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高昌故城 (百度百科編2)

(khocho ruins、新疆ウイグル自治区トルファン市)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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蘇公塔

 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次はトルファン市の高昌故城の百度百科編2です。

高昌故城 百度百科2(新疆ウイグル自治区・トルファン市)


高昌古城遺跡   出典:百度百科編


 唐王朝時代の貞観14年(紀元640年)、唐王朝の軍人で吏部尚書(式部卿)であった侯 君集(こう くんしゅう)は兵を伴って高昌(高昌故城)を統一し、ここに、高昌、交河、柳中、蒲昌、天山の5県を管轄する西州を設置しました。入手した高昌国の戸籍統計によると、当時の人口は37,000人でした。

 唐王朝(紀元8世紀末)以降、トルファン人が一時、高昌を占拠していました。

 唐の末期(紀元9世紀中頃)以降、砂漠の北の草原の回鶻汗国が衰退した後、西域出身の人々の一部が高昌に移り住み、回鶻高昌国を設立しました。その領土(境域)は、最盛期には、もともとの唐王朝の西州、伊州、庭州、さらには焉耆(えんぎ)、龟兹(きじ)など二つの都督府(ととくふ)まで含まれました。

 その他、ロプノール一体には、多くの民族やその部落が分布していました。

 注)回鶻汗国
  テュルク系遊牧民族鉄勒(てつろく)の一部族である回紇(かいこつ、ウイグル)部を
  中心に、モンゴル高原からジュンガル盆地東部に勢力を誇った遊牧国家(遊牧帝国、
  可汗国)。ウイグル帝国,ウイグル国,遊牧ウイグル国,ウイグル国家とも呼ばれ、可
  汗(カガン:Qaγan)を奉じていたので回鶻可汗国,ウイグル可汗国,東ウイグル可汗
  国とも、鉄勒(トクズ・オグズ)を中心としたためトクズ・オグズ国とも呼ばれる。中国の
  史書による漢字表記には迴紇、回紇、迴鶻、回鶻などがある。

 注)伊州(いしゅう)とは Wikipediaより
   現在の新疆ウイグル自治区クムル市一帯にかつて存在した州。

 注)庭州(ていしゅう)とは Wikipediaより
  中国にかつて存在した州。唐代に現在の新疆ウイグル自治区昌吉回族自治州一帯
  に設置された。

 注)焉耆(えんぎ) Wikipediaより
  かつて中国(東トルキスタン)に存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国
  新疆ウイグル自治区 バインゴリン・モンゴル自治州 焉耆回族自治県にあたる。

 注)都督府(ととくふ)Wikipediaより
  中国の歴史上、設置された軍事あるいは行政機構。
  唐は漢末魏晋南北朝の都督制を踏襲し、都督の駐屯地に都督府を設立した。北周・
  隋は都督を改めて総管(中国語版)としたが、唐は都督の名称を回復した。都督府は
  一般に数州の軍政を指揮管轄したが、唐が府兵制を実行すると、軍権は朝廷に集中
  し、地方都督にはほとんど実権がなくなった。(以下略)

 金王朝時代の大安元年(紀元1209年)、高昌回鶻の役人が蒙古(モンゴル高原の遊牧民)を伴って成吉思汗(チンギス・ハン)の城を建築し、回鶻高昌王は自分の第5子(娘)を王妃として降嫁させました。

 南宋時代(紀元13世紀)以降、天山山脈以北の広大な地域に広がる西北蒙古遊牧貴族である海都、都哇(ドゥア:モンゴル帝国の皇族)が先頭になって反乱を起こしました。多くの場合、次々に南下して侵略した家臣たちは元王朝が支配する回鶻高昌国の者たちでした。(※ちょっと意味が不明)

 南宋時代の德祐元年(紀元1275年)、天山山脈以北の広大な地域に広がる西北蒙古遊牧貴族の海都と都哇が主導した反乱により12万人が出兵し高昌故城を半年にわたって包囲して攻撃しました。その後、亦都护(高昌王の呼び名)が来て火を放ち、最終的に海都と都哇はこの戦争で戦死しました。この戦争はおよそ40年間にわたって続き、高昌故城は戦争によって破壊されました。

 注)海都(かいと) コトバンクより
  オゴタイカン国の支配者。キプチャク、チャガタイの両カン国と同盟を結び、元朝
  と約三〇年間にわたり抗争した。ハイドゥ。カイドゥ。かいず。1301年没。

