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青龍・空海3 西安 (Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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 次は青龍寺・空海3です。jここでは、日本の空海(後の弘法大師)が遣唐使として中国の西安(当時長安)にわたり、帰国後、高野山で真言密教を開くまでについて概説します。

◆青龍寺・空海3

真言密教の確立


嵯峨天皇
 Source:WikimediaCommons

 大同4年(809年)、平城天皇が譲位し、嵯峨天皇が即位した。空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺に入りました。

 注)施福寺(せふくじ)
  大阪府和泉市にある天台宗の寺院。通称槇尾寺(まきおでら、まきのおでら)。
  本尊は弥勒菩薩(札所本尊は十一面千手観音)。槇尾山の山腹に位置する。
  西国三十三所第4番札所である。槇尾山とともに大阪みどりの百選に選定さ
  れている。
  
  弘法大師御髪堂 
  Source:Wikimedia Commons
]
 この空海の入京には、最澄の尽力や支援があった、といわれています。その後、2人は10年程交流関係を持った。密教の分野に限っては、最澄が空海に対して弟子としての礼を取っていました。

 しかし、法華一乗を掲げる最澄と密厳一乗を標榜する空海とは徐々に対立するようになり、弘仁7年(816年)初頭頃には訣別するに至ります。2人の訣別に関しては、古くから最澄からの理趣釈経の借覧要請を空海が拒絶したことや、最澄の弟子泰範が空海の下へ走った問題があげられます。しかし、近年その通説には疑義が提出されています。

 大同5年(810年)、薬子の変が起こったため、嵯峨天皇側につき鎮護国家のための大祈祷を行いました。

 弘仁2年(811年)から弘仁3年(812年)にかけて乙訓寺の別当を務めました。

 弘仁3年11月15日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇しました。入壇者には、最澄も含まれていました。さらに12月14日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼっています。

 注)灌頂(かんじょう, 梵: abhiṣeka, abhiṣecana)
  灌頂とは、菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位(くらい)に
  達したことを証明すること[1]。密教においては、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅
  と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式
  のことをいう。本項では密教における潅頂について述べる。

 弘仁4年(813年)11月23日、最澄が空海に「理趣釈経」の借覧を申し入れましたが、密教の真髄は口伝による実践修行にあり、文章修行ではないという理由で空海は拒否しました。

 弘仁6年(815年)春、会津の徳一菩薩、下野の広智禅師、萬徳菩薩などの東国有力僧侶の元へ弟子康守らを派遣し密教経典の書写を依頼した。時を同じくして西国筑紫へも勧進をおこないました。この頃『弁顕密二教論』を著しています。

 弘仁7年(816年)6月19日、修禅の道場として高野山の下賜を請い、7月8日には、高野山を下賜する旨勅許を賜ります。翌弘仁8年(817年)、泰範や実恵ら弟子を派遣して高野山の開創に着手し、弘仁9年(818年)11月には、空海自身が勅許後はじめて高野山に登り翌年まで滞在しました。弘仁10年(819年)春には七里四方に結界を結び、伽藍建立に着手しました。

 この頃、『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』『文鏡秘府論』『篆隷万象名義』などを立て続けに執筆しました。

 弘仁10年7月、嵯峨天皇の勅命によって宮中の中務省に居住しました。勅命の理由は不明ですが、中務省の役割から考えて詔勅などの文章作成の指導あるいは代筆を求められたと考えられ、弘仁11年(820年)5月に『文鏡秘府論』を要約した『文筆眼心抄』を著しているのも中務省など官人の文章作成能力の向上という天皇の依頼に応えるためだったとみられています。

 弘仁12年(821年)、満濃池(まんのういけ)の改修を指揮して、アーチ型堤防など当時の最新工法を駆使し工事を成功に導きました。

 弘仁13年(822年)、太政官符により東大寺に灌頂道場真言院建立。この年平城上皇に潅頂を授けました。


東寺(京都府京都市)
 Source:WikimediaCommons

 弘仁14年(823年)正月、太政官符により東寺を賜り、真言密教の道場としました。後に天台宗の密教を台密、対して東寺の密教を東密と呼ぶようになります。東寺は教王護国寺の名を合わせ持ちますが、この名称は鎌倉時代以降に用いられます。

 注)東寺(とうじ)
  東寺は、京都市南区九条町にある東寺真言宗の寺院。東寺は真言宗の
  根本道場であり、東寺真言宗の総本山である。教王護国寺(きょうおうご
  こくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。本尊は薬師如
  来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。
  
  堂本尊・薬師如来坐像 Source:Wikimedia Commons
  東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より
  空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降
  の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民
  の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続
  している。1934年(昭和9年)に国の史跡に指定、1994年(平成6年)12月には
  「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産に登録された。

 天長元年(824年)2月、勅により神泉苑で祈雨法を修しました。3月には少僧都に任命され、僧綱入り。6月に造東寺別当。9月には高雄山寺が定額寺となり、真言僧14名を置き、毎年年分度者一名が許可となりました。

 天長5年(828年)には『綜藝種智院式并序』を著すとともに、東寺の東にあった藤原三守の私邸を譲り受けて私立の教育施設「綜芸種智院」を開設しました。当時の教育は、貴族や郡司の子弟を対象にするなど、一部の人々にしか門戸を開いていなかったのですが、綜芸種智院は庶民にも教育の門戸を開いた画期的な学校でした。

 綜芸種智院の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもありました。


青龍寺・空海4つづく