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西安城壁 百度百科3

西安
(Xi'an、中国) 

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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 次は西安城壁の詳細3です。参考は中国百度百科です。


◆西安城壁 百度百科3Xi'an 中国西安市)

西安市の城壁門の紹介


西安市中心市街地にある城壁門   中央にあるのが西安鐘楼
撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

概要

 現在、西安城壁の門は全部で18あります。永寧門から時計回りに見ていくと、永寧門、朱雀門、勿幕門、含光門、安定門、玉祥門、尚武門、安遠門、尚德門、解放門、尚倹門、尚勤門、朝陽門、中山門、長樂門、建国門、和平門、文昌門となります。これら18の門の建設された時期や規格/仕様などは様々です。

 その中の、永寧門、安遠門、長楽門、安定門の4つの門は、すべて明時代の西安城壁の当初からある城門で、軍事的な防御のために造られたものであり、いずれも、単門洞(開口部が一箇所の門)です。また、これらの三道城壁(三本の道路が通る城壁)の修復はすべて終了しており、(門の)両側の道路の城壁の間には、甕城が造られています。

 永寧門を除き、その他の三門は、いずれも二本の道路を持つ城壁です。中華人民共和国時代になると、城門は次第に軍事的ニーズが薄れ、交通の利便性が重視されるようになり、人々は、既存の4箇所の城門の両側に新しい門を開設していきました。その結果、14の城門が次々と新たに建設され、戦争時には門が開けられて戦火を被り、城壁の裂け目に(門が)再建されました。そのため、唐時代の皇城城門の遺跡の一部は新しく造られたものとなっています。その中のいくつかは、偉大な人物を記念して新しい出入り口がつくられています。

南の七つの城門

永寧門



出典:中国百度百科



アロービル
撮影:青山貞一 Nikon Cool;ix S9900

 永寧門は一般に南門と呼ばれ、この門は隋時代初期に造られ、西安城門の中で最も古く、利用されていた時間は最も長い門です。皇城の南に面する3つの門の中で東に寄った位置にあり、安定門と呼ばれていましたが、唐代末期に韓建が城の縮小を行った際に、南門を造って残し、明時代に永寧門と改名されました。

 永寧門の箭楼は、西安の防衛戦(二虎守長安)の際に破壊されましたが、2013年現在の位置に再建されました。永寧門の規格(様式)は6-1式門洞と言われるものです。(門の両側に三本ずつ道路があり、中央にひとつ開口部があるタイプ)


朱雀門


出典:中国百度百科

 朱雀門は、もともと唐王朝長安の皇城の真南の門で、門の下には、街の中心である朱雀大通が通っています。隋から唐の時代、皇帝はしばしばこの門で式典などを挙行していました。開皇九年(589年)、隋の皇帝が天下統一し、隋の文帝が朱雀門城楼に大群を率いて凱旋し検閲しました。唐末期に韓建が城の縮小を行ったとき、朱雀門は封鎖されました。

 1985年の西安城壁修復の時に、民の城壁内部に朱雀門遺跡が包み込まれていることが発見され掘り出されました。隋や唐の文人の描写は実に素晴らしく、城門の柱は大理石で造られていました。青石(緑泥石片岩や青色の凝灰岩や凝灰質砂岩等庭石に用いる石)で造られた門の窪み(穴)には、美しく魂の叫びのような蔓草花の模様が掘り出され、磨いた煉瓦を繋ぎ合わせた門の開口部の隔壁は厚く端正に造られていました。1986年に開通した朱雀門は、遺跡の西側に位置しています。朱雀門の規格(様式)は、4洞門(4つの開口部)をもつタイプです。

勿幕門


出典:中国百度百科

 勿幕門は、俗称「小南門」と呼ばれていて、中華人民共和国28年(1936年)に開通し、同36年(1947年)に勿幕門と解明されました。これは、辛亥革命の陝西省の烈士「井勿幕」氏を記念して命名されました。井勿幕氏は同盟会最初期の会員の一人であり、民主革命期に大きな影響力を持っていた革命家でしたが、護法運動において壮烈な死を遂げました。

 陝西省の軍民はその鮮烈な殉教を記念して、同35年(1946年)、将軍、井勿幕が西安に居住していたことから、「四府街」の名を改め、「井上将街(通り)」と改め、そして、将街の南端の城門を「井上将門」と命名しました。同36年(1947年)にはまた別の名前に改め、「勿幕街」と「勿幕門」となりました。勿幕門の規格/様式は、単門洞(一つの開口部がある門)です。

