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青龍・空海4 西安 (Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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 次は青龍寺・空海3です。jここでは、日本の空海(後の弘法大師)が遣唐使として中国の西安(当時長安)にわたり、帰国後、高野山で真言密教を開くまでについて概説します。

◆青龍寺・空海4

 綜芸種智院の名に表されるように、儒教・仏教・道教などあらゆる思想・学芸を網羅する総合的教育機関でもありました。

 『綜藝種智院式并序』において「物の興廃は必ず人に由る。人の昇沈は定んで道にあり」と、学校の存続が運営に携わる人の命運に左右される不安定なものであることを認めたうえで、「一人恩を降し、三公力をあわせ、諸氏の英貴諸宗の大徳、我と志を同じうせば、百世継ぐを成さん」と、天皇、大臣諸侯や仏教諸宗の支持・協力のもとに運営することで恒久的な存続を図る方針を示しています。

 注)綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)
  綜芸種智院は、天長5年12月15日(828年1月23日)、空海が庶民教育
  や各種学芸の綜合的教育を目的に、藤原三守から譲り受けた京都の
  左京九条の邸宅に設置]した私立学校といわれている。本来は綜藝
  種智院だが、新字体による表記の綜芸種智院が、現在は一般的。
  綜芸とは、各種の学芸を綜合するという意味。
  出典:Wkipedia

 ただし、これは実現しなかったらしく、綜芸種智院は空海入滅後10年ほどで廃絶されています。現在は種智院大学および高野山大学がその流れを受け継いでいます。

 天長7年(830年)、淳和天皇の勅に答え『秘密曼荼羅十住心論』十巻を著し、後に本書を要約した『秘蔵宝鑰』三巻を著しました。

 天長8年(831年)5月末、病を得て、6月大僧都を辞する旨上表しますが、天皇に慰留されました。

 天長9年(832年)8月22日、高野山において最初の万燈万華会が修されました。空海は、願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」と想いを表しています。その後、秋より高野山に隠棲し、穀物を断ち禅定を好む日々であったと伝えられています。

 注)「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」
  現代訳:虚空がなくなり、人々もなくなり、さとりも尽きたならば、私の願い
  も尽きるだろう

  この「願い」とは、仏に帰依する者が自分自身にかす、課題であり行為
  のことである。自分のための行為が、そのまま他人の利益に繋がり、結
  果、人々のために行う、「自分自身の課題」である。言うなれば、「悲願」
  に等しい、「大師のご誓願」つまり確固たる決意表明であり、信仰と信念
  の披瀝である。
  大師自身の強い理念、『自利他利の道の実現』により、現実に多くの人々
  が、抱え苦しんでいる「課題」と、自分が追求すべき「課題」は、切り離すべ
  きではない。 と、いう考えに他ならず、実際社会で起きている、様々な困
  難や問題を、自らの信仰的実践の対象ととして捉える。
  そう踏まえた上で、改めてこの言葉を読み返すと、大師のご誓願=悲願は、
  正に「わが願い」であり、深い感銘を受けずに居られない。
  出典:Nudita Ameba

 承和元年(834年)2月、東大寺真言院で『法華経』、『般若心経秘鍵』を講じました。12月19日、毎年正月宮中において真言の修法を行いたい旨を奏上。同29日に太政官符で許可され、同24日の太政官符では東寺に三綱を置くことが許されています。


金剛峯寺(和歌山県高野町)
 Source:WikimediaCommons

 注)高野山(こうやさん)
  高野山とは、和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を、
  1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地を指す。
  平安時代の弘仁7年(816年)に嵯峨天皇から空海(弘法大師)が下賜され、
  修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。
  現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成して
  いる。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺(山号は高野山)、
  大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ね
  ている。
  2004年(平成16年)7月7日、高野山町石道と金剛峯寺境内(6地区)、建造物
  12件が熊野、吉野・大峯と共に『紀伊山地の霊場と参詣道』としてユネスコの
  世界遺産に登録された[2]。さらに2016年(平成28年)10月24日、高野参詣道
  (町石道を含み登録名称変更)として黒河道、女人道、京大坂道不動坂、三
  谷坂が世界遺産に追加登録された。

 承和2年(835年)、1月8日より宮中で後七日御修法を修す。宮中での御修法は、明治維新による神仏分離による短期の中断をはさみ、東寺に場所を移し勅使を迎え毎年行われています。1月22日には、真言宗の年分度者3人を申請して許可されています。2月30日、金剛峯寺が定額寺となりました。3月15日、高野山で弟子達に遺告を与え、3月21日に逝去しました。享年62です。

 伝真済撰『空海僧都伝』によると死因は病死で、『続日本後紀』によると遺体は荼毘に付されたようです。しかし後代には、入定したとする文献が現れます。

 天長8年に病を得て以降の空海は、文字通り生命がけで真言密教の基盤の強化とその存続のために尽力しました。とくに承和元年12月から入滅までの3か月間は、後七日御修法が申請から10日間で許可されその10日後には修法、また年分度者を獲得し金剛峯寺を定額寺とするなど、密度の濃い活動を行いました。すべてをやり終えた後に入定、すなわち永遠の禅定に入ったとされています。

弘法大師

 旧宅跡に建つ弘法大師像(善通寺西院)


遍照院内に建つ弘法大師像
 Source:WikimediaCommons

 延喜21年(921年)10月27日、東寺長者観賢の奏上により、醍醐天皇から「弘法大師」の諡号が贈られました。

 高野山壇上伽藍・根本大塔の塔内の正面に昭和天皇の宸筆の扁額「弘法」が掲げられています。

 最初は「本覚大師」の諡号が贈られることになっていましたが、「弘法利生(こうぼうりしょう)」の業績から、「弘法大師」の諡号が贈られることになりました。

 中世に入ると、空海の評伝を絵画化する動きが見られた。「弘法大師伝絵」と呼ばれるもので、絵巻の作品が中心です。「高野大師行状図画」、「弘法大師行状絵巻」などがよく知られ、空海のさまざまな伝説が、全国に知られる一因となりました。

 注)弘法大師伝絵
  弘法大師の伝記を絵画化したもの。絵巻が主で,遺存する数量は法然,
  一遍らの絵伝に匹敵するほど多い。『高祖大師秘密縁起』 (13世紀中頃) ,
  『高野大師行状図画』 (1272頃) ,『高野大師行状図画』 (1319頃) ,版本
  の『高野大師行状図画』,『弘法大師行状絵巻』 (74~89) の5系統がある。
  出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典

 弘法大師は「空海」を越え、千年の時を越え、普遍化したイメージでもあります。歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名におよびますが、一般的に大師といえばほとんどの場合、弘法大師を指します。空海を知らなくても「弘法さん」「お大師さん」を知る人は多いと言えます。

 真言宗では、宗祖空海を「大師」と崇敬し、その入定を死ではなく禅定に入っているものとしています。高野山奥の院御廟で空海は今も生き続けていると信じ、「南無大師遍照金剛」の称呼によって宗祖への崇敬を確認しています。なお、真言宗醍醐派では、空海に大師号が贈られる以前から帰依し信仰していたことを強調するため「南無遍照金剛」と大師をつけずに呼ぶ場合があります。

 故郷である四国において彼が山岳修行時代に遍歴した霊跡は、四国八十八箇所に代表されるような霊場として残り、それ以降霊場巡りは幅広く大衆の信仰を集めています。


青龍寺・百度百科1つづく