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Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

南北朝(歴史)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は南北朝の歴史です。

南北朝(歴史)


出典:中国歴史地図庫


概要

 中国史における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、北魏が華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた時期を指します。

 この時期、華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡しました。こちらを南朝と呼びます。同じく建康(建業)に都をおいた三国時代の呉、東晋と南朝の4つの王朝をあわせて六朝(りくちょう)と呼び、この時代を六朝時代とも呼びます。

 この時期、江南(長江以南)の開発が一挙に進み、後の隋や唐の時代、江南は中国全体の経済基盤となりました。南朝では政治的な混乱とは対照的に文学や仏教が隆盛をきわめ、六朝文化と呼ばれる貴族文化が栄えて、陶淵明や王羲之などが活躍しました。

 また華北では、鮮卑拓跋部の建てた北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、北方遊牧民の部族制を解体し、貴族制に基づく中国的国家に脱皮しつつありました。北魏は六鎮の乱を経て、534年に東魏、西魏に分裂しまいた。

 東魏は550年に西魏は556年にそれぞれ北斉、北周に取って代わられた。577年、北周は北斉を滅ぼして再び華北を統一します。その後、581年に隋の楊堅が北周の譲りを受けて帝位につきまし。

 589年、隋は南朝の陳を滅ぼし、中国を再統一しました。普通は北魏・東魏・西魏・北斉・北周の五王朝を北朝と呼びますが、これに隋を加える説もあります。李延寿の『北史』が隋を北朝に列しているためです。


 以下は、南北朝時代における南朝と北麻の国々と存続年です。短期間のうちに、南朝、北麻ともに多くの国ができては消えていることがわかります。かくして南北朝は隋によって統一されてゆくことになります。


魏晋南北朝時代

 魏晋南北朝時代(ぎしんなんぼくちょうじだい)とは、中国史において、後漢末期の黄巾の乱からはじまり、隋が中国を再び統一するまで、同時代の中国本土に複数の王朝が割拠していた時期を表す(184年-589年を指します)。

 なお、長江中下流域(江南)における六朝時代がほぼこの時期と対応している。

 この時代を表す言葉には複数ある。後漢の滅亡の220年から西晋の統一280年までを三国時代と呼び、この時代には魏・呉・蜀 の三国が争覇した事で有名です。

 280年から始まった西晋の統一時代はわずか31年間と言う短い時間で終わり、311年の永嘉の乱で実質的に西晋は滅びた(完全に滅びたのは316年)。晋の皇族・貴族は南へ逃れて建康にて亡命政権を作り、これが東晋です。

 一方、華北では西晋を滅ぼした前趙を初めとした匈奴ら南下した牧畜民が中心となった国が興亡した。西晋を滅ぼした前趙(当初の国号は漢)が興起した304年から、439年の北魏による華北の再統一までを五胡十六国時代と呼んでいます。しかしこの胡の字には異民族に対する差別的な意味合いがあるため使用が控えられ、それに代わって東晋十六国の名前が使われ始めています。

 そして439年から589年の隋による南北統一までを南北朝時代と呼んでいます。またこれとは別にこの時代に江南地域(長江流域)に発展した文化・経済を重要視する意味で三国時代の呉と東晋から宋・斉・梁・陳までの六の王朝を合わせて六朝時代とも呼んでいます。



出典:Wikipedia

 以下は、6世紀前半の東アジア国際関係です。

 倭は5世紀しきりに南朝に通交しましたが、6世紀になると南朝との関係は502年に記事があるのを最後に途絶えます。

 高句麗は南北両朝に遣使していましたが、北朝との通交頻度が高まりました。百済・新羅も6世紀後半には北朝を重視するようになり、北朝に通交するようになります


6世紀前半の東アジア国際関係
Source:Wikimedia Commons


 北魏(ほくぎ、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国です。前秦崩壊後に独立し華北を統一して、五胡十六国時代を終焉させました。

 国号は魏ですが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいます。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともありまする(広義には東魏と西魏もこれに含まれます)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともあります。

 宋(そう、420年 - 479年)は、中国南北朝時代の南朝の王朝です。周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てた宋などと区別するために、帝室の姓を冠し劉宋(りゅうそう)とも呼ばれています。首都は建康(現在の南京)です。


北魏と宋
Source:Wikimedia Commons

 斉(せい、Qí、紀元前1046年 - 紀元前386年)は、周代、春秋時代、戦国時代初頭に亘って現在の山東省を中心に存在した国(諸侯)です。周建国の功臣太公望によって立てられた国です。姓は姜、氏は呂であるため、戦国時代の斉(媯斉・田斉)などと区別して姜斉または呂斉とも呼ばれます。紀元前386年に有力大夫の田和によって乗っ取られ、姜斉はこの時点で滅ぼされました。首都は臨淄です。


