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漢代の長城

(甘粛省敦煌市)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2020年4月1日
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

◆漢代の長城1( 中国敦煌市)


漢代の長城  出典:中国百度百科:



出典:ふれあい中国


出典:ふれあい中国

  漢代長城は、「紀元前121年」酒泉郡が設けられた後に、漢武帝は令居(今の永登)の以西の亭、障、塞を建てはじめました。いわゆる「塞」は長城であり、「亭」と「障」は烽火台であり、大きいのは障と呼ばれ、小さいのは亭と呼ばれています。

漢代長城 Handaichangchengについて

 前漢時代に対匈奴用に築かれた長城の址。もともと中国がまだ統一されていない戦国時代に、斉・燕・趙・魏などの諸国が国境防衛のために築いた壁(初期は土嚢を積み上げたような簡単なもの)を、秦の統一後に始皇帝が統合・増築しました。さらに前漢武帝によって河西回廊を領有するにいたってここ敦煌まで延伸されました。沙漠地帯では煉瓦を焼くための燃料が貴重なことから、おもに版築と呼ばれる工法で壁が築かれています。まず板枠の中に土を盛り、一層ずつ杵で突き固めていきます。補強材として沙漠でも比較的手に入りやすい葦を用います。一般に思い浮かべる北京郊外にある煉瓦造りの強固な長城は対モンゴル用に明代に修造されたものです。

出典:敦煌旅遊集団有限責任公司 敦煌支店 日本部
   http://tabi-dunhuang.com/spot-beacon-01-hanchangcheng.html

 以下はいわゆる万里の長城のうち漢代長城に関連する部分のWikipediaの解説です。

概要

 万里の長城は、中華人民共和国に存在する城壁の遺跡です。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、2007年には新・世界七不思議にも選ばれています。

 中国には他にも長く連なった城壁、いわゆる長城は存在しますが、万里の長城が規模的にも歴史的にも圧倒的に巨大なため、単に長城と言えば万里の長城のことを指します。現存する人工壁の延長は6,259.6kmです。

 匈奴のような北方の異民族が侵攻してくるのを迎撃するために、秦代の紀元前214年に始皇帝によって建設されました。長城は始皇帝によって建設されたと一般には考えられていますが、実際には、その後いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返され、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものです。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退していますs。

 万里の長城は南北両勢力の境界線として機能したが、北方の遊牧民族も南方の農耕民族もお互いの物産を必要としており、長城沿いには交易所がいくつも設けられ、盛んに取引が行われていました。交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もありました。

 その交易を有利にするための威嚇として、明の力が弱い時期に北方民族は長城を越えて侵入を繰り返していました。また、長城は観念上においても両勢力の境界線として機能し、たとえば中原の諸王朝が北方遊牧民族を指す場合、「塞外」(塞は城塞の意味で、この場合万里の長城を指す)という言葉が用いられることも多かったと言えます。

 万里の長城は建設後常に維持・利用されていたわけではなく、積極的に長城を建設・維持する王朝と、まったく長城防衛を行わない王朝の2種が存在し、各王朝の防衛戦略によって長城の位置も大きく変動しています。

 始皇帝による建設以後においては、秦・前漢・北魏・北斉・隋・金・明は大規模な長城建設を行ったのに対し、後漢・魏・晋・五胡十六国の諸王朝・唐・五代の各王朝・宋・元・清は長城防衛をほとんど、あるいはまったく行わなっていません。長城の建設位置に関しても、秦・前漢・金は中原から遠く離れた草原地帯に長城を建設したのに対し、北魏・北斉・明は中原に近い山岳地帯を中心に長城を建設しました。

現存長城の建設

構造


 八達嶺長城。壁面は煉瓦によって覆われ、頂面は人が楽にすれ違えるほどの幅の通路となっている。内側の壁は柵の役割を果たすのみであるが、外側の壁は切込みが一定間隔で入り内側よりも高く、外敵に対する防護壁の役割を担っている。数百mごとに敵台が設けられ、戦闘時の拠点となっています

 長城は膨大な長さになり、そのすべてに兵士を貼りつかせることは不可能であるため、烽火台を長城近辺に建設して急を知らせ、また迅速な情報伝達と兵力の投入を可能とすることで長城の兵力不足を補っていました。この烽火システムは長城外部の見張り台、および長城内部の諸都市や首都と結ぶ烽火システムと連携していました。

 長城は外部の騎馬民族の侵攻を防ぐための障壁ですが、平時においては内部と外部には頻繁な交流があったため、いくつかの関所を設けて交易の便を図っていました。関所の内側には関城と呼ばれる城塞が作られ、兵士たちの居住の場となりました。

 関所の外側にはしばしば甕城と呼ばれる半円形の城壁が張り出して設けられ、城門を保護していました。関所は内側の中華世界と外側の遊牧世界との接点であったため、この場所において盛んに交易がおこなわれました。これは互市と呼ばれ、中国からは絹や茶、金・銀が輸出され、遊牧民からは主に馬が輸出されてとくに塞外の遊牧民族にとっては重要な経済活動の一つとなっていました。

主な長城・関の一覧

長城本線の東端、老龍頭

明代・慕田峪長城

明代の長城西端にあたる嘉峪関の門
※東から西の順。

北京以東
 虎山長城
 遼寧省丹東市にあり、明代長城の支線の東端にあたる。
 老龍頭長城(ろうりゅうとう)
 山海関にほど近い長城。ここで明代長城の本線は海中に没する。
 山海関(さんかいかん)
 河北省秦皇島市にあり、明代長城本線の東端にあたる。
 黄崖関長城(こうがいかん)(天津市薊州区)

北京周辺
 ※北京近辺で訪問できる場所

司馬台長城(しばだい)
険しい山の上に築かれている。あえてあまり修復されていない。
 金山嶺長城(きんざんれい)
 慕田峪と司馬台の間にあり、司馬台とお互いに徒歩で行き来できる。
 蟠龍山長城
 あえて全く修復せずに公開された長城。崩れかかった長城の上に歩道だけを整備して公開された。
 古北口長城(こほくこう)
 大榛峪長城(だいしんよく)
 黄花城長城(こうかじょう)
 慕田峪長城(ぼでんよく)
 八達嶺に次ぐ著名な見学地。ロープウェイが存在するため登りやすい。
 箭扣長城(せんこう)
 八達嶺長城(はったつれい)
 もっとも有名な見学地。ツアーのほか北京市内からの路線バスも頻繁にあり、多くの観光客が押し寄せる。
 水関長城(すいかん)
 居庸関 ・居庸関長城(きょようかん)
 八達嶺長城のすぐ北京寄りにある。元代に建築された雲台が著名。2006年に修復後公開された。
 挿箭嶺長城(そうせんれい)

北京以西

 明・長城の狼煙台(楡林市)
 老牛湾長城(ろうぎゅうわん)
 楡林鎮北楼(ゆいりんちんほくろう)
 三関口長城(さんかんこう)
 トングリ砂漠長城
 丹峡口長城(たんきょうこう)
 嘉峪関(かよくかん)
 甘粛省嘉峪関市にある関で、明代長城の西端にあたる。
 河倉城(かそうじょう)
 玉門関(ぎょくもんかん)
 
甘粛省敦煌市にある関で、嘉峪関よりは西にあり、漢代長城はここを西端としていた。
 陽関(ようかん)
 玉門関と共に「二関」として設置され、玉門関のすぐ南にあるのでこう呼ばれた。



展示1つづく