 注)都哇(ドゥア) Wikipediaより
  モンゴル帝国の皇族、チャガタイ家の第10代当主(在位:1283年 - 1307年)で、チ
  ャガタイ・ハン国の実質的な建国者である。『集史』などのペルシア語表記では دوا Dūā、
  『元史』などでの漢字表記は諸王都哇。第7代当主バラクの子。 1270年に父のバラク
  がオゴデイ家のカイドゥと対立中に、カイドゥによる毒殺と言われる謎の急死を遂げると、
  父の仇敵であるカイドゥと対立し、カイドゥの側についた第5代当主アルグの遺児チュベ
  イらと激しい抗争を10年近くに渡って繰り広げた。(以下略)

 元王朝の延祐三年~五年(紀元1316年—1318年)、元王朝の支援のもと、元の仁宗(アユルバルワダ)は火赤哈尔的斤の息子である紐林·的斤から册封により王位を継承し、城市(都市)を再度奪回するため兵を率いました。高昌城が戦争によって激しく破壊されたため、火州城(高昌故城を指す)を再建は、もはや旧高昌址には出来ないと判断し、もとの高昌城の西(アスターナ村の住宅地付近)に建設することにしました。こうして元王朝の統治が瓦解した後、火州(トルファン周辺、高昌)は分裂割拠し、「地面」(なにもない場所?)と呼ばれていました。

  注)仁宗(アユルバルワダ)
   アユルバルワダ(モンゴル語:ᠠᠶᠤᠤᠷ ᠪᠠᠯᠪᠠᠳ、Ayurbarwada、漢字:愛育黎抜力八達、
   1285年4月9日 - 1320年3月1日)は、元王朝の第4代皇帝(大ハーン)。

 注)元の滅亡 (歴史の窓より)
  元ではフビライ=ハンの死去(1294年)以後、その孫の6代成宗(テムル)が13年
  統治した後急死し、子がなかったのでまた帝位継承で問題が起き、7代には甥のカ
  イシャン(武宗)が即位、それも数年で死去したため兄弟の8代アユルバルワダ(仁宗)
  が継承、次は子のシディバラ(英宗)となった。これらの皇帝位の継承をめぐって皇太
  后などの介入がしばしば事態を複雑にし、争いが絶えなかった。最後の皇帝順帝が
  即位するまでの40年間に9人の皇帝が交替し、激しい権力闘争は政治不安を増して
  いった。特に仁宗・英宗の時代(1311~23年)は官僚が台頭し、科挙の一時的復活
  など、中国風の統治が強まる一方、チベット仏教が過剰に保護された。宮廷の奢侈生
  活のために交鈔が濫発され、インフレ(物価上昇)が続いて、民衆生活は苦しくなって
  いた。

 注)紐林·的斤(?-1318年)は、高昌回鶻亦都護である巴而朮·阿而忒·的斤のひ孫で  
  火赤哈兒·的斤の息子。

 注)册封(さくほう、さっぽう)
 称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り
 結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の
 一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教
 化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自
 任した。

 1955年春、考古学者たちは、高昌故城で10枚の薩珊王朝(ササーン王朝)の銀貨
  を発掘しました。

 2005年5月、新疆文物考古学研究所は高昌故城の壕(護城河)遺跡の一部について
  考古学調査を実施したところ、高昌故城の外側には確実に壕が有り、壕に関する
  遺跡があることが実証されました。

 2006年、新疆文物考古学研究所は高昌故城の第一次考古学発掘調査を行いました。
  発掘地点は、外城西門と大仏寺の二箇所で行いました。

 2007年3月~6月、新疆文物考古学研究所は、高昌故城の第二次考古学発掘を行い
  ました。発掘地点は大仏寺東北の長屋(並んで立っている家々)と外城西門南と北の
  両側それぞれ200メートルの城壁の3箇所となりました。

 2008年4月~5月、新疆文物考古学研究所は高昌故城の第三次発掘を行いました。
  発掘地点は東南の小仏寺、護城河(壕)と窯跡(陶器を焼くための窯の遺構)の三
  箇所でした。

 2008年11月~12月、新疆文物考古学研究所は、高昌故城の第四次発掘を行いました。
  発掘地点は、大仏寺東南排房(長屋的に並んだ家家)、大仏寺北仏塔、内城西城壁
  の三箇所でした。

 2009年2月~4月、新疆文物考古学研究所は高昌故城の第五次発掘を行いました。
  発掘地点は、内城南城壁南門の段、1,2,3号の民家、外城西城壁西門南2段、重要
  な遺跡と可汗堡(君主の要塞)遺跡200平方メートルの試掘など7箇所でした。


高昌故城(百度百科3)つづく