北魏と南斉
Source:Wikimedia Commons

 東魏(とうぎ、534年 - 550年)は、中国の南北朝時代にあった北朝の国の一つです。北魏が分裂して成立した二つの魏のうち、函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国の呼び名です。函谷関の西側で関中を中心とした版図を持つ国の方は、西魏と呼んで区別しています。「北魏」「東魏」「西魏」は、いずれも後代の史家が便宜上そう呼びはじめたもので、本来の国号はみな魏です。また、東魏・西魏のそれぞれが魏(北魏)の正統を自認していました。

 西魏(せいぎ、拼音: Xīwèi、535年 - 556年)は、中国の南北朝時代にあった北朝の国の一つです。 北魏が分裂して成立した2つの魏のうち、函谷関の西側で関中を中心とした版図を持つ国の呼び名です。 函谷関の東側で中原を中心とした版図を持つ国の方は東魏と呼んで区別しています。

 建康に入った蕭衍は、翌502年に和帝より禅譲を受けて梁を建国します。武帝(蕭衍)は斉の創始者・蕭道成の曾祖父の兄弟の子孫という遠い親族関係にあり、斉の宗室とは同姓ではありましたが、王朝の名を引き継がず革命の形を取りました。


東西魏と梁
Source:Wikimedia Commons

 突厥(とっけつ)は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家です。

 陳(ちん、557年 - 589年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の最後の王朝です。

 北周(ほくしゅう、拼音: Bĕizhōu、556年 - 581年)は、中国の南北朝時代に鮮卑系の宇文氏によって建てられた国デス。国号は単に周であるが、紀元前11世紀から紀元前3世紀まで続いた周を始めとする同名の王朝と区別するために北周と呼びます。君主の称号としては当初、秦以来の中国の歴代王朝が称していた「皇帝」号をやめ、「天王」を採用しています。
 

北周、北斉と後梁、陳
Source:Wikimedia Commons

南北朝の後期と隋

 北周に代わった隋の文帝は統一に向けて慎重な足場固めを行いました。北方の突厥に対して万里の長城の修復を行い、また長江へと繋がる運河の整備を行って補給路を固めました。更に傀儡国家である後梁を潰して直轄領としました。

 準備を終えた文帝は、一衣帯水の言葉の下、588年に次男の楊広(後の煬帝)を主将とする総数51万8千の軍を送り込み、翌589年に建康を陥落させ、宮中の井戸に隠れていた後主を捕らえて陳を滅ぼしました。

 これによって、西晋が滅びてから273年、西晋の短い統一期間を除くと350年以上にも及ぶ長い分裂の時代は終わり、鮮卑系の隋によって統一されました。

 隋の統一も第2代煬帝の時代に一時潰えますが、長い分裂時代に育まれた有形無形の統一への気運は、中国が再び分裂することを望まず、その後に興った唐は約300年の長きにわたって存続しました

 なお、北魏から唐までは北魏がまだ前身の代国であった時代を含めて約600年を数えますが、この年月の間に各王朝の成員による婚姻によってこれらの王朝間に縁戚・血縁関係が生じています。


南北朝時代から隋王朝における中国西域の変遷ー高昌国を事例にー

 なお、以下は、南北朝時代から隋にかけての北部に存在した国々です。位置は、現在のタクラマカン砂漠の東側、トルファンや敦煌の西側です。以下の連続地図は、当該地域につくられ滅びた高昌国を中心に見ています。

 詳しくは高昌故城をご覧ください。


高昌国の位置
Source:wikimedia Commons

 ・柔然(漢音:じゅうぜん)は、5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配した遊牧国家です。
 ・高車(こうしゃ、拼音:Gāochē)は、4世紀から6世紀の中国の五胡十六国時代・南北朝時代に
    モンゴル高原の北に存在したテュルク系遊牧民の中国での呼び名
 ・エフタル(英語:Hephthalite)は、5世紀~6世紀にかけて中央アジアに存在した遊牧国家。


北魏時代の高昌と周辺国
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 ・北魏(ほくぎ、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。
   前秦崩壊後に独立し華北を統一して、五胡十六国時代を終焉させた。
 ・亀茲(きじ)は、かつて中国に存在したオアシス都市国家。
 ・吐谷渾(とよくこん)は、中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。4世紀から7世
   紀まで(329年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。


北魏時代の高昌と周辺国
Source:wikimedia Commons

 ・鉄勒(漢音:てつろく、拼音:Tiĕlè)は、6世紀から7世紀にかけて、中央ユーラシア北部
   に分布した突厥以外のテュルク系遊牧民の総称。この中から回鶻(ウイグル)が台頭
   した。
 ・突厥(とっけつ)は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。
 ・伊吾(いご)は、中国の漢代から唐代にかけて存在した歴史的地名。現在の中華人民
   共和国・新疆ウイグル自治区・クムル市にあたる。


唐時代の高昌と周辺国
Source:wikimedia Commons


南北朝・文化へつづく