 注)上将とは
  中国人民解放軍の階級のひとつであり、最高位の階級。
 
含光門


出典:中国百度百科

 含光門は、南側城壁の最も西に位置する門であり、唐王朝長安皇城の西端の門です。唐末期に、韓建が城を縮小して新城を造った際に、中門洞(開口部)と西門洞(開口部)は封鎖され、東門洞(開口部)はそのまま保留されましたが、北宋時代以降にすべて封鎖されました。

 1984年に西安城壁が修復された時、含光門の遺跡が発掘され、花崗岩で造られた柱の基礎や門の敷居(門檻)、門の通路(門道)も発見されました。新しく建設された城門開口部は東西両側にあり、遺跡は柵で囲み保護しています。外側は煉瓦で、現在の城壁と同じ外観となっています。内部は、人工の採光設備や空調システムを設置し観光客も参観できます。唐時代の皇城の城壁は含光門遺跡も含めて、博物館となっており、人々は城壁の上に入ることができます。含光門の規格/様式は、4門洞(四つの開口部のある門)となっています。

建国門


出典:中国百度百科

 建国門は南城壁の最東端の門であり、新中国建国にかかわる一大歴史的事件を記念し、建国路の南城壁に新たに開設されたことから、建国門と名付けられました。

 建国路の通りは短く狭いですが、厚く重い歴史を支えています。歴史学者の考証によれば、唐王朝の有名な大臣である長孫は、今日の建国路に住んでいました。中華人民共和国時代には、中国内外を震撼とさせた西安事件がここで置きました。その重要人物である張学良将軍の邸宅がここにありました。

 今日、張学良の住居は国家の主要文化遺物保護対象施設にリストに指定されています。建国門の規格/様式は3洞門(3つの開口部のある門)です。

和平門


出典:中国百度百科

 和平門は、大雁塔、大差市、西安鉄道駅、大明宮の含元殿苑らが並ぶ南北の軸線上にあり、1953年に開通しました。戦争で荒廃した中国の人々の世界平和への願望を表現するために、和平門と名付けられました。門の内側は和平路、門の外側は雁塔北路です。和平門の内側を西に進むと文昌門に至ります。

 その間は、青石の石版で舗装がなされた城に沿った路地があり、これは「下馬陵」のようでした。2100年以上前に、もし漢王朝の武帝がこの地に入ったとしても、馬から下りて歩いて行っただろうと言われています。なぜなら、有名な政治家の董仲舒がここに埋葬されたことに因んで「下馬陵」と名付けられたたからです。和平門の規格/様式は4洞門(4つの開口部がある門)です。

 注)董仲舒(とうちゅうじょ)紀元前176年-紀元前104年)
  中国前漢時代の儒学者、『春秋』学者。儒家の思想を国家教学とすることを献策した人物。その思想の
  最大の特徴は「災異説」。

文昌門


出典:中国百度百科

 文昌門は碑林博物館の北側にあり、1986年に開通しました。この城壁の上には魁星楼が建てられていますが、西安城壁の中で唯一、軍事防衛とは関係のない施設です。魁星楼は、"奎星 "とも呼ばれています。奎星は二十八星宿のひとつでであり、学問や芸術を盛んにする運動を司る神は "文曲星"と"文昌星"として知られています。もし、あなたが彼の朱筆で添削されたら、あなたは優れた文章を書く才能が身につき、「連中三元」(連続合格)するでしょう。

 したがって、古代の孔子廟と学校では、すべて、魁星楼に線香灯明を捧げています。明と清の時代には、西安府と孔子廟が城壁の隣に建てられ(現在は碑林博物館)、そのついでに魏星楼が新たに城壁の上に建てられました。魁星楼は1986年に修復され、階下に新しく城門を開設され、その門は文昌門と名付けられました。文昌門の規格/様式は、4洞門(4つの開口部がある門)です。

 注)二十八星宿(Wikipediaより)
  天球を、28のエリア(星宿)に不均等分割したもの。二十八舎(にじゅうはっしゃ)ともいう。またその
  区分の基準となった天の赤道付近の28の星座(中国では星官・天官といった)のこと。中国の天文学
  ・占星術で用いられた。

 注)奎星(コトバンクより)
  北斗七星の第一星から第四星までをいう。中国では文章をつかさどる神とされ,俗に奎星(けいせい)
  と称される。学問の神である文昌帝君と兼祀されることも多く,とくに科挙の受験生に信奉された。


