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青龍・空海2 西安 (Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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 次は青龍寺・空海2です。jここでは、日本の空海(後の弘法大師)が遣唐使として中国の西安(当時長安)にわたり、帰国後、高野山で真言密教を開くまでについて概説します。

◆青龍寺・空海2


五島市三井楽 空海『「辞本涯」(日本さいはての地を去るの意)の碑』
 Source:WikimediaCommons

 空海の乗った船は、途中で嵐にあい大きく航路を逸れて貞元20年(804年)8月10日、福州長渓県赤岸鎮に漂着しました。海賊の嫌疑をかけられ、疑いが晴れるまで約50日間待機させられます。このとき遣唐大使に代わり、空海が福州の長官へ嘆願書を代筆しています。

 また、空海個人での長安入京留学の嘆願書「啓」を提出し、「20年留学予定」であると記述しています。その理路整然とした文章と優れた筆跡により遣唐使と認められ、同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安に入ったjのです。

 永貞元年(805年)2月、西明寺に入り滞在し、空海の長安での住居となりました。

 長安で空海が師事したのは、まず醴泉寺の東土大唐 三藏法師。密教を学ぶために必須の梵語に磨きをかけたものと考えられています。空海はこの般若三蔵から梵語の経本や新訳経典を与えられています。

 5月になると空海は、密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになります。恵果は空海が過酷な修行をすでに十分積んでいたことを初対面の際見抜いて、即座に密教の奥義伝授を開始し、空海は6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受けます。

 8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた。この名は後世、空海を尊崇するご宝号として唱えられるようになります。このとき空海は、青龍寺や不空三蔵ゆかりの大興善寺から500人にものぼる人々を招いて食事の接待をし、感謝の気持ちを表しています。

 8月中旬以降になると、大勢の人たちが関わって曼荼羅や密教法具の製作、経典の書写が行われました。

 恵果和尚からは阿闍梨付嘱物を授けられました。伝法の印信である。阿闍梨付嘱物とは、金剛智 - 不空金剛 - 恵果と伝えられてきた仏舎利、刻白檀仏菩薩金剛尊像など8点、恵果和尚から与えられた健陀穀糸袈裟や供養具など5点の計13点です。対して空海は伝法への感謝を込め、恵果和尚に袈裟と柄香炉を献上しています。

 同年12月15日、恵果和尚が60歳で入寂。元和元年(806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草しました。

 そして、3月に長安を出発し、4月には越州に到り4か月滞在しました。ここでも土木技術や薬学をはじめ多分野を学び、経典などを収集しました。折しも遭難した第4船に乗船していて生還し、その後急に任命されて唐に再渡海していた遣唐使判官の高階遠成を通じ上奏し、「20年の留学予定を短縮し2年で留学の滞在費がなくなったこと」を理由に唐朝の許可を得、その帰国に便乗する形で、8月に明州を出航して、帰国の途についたのです。

 途中、暴風雨に遭遇し、五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開いたため、後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになりました。福江の地に本尊・虚空蔵菩薩が安置されていると知った空海が参籠し、満願の朝には明星の奇光と瑞兆を拝し、異国で修行し真言密教が日本の鎮護に効果をもたらす証しであると信じ、寺の名を明星院と名づけたといいます。

虚しく往きて実ちて帰る

 「虚しく往きて実ちて帰る」という空海の言葉は、わずか2年前無名の一留学僧として入唐した空海の成果がいかに大きなものであったかを如実に示しています。

 大同元年(806年)10月、空海は無事、博多津に帰着。大宰府に滞在し、呉服町には東長寺を開基し、また宗像大社神宮寺であった鎮国寺を創建したと伝わっています。日本ではこの年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していました。


大宰府正殿跡(福岡県太宰府市)
 Source:WikimediaCommons

 空海は、10月22日付で朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものでした。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられています。「未だ学ばざるを学び、聞かざるを聞く」、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系でした。

 空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、空海に対して、朝廷は対応に困ったのか大同4年(809年)まで入京を許可せず、大同元年10月の帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされました。大同2年(807年)より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住しています。この時期、空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていたとされています。


青龍寺・空海3つづく