる『大般若経』の翻訳を完成させた百日後に玉華宮で寂しました。

出典:Wikipedia

 大雁塔の名前は、菩薩の化身として雁の群れから地上に落ちて死んだ1羽を、塔を建てて埋葬したことに由来しています。

 高さは7層64mで現在は、西安市の東南郊外にある大慈恩寺の境内に建っています。玄奘の設計により、当初は5層でした。各階に仏舎利がおさめられ、経典は上層部の石室に置かれました。

 玄奘自ら、造営に携わったと伝えられます。塔の南門には(?遂良書)の筆による碑が置かれました。当初は表面を磚に覆っただけで土によって作られていたために、老朽化してしまいました。

 そのため、長安年間(701年 - 705年)、武則天の統治時代に、全て磚でつくられ、上まで登れるようになり、現在の7層に落ち着くという変遷を経ています。この様子は、杜甫や岑参といった詩人たちによって、詠まれています。

 唐時代に進士試験の合格者がここで名を記したことから、「雁塔題名」の成語も生まれました。後に宰相になった場合、その名は朱色に書き換えられました。また、訪れるものに自分の名を書くものもあり、唐代の詩人、李商隠の名が残っています。また、日本から訪れた円仁も登ったことがありました。

 その後、熙寧年間1068年 - 1077年頃に火事に罹災し、1550年頃に重修されており、人民中国成立後にも修築されています。

 現在でも、最上層まで登ることが可能です。

 第1層には、仏菩薩の線刻画や、「大唐三蔵聖教序」(?遂良書)及び、高宗撰の序記の2石碑が見られます。また、寺中には、王維や呉道玄らの絵画も収蔵されています。
 
 2014年に「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産に登録されました。


大雁塔 Giant Wild Goose Pagoda
Source:Wikimedia Commons


◆大慈恩寺

 下の写真にある大慈恩寺(だいじおんじ)は、中国陝西省の古都、西安市南東郊外約4kmにある仏教寺院であり、三蔵法師玄奘ゆかりの寺として知られています。

 その故地は、唐朝の都、長安城においては、東南部、左街の晋昌坊に当たる場所でした。


大慈恩寺
Source:Wikimedia Commons



大慈恩寺正門
Source:Wikimedia Commons


大慈恩寺
Source:Wikimedia Commons


◆青龍寺

 下の写真にある青龍寺(せいりゅうじ,しょうりゅうじ)は、中国陝西省の古都、西安市南郊の雁塔区鉄炉廟村にある仏教寺院であり、弘法大師空海ゆかりの寺として知られています。その故地は、唐朝の都、長安城においては、左街の新昌坊に当たる場所でした。


唐の時代、西安空海が学んだ西安の青龍寺
出典:https://bluebird-story.com/qinglongsi/

歴史

 青龍寺の創建は、隋の開皇2年(582年)であり、当初は霊感寺と呼ばれました。初唐の武徳4年(621年)に一度、廃寺となりましたが、龍朔2年(662年)に再建され、観音寺と改められました。

 青龍寺と改称されたのは、景雲2年(711年)のことです。

 唐中期には、恵果らの密教僧らが住持するようになり、入唐留学僧たちとの関係が生まれた。空海は恵果に学び、天台宗の円仁や円珍らも恵果の法系に連なる法全に就いて密教を学びました。

 会昌5年(845年)、会昌の廃仏によって再び廃毀されました。しかし、大中6年(852年)には、いったん復興を果たし、護国寺と改められています。ただ、唐末五代の動乱によって、都の長安は急速に寂びれてしまいました。そのため、以後三たび姿を消すこととなりました。

◆空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))

 空海は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる真言宗の開祖です。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお)。日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭 (へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらしました。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられています。


絹本著色弘法大師像

 以下は唐時代の中国の空海です。

 前略

 長安(西安)で空海が師事したのは、まず醴泉寺の東土大唐三藏法師。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられています。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられています。

 5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになります。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受けます。

 8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられました。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになります。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表しています。

 8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われました。恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられました。伝法の印信です。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟や供養具など5点の計13点です。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上しています。

 同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草しました。

 そして、3月に長安(西安)を出発し、4月には越州に到り4か月滞在しました。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集しました。折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、その後急に任命されて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成を通じ上奏して、「20年の留学予定を短縮し2年で留学の滞在費がなくなったこと」を理由に唐朝の許可を得て、その帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途につきました。

 途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開いたため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになりました。福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたといいます。

 後略

出典:Wikipedia

復興

 1982年以来、西安人民政府が、青龍寺の遺址と伝承されてきた石仏寺周辺の発掘調査を行い、多数の唐代の遺物を発掘し、この地がいにしえの青龍寺であったことを確かめました。

 青龍寺は復興され、そこには、日本からの寄贈で、空海記念碑、恵果・空海記念堂が建つ。また、元四国霊場会会長蓮生善隆(善通寺法主)により四国八十八箇所の零番札所と名付けられました。


恵果・空海記念堂 (2004年12月)
Source:Wikimedia Commons


空海記念碑 (2004年12月)
Source:Wikimedia Commons


つづく