西側城壁の二つの門

安定門


出典:中国百度百科

 安定門は通常西門と言われており、西城壁の最も南にあり、もともとは、皇城の西に面する中央の門でした。明時代に城壁の拡張工事が行われ、門の位置はやや南側に移動しました。そして、西部国境地帯の安泰と健康を願う意味を込めて安定門と名付けられました。この門には、もとから城楼、箭楼、閘楼の三重の門楼があります。三道城壁で、城楼は内側に、箭楼は中間にあり、閘楼は外側にありました。

 門楼の下はアーチ型の開口部があり、高さと幅は6メートルです。城楼と箭楼の間には、四角い甕城があり、平常時は、ここから出入りしますが、戦時にはこれが防衛の要となります。城楼の北側には日本の天皇が西安を訪問した際に展望した場所があり、観光客も訪れます。ここは、国家重点文物保護対象施設となっています。西門の箭楼は、中国で今まで最も完全に古城の要塞が保存されているところです。城門内には、西大街(西大通り)、門外には西関正街が通っています。安定門の規格/様式は6+1式の洞門(左右に3本ずつ道路があり、中央に1つ開口部のある門)です。


玉祥門


出典:中国百度百科

 中華人民共和国の15年(1926年)、 吴佩孚(ごはいふ)の手先の河南軍閥の劉鎮華が西安城を8ヶ月にわたって包囲し、西安の人々が4万人以上もが寒さに凍え餓死しました。すぐに馮玉祥将軍率いる国民連合軍がやってきて鎮華を打ち負かした後、西安は包囲を解かれました。

 同17年(1928年)、戦火で打ち破れた城壁の割れ目を修復しここに城門を設置しました。馮將軍が入場して歴史的功績を残したことを記念して、この門は玉祥門と名付けられました。この門は西城壁最北の門となります。玉祥門の規格/様式は、5門洞(5つの開口部のある門)です。

北側城壁の6つの門

尚武門



出典:中国百度百科


出典:グーグルストリートビュー

  尚武門は、西安北側城壁の西端にあり、中華人民共和国の設立後に開かれました。城門の内側と北西にはそれぞれ3本の道路があり、城門外側には工農路(工農通り)があります。尚武門の規格/様式は4洞門(開口部(穴)は4つある門)です。


安遠門


出典:中国百度百科

 安遠門は通称「北門」として知られており、明時代に城壁が建てられ、正式名称は「安遠門」です。

 「安遠」という二文字は、中部平野の漢朝廷が遠方の少数民族に対して懷柔安撫政策(懐柔し和解をもとめる政策)を取ったことに由来しています。漢の朝廷は、それによって少数民族が朝廷に対して恩を感じて屈服することを期待していました。

 1911年の辛亥革命の時、蜂起軍は満清(満州・清国)を攻撃し、安遠門での戦闘は激しくなり、交戦により、北門は戦火を浴びました。市壁が1983年に改装されたとき、元の箭楼が修復されました。安遠門の規格/様式は4+1式洞門(両側に日本の道路、中央に開口部がひとつある門)です。


尚德門


出典:中国百度百科

  尚徳門は安遠門の東に位置し、中華人民共和国の設立後にオープンしました。中華人民共和国の16年目(1927年)には、時まさに「新生活運動」が始まり「四維・八徳」が提唱され、南北垂直の道路を東西の軸で分割すると、「四維」の「勤勉、倹約、仁、徳」の4つに分けられ、これに“尚”の文字を頭に付けて、すなわち、尚勤路、尚倹路、尚仁路(後に中正路と改められ、現在は解放路)、尚徳路と名付けました。1949年中華人民共和国成立後、ここに北城壁尚勤路、尚倹路、尚徳路の三つの道路に三つの城門をオープンし、それぞれ、尚勤門、尚倹門、尚徳門と名付けました。尚徳門の規格/様式は3門洞(3つの開口部のある門)となっています。

 注)四維(コトバンクより)
  1 天地の四つの隅。乾(いぬい)(北西)・坤(ひつじさる)(南西)・巽(たつみ)
   (南東)・艮(うしとら)(北東)の四つの方角。しゆい。「四維の陣」
   「―国界の数里をしるす」〈奥の細道〉
  2 《「管子」牧民から》国家を維持するのに必要な四つの大綱。礼・義・廉
    ・恥の四つの道徳。

 注)八徳(コトバンクより)
   ① 八種の徳。仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つ。


西安城壁(詳細4)つづく