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兵馬俑 百度百科5

西安
(Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は中国西安市(長安)の兵馬俑の百度百科版の5です。

◆兵馬俑 百度百科5



■兵馬俑(百度百科) 出土文物 

●出土文化財

 兵馬俑は身分の違いによって分類できます。主に、兵士と軍吏(陸軍で行政事務を司る役人)の二種類に分けられます。軍吏の中にも低級、中級、高級の区別があります。一般の兵士は冠をかぶらないのに対して、軍吏はかぶります。通常、軍吏の冠と将軍の冠は異なり、また、鎧甲についても違いがあります。その中で、兵隊の俑は、歩兵、騎兵、車兵の三つのカテゴリーに分けられます。実践上の必要に応じて、それぞれの兵士がそれぞれ異なる装備をしています。

 俑坑の中で最も多いのは武士の俑で、大部分が手に青銅の兵器をもっており、それらは、弓、クロスボー(横弓)、鏃(矢じり)、鈹(か=長い矛の一種で、穂先に刀剣と同じ柄舌を備えている)、矛、戈(ほこ=両刃の剣に長い柄を付けた大昔の武器)、殳(しゅ)、剣、弯刀(わんとう=蛤刃)そして、斧などがありました。武士が身につける甲の一枚一枚は細密に造られた鎧甲であり、胸の前の部分には色鮮やかな糸を引き込んで結び目をつくり仕上げられています。軍吏は頭に、長い尾のある冠をかぶり、武将に比べその数は多くなっています。秦時代の俑のひとつひとつの顔の形、体つき、表情、眉毛、眼光そして年齢はすべて異なっています。

 注)戈(カ、ほこ) Wikipediaより
  敵を打ち据える動作によって殺傷するのに適した穂先を持つ、古代東アジアのピッケル状の
  長柄武器(長兵)である。

 注)殳(しゅ) ニコニコ大百科、コトバンクより
  古代中国の棒状の武器である。長さ一丈二尺で刃はない。木、また竹を束ねて作る。 木製の
  棍棒で,竹を割ってそれを麻布でつつみ,さらに糸を巻いた上に漆を塗っ たものが多かった。
  別に堅い木を使うこともあった。

 注)弯刀(わんとう)「刀剣」著者:小笠原信夫 より抜粋
  日本刀のように刃が湾曲して反った刀。
 ...鎌倉時代に完成をみた日本刀(弯刀)の様式は、物を切る場合に直刀よりも弯刀の方が衝
  撃が少なく実用に優れていることが確認されたものである。それと同時に、作刀技術の進歩も見
  逃すことはできない。刀剣に反りをつけることは一件簡単な技術に見えるが、刃寄りの薄い方を
  張らせ、棟の暑い方へ反らせることは技術的には難しい仕事である。従って弯刀は馬上から断
  ち切る戦闘から必然的に生まれたというだけでなく、鉄生産及び鍛錬技術の進歩に追うところが
  大きい。


<車兵俑:戦車に乗って闘う兵士の俑>


兵馬俑展示  出典:中国百度百科

 車士、とはすなわち戦車上の騎手や操縦・運転する者を除く兵をさします。一般的に戦車の上には、左右に分かれて名軍士(すぐれた兵士)が乗っています。左側の俑は、長いジャケットに鎧甲を身につけ、足の脛には足を防護するためのものを装着し、頭には幘(さく:中国で髪を包んだ頭巾)をかぶり、左手には矛や戈や戟(げき)などの長い兵器を持ち、右手は、車の状態をコントロールします。

 注)戟(げき) Wikipediaより
  古くから中国に存在する武器で戈(か)や矛(ぼう)の機能を備えたもの。異体字として象形
  文字の屰がある。主に殷から唐代にかけて多用された。複数の武器の機能を併せ持たせた
  武器というものはヨーロッパにも見られる。

 戦車の右側の俑の装束は、左側の俑と同様ですが、姿勢は異なります。彼らは、戦車の主戦力であり、文献によると、彼らの兵器の配置と作戦上の役割にはある種の区別がありました。秦の俑坑の戦車遺跡の周囲から発見された兵器には、秦時代の戦車の左と右両側は等しく手に戈をもち、矛など格闘用の長い兵器及び弓・クロスボウ等の遠くを狙う兵器が備えられていましたが、戦車の右と左の役割については、十分に説明されていません。戦車の上では、騎手と左右の俑以外に作戦の指揮をとる軍吏の俑も発見されています。軍吏には地位の高低の区分があり、作戦式の責任を負っていました。


<立射俑:立って弓を射る兵の俑>


兵馬俑展示  出典:中国百度百科

 秦の俑の中には比較的特殊な兵の一団であり、第二坑の東側部分で発掘されています。彼らは、武器である弓弩(きゅうど:弓の総称)をもち、膝を突いて弓を射る俑と一緒に弓兵軍陣(弓矢で闘う兵の一団)を形成しています。 

 立位で弓を射る俑は陣の前面にたち、身には軽装の戦袍(陣羽織の類)をまとい、髪は束ね髻(もとどり)を挽いて、腰には革帯を着け、先の尖った四角い履き口の靴を履き、装束は軽くて動きやすくなっています。この姿は、まさに《吳越春秋》の如く、上記の“弓を射るには、左足を垂直に立て、右足を横にして、左手は枝のように支え、右手は子供を抱くように、これがまさに弓を持つ道也”と言われるとおりとなっています。

 立位の俑の手の形は文献の記載の通り、秦の始皇帝時代の射撃の技術から発展したもので高いレベルにあると説明されています。各種の動作は、一連の標準的な方式(型)をもっており、次世代にも継承されています。


兵馬俑(百度百科6)へつづく