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大明宮2 西安 (Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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はじめに  陝西省  西安1  西安2  西安3  西安4 大明宮1 大明宮2  興慶宮


 最初はシルクロードの起点となる中国西安市(長安市)の大明宮2です。

◆大明宮2 西安Xi'an 中国西安市)

太液池


太液池
Source:Wikimedia Commons

 園林区の主要な要素をなす池です。紫宸殿の北側の窪地に造営され、大きな西池と小さな東池が東西に連なって瓢箪形をしており、西池は東西484m、南北310mの大きさで、中央やや北寄りに蓬莱島という島がありました。

 文献資料では太液池の岸に沿って千間の廊下が巡らされていたとあり、発掘調査でもその跡が確認されています。池の底から発掘された建物の壁の破片には、漆喰や緑色塗料が塗られていたり、壁画が描かれているなど、池周辺の建物が豪奢に装飾されていたことがうかがえます。

 蓬莱島の南岸には小さな庭があり、おそらく船着場で池の中に歩み出るような施設があったと思われまあす。

 2001年-2005年の発掘調査では蓬莱島の西側にさらに一つ中島が見つかり、文献資料で「蓬莱三島」という記述が見られることから、東池にも中島があったと推測されます。

麟徳殿


麟徳殿の模型
Source:Wikimedia Commons

 近臣や外国の使節の招宴など、皇立の迎賓館として使われた施設です。

 664年-665年に太液池の西側に建てられ、面積10,000m2に及ぶ広大な施設で、基壇上に、礎石立ち・瓦葺き・切石敷きの床の、前殿・中殿・後殿が接するように並びたち、漢詩で「三殿」との呼び名が見られます。主殿である中殿は景雲閣と呼ばれた総柱式の楼閣で、前殿の南側には裳階が付き、後殿の東西に残る高い基壇には都儀楼などが建っていたとみられます。

三清殿

 皇立の道観(道教寺院)です。

 敷地の北西隅に、南北73m、東西47m、高さ14mの基壇が残り、その上に複数の建物を備えた大規模な施設だったことがうかがえます。文献によると皇帝はここに仏教の和上も招き、道士と問答を競わせたといいます。

清思殿

 太液池の東、左銀台門との間にあり、皇帝が日常生活で使用しました。『旧唐書』によると壁には金箔・銀箔を施した3000枚の鏡が懸けられていたといい、発掘調査で実際に大量の鏡が発見されました。

翰林院

 文官が常時控え、詔書を起草したり、皇帝が作詩するときの文献を準備するなど、皇帝直属の官署となっていました。西面城壁に西接する幅55mの夾城にあり、翰林門を通じて大明宮と行き来できました。

含光殿


含光殿の造営を記念した石碑
Source:Wikimedia Commons

 大明宮の西に位置し、発掘調査により広場と石碑が発見され、広場がポロ競技に使われていたことが分かっています。

歴史

 唐初において皇帝の住居は隋王朝が大興城(長安城)の北縁に築いた太極宮に置かれていました。

 626年に太宗が即位したのち、玄武門の変での骨肉の争いで息子への疎ましさを募らせた父の高祖は[22]629年に西北方の大安宮へ遷ったが、632年に監察御史の馬周は「(大安宮は)なお卑小と為し、四方の観聴に於いて足りないところがあります。

 宜しく高大(の建物)を増修し、これを以て中外の望と称す」と太宗に奏上し、太宗はこれを容れ、孝の教えに基づき[24]「上皇(高祖)の清暑の所と為す」として、父のために新しい宮殿の建設を命じました。

 建設地は太極宮のすぐ北東の、後園の射殿の地とされ、そこは夏に蒸し暑くなる長安の低地に比べると過ごしやすい高燥の地で、風水学的にも宮殿建設の好適地でした。建設は634年に始まり、まず“永安宮”と名付けられ、翌年正月に“大明宮”と改名されましたが、その年に高祖が没したため、建設はその後ながらく中断されました。

