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青龍・空海1 西安 (Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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 次は青龍寺・空海1です。jここでは、日本の空海(後の弘法大師)が遣唐使として中国の西安(当時長安)にわたり、帰国後、高野山で真言密教を開くまでについて概説します。

◆青龍寺・空海1

概要

 空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の日本の僧です。

 弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる真言宗の開祖です。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお)。日本天台宗の開祖最澄と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭 (へきとう)に位置し、中国より真言密教をもたらしました。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられています。


出典:Wikipeia

 ※ 空海 弘法大師  (知ってるつもり?)


仏道修行


御厨人窟(高知県室戸市)
 Source:WikimediaCommons

 延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったといいます。

 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示しました。この時期より入唐(中国の当時の首都、長安、今の西安に行くこと)までの空海の足取りは資料が少なく、断片的で不明な点が多いのです。

 しかし吉野の金峰山や四国の石鎚山などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだことは想像に難くありません。『大日経』を初めとする密教経典に出会ったのもこの頃と考えられています。さらに中国語や梵字・悉曇などにも手を伸ばした形跡もあります。

 ところでこの時期、一沙門より「虚空蔵求聞持法」を授かったことはよく知られるところです。『三教指帰』の序文には、空海が阿波の大瀧岳や土佐の室戸岬などで求聞持法を修めたことが記され、とくに室戸岬の御厨人窟で修行をしているとき、口に明星が飛び込んできたと記されています。

 このとき空海は悟りを開いたといわれ、当時の御厨人窟は海岸線が今よりも上にあり、洞窟の中で空海が目にしていたのは空と海だけであったため、空海と名乗ったと伝わっています。求聞持法を空海に伝えた一沙門とは、旧来の通説では勤操とされていたが、現在では大安寺の戒明ではないかといわれています。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者です。

 空海の得度に関しては、延暦12年に、20歳にして勤操を師とし和泉国槇尾山寺で出家したという説、あるいは25歳出家説が古くからとなえられていましたが、延暦23年、遣唐使が遭難し来年も遣唐使が派遣されることを知り、入唐直前31歳の延暦23年(804年)に東大寺戒壇院で得度受戒したという説が有力視されています。

 ただし、太政官譜では延暦22年(803年)4月7日出家したと記載されています。空海という名をいつから名乗っていたのかは定かではありません。無空や教海と名乗った時期があるとする文献もあります。

入唐求法


Possible route of Kento-shi vessels (from Japan to Tang-China)
空海は濃いブルーの経路で中国の唐にわたりました
Source:Wikimedia Commons


青龍寺 (トリップアドバイザー提供)

 延暦22年(803年)、空海は医薬の知識を生かして推薦され、直前に得度しましたが遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念し、翌年に、長期留学僧の学問僧として唐に渡ることになります。

 第18次遣唐使一行には、最澄や橘逸勢、後に中国で三蔵法師の称号を贈られる霊仙がいました。最澄はこの時期すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されており、当時の仏教界に確固たる地位を築いていましたが、空海はまったく無名の一沙門でした。

 同年5月12日、難波津を出航、博多を経由し7月6日、肥前国松浦郡田浦、五島市三井楽町 から入唐の途につきました。空海と橘逸勢が乗船したのは遣唐大使の乗る第1船、最澄は第2船でした。この入唐船団の第3船、第4船は遭難し、唐にたどり着いたのは第1船と第2船のみでした。


青龍寺・空海2つづく