 660年に武皇后(のちの武則天)は王宮建築家の閻立本に大明宮の設計を命じました。


含元殿の建築風景
Source:Wikimedia Commons

 662年、風痺(風眩病)に苦しんだ高宗は、「(太極宮の)宮内が卑湿であるため、此(大明宮)に宮を置く」として大明宮の大規模な重建を始め、翌663年には実際に大明宮へ移居しそこで聴政を行ない、同時に“蓬莱宮”と改名、670年には“含元宮”と改名しました。

 しかし高宗に続く中宗、睿宗は元の太極宮に常居し、武則天も即位後は太極宮に住みましだが、洛陽へ遷都する前の一時期この宮殿へ移居しました。701年に含元宮から“大明宮”へ再び改名、以降この名が定着しました。玄宗は714年に太極宮から大明宮へ移居しましたが、728年以降は南の興慶宮に常居しました。(以来、太極宮(西内)、

 大明宮(東内/北内)、興慶宮(南内)は長安の“三内”と呼ばれました。)唐王朝の政治中枢という役割を大明宮が固めたのは、安史の乱により荒廃した長安を757年に粛宗が復興させて以降です。

 第一の正殿である含元殿は788年に地震で階段欄干が大きく破損、808年、817年、835年には大雨や大風で破損し、修復を重ねたが886年に遂に兵火で焼失しました。そして904年の洛陽遷都、907年の唐王朝滅亡により、大明宮は歴史の舞台から全く姿を消し、20世紀までここは人家もまばらな一帯になっていました。

 日中戦争のさなか、1938年6月に国民党軍が日本軍の進撃を妨げるため河南省花園口で黄河を決壊させ80万人の溺死者、2000万人の被災者を出した大氾濫(黄河決壊事件)により大量の流民が発生し、その群れは周辺の大都市へ流れ込み、西安では特に西安駅の北側、すなわち大明宮の跡地に住み着くようになりました。以来ここは西安の中でありながら河南省の文化を色濃く受け継ぐ区域になっていまあす。

発掘

 大明宮の遺跡の発掘は1959年から始まり、1961年に中国国務院第一段階重要文化財保護単位に指定され、1995年から1996年にかけて大規模な調査が中国社会科学院考古研究所の主導で行なわれました。

 2008年に大明宮遺跡保護プロジェクトが開始され、当時は遺跡のかなりの範囲に民家や工場が建っていましたが、約2500億円をかけて土地の収用と立ち退きが行なわれ、2010年に大明宮国家遺跡公園の整備が開始されました。2014年には世界遺産「シルクロード:長安・天山回廊」の一箇所に指定されました。現在は全国重点文物保護単位に指定されています。

 中国社会科学院考古研究所は大明宮遺跡の城門、宮殿、宗教施設、官署の跡の発掘調査を、今後200年をかけ計画的に行なう予定です。

公園





Danfengporten sedd fran Hanyuansalens fundament
Source:Wikimedia Commons

 大明宮国家遺跡公園は2010年から一般開放されました。ここは中国で初の国家考古遺跡公園で、主要宮殿建築区、文物鑑賞区、科学体験区などで構成されています。公園部分は無料で、遺跡部分は有料になっています。

 公園正面入口には丹鳳門の姿を推定復元した鉄骨製の丹鳳門遺跡博物館が建ち、内部で丹鳳門遺構の保存・展示、発掘された遺物の展示などが行なわれています。

 含元殿前区西側に位置する考古探索センターでは、考古調査の実際や考古学と現代生活の関わりなどを双方向的に体験できる各種展示を行なっています。

 含元殿の基壇は、版築を保護しつつ美観を与えるため煉瓦を組んでいまするが、上部の壁や階段などは露出状態で展示しています。

 含元殿の北西部の大明宮遺跡博物館では、最新技術を活用しながら数々の唐代文物の逸品を展示し、大明宮と唐代文化の紹介を行なっています。2005年に公園の整備が始まる直前までこの遺跡上で暮らしていた人々の生活展示があるのも特徴的です。遺跡内に高層の現代建築が建つ違和感を無くすため、半地下式の構造になっています。

 太液池は、池と島を取り囲むかつての庭園が歴史考証に基づいて復元されており、牡丹、菊、スモモ、薔薇、竹、アーモンド、桃、柿が植えられています。


興慶宮へつづく