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南北朝(文化)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
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 次は南北朝(六朝)の文化です。

南北朝(文化)


出典:中国歴史地図庫

六朝文化

 中国、六朝の文化。江南の貴族文化が爛熟し、仏教が広まり儒教・道教と融合して清談が流行、文章は四六駢儷べんれい体が行われ、書画・詩文が栄えました。

 中国で,六朝の文化は3世紀初頭から6世紀末におよぶ時代の文化をいう。政治史では後漢の滅亡(220年)から隋による統一(589年)までの分裂時代を魏晋南北朝時代といいますが,この時期を文化史では六朝時代(文化)と呼びならわします。

 六朝とは呉(222年―280年)に始まる,東晋・宋・斉・梁・陳の6王朝をいいますが,いずれも長江下流の建業(建康,現在の南京)を首都としました。

 この時代の華北は五胡十六国や北朝諸王朝が北方や西北方の異民族政権であったのに対し,漢人の6王朝が興亡した江南では,漢代以来の中国の伝統が温存されており,華北から戦乱を嫌って移住してきた貴族・豪族も含めて貴族社会が形成され,貴族が皇帝権力をも左右していました。

 加えて,江南の温和な気候・風土を背景に,優雅・華麗にして中国的貴族文化が開花しました。文学では陶潜や謝霊運がおり,散文では対句を駆使する四六駢儷体(しろくべんれいたい)(駢文)が盛行し,これらの諸作品は梁の昭明太子が編纂(へんさん)した《文選(もんぜん)》に集められました。絵画の顧【がい】之(こがいし),書の王羲之(おうぎし)・王献之父子が有名です。

 宗教では来世救済を説く仏教が盛んとなり,西域から僧侶が北朝に来中して仏典の翻訳に努める一方,中国からは法顕(ほっけん)がインドを訪れた。また,春秋戦国時代の老荘思想に後漢末以来の現世利益を求める民間信仰が加味された道教が成立し,北魏の寇謙之(こうけんし)によって初めて教団化されました(442年)。
 
 注)法顕(ほっけん、337年- 422年()
  法顕(ほっけんは、中国東晋時代の僧。平陽郡襄陵県武陽(現在の山西省
  臨汾市襄汾県)の人。

 注)寇 謙之(こう けんし、365年 - 448年)
  寇 謙之(こう けんし)は、中国南北朝時代(北魏)の道士。新天師道の創始者。
  字は輔真。上谷郡昌平県(現在の北京市昌平区)の人。北魏の河南公・寇讃の
  弟。後漢の雲台二十八将の一人である雍奴威侯・寇恂の曾孫の寇栄の末裔と
  いう。道教を体系化し、教義・教典・儀礼を定めた。

生涯

 一方,儒教では仏教や老荘思想の影響もあって,世俗を超越して論議にふける清談の風潮がうまれました(竹林の七賢など)。仏教の盛行にともなって仏寺・仏像が盛んにつくられ,敦煌莫高窟・雲岡石窟・竜門石窟などの石仏・仏画はインドのガンダーラ様式・グプタ様式やヘレニズム様式をいきいきと伝えています。

 このように,六朝文化は江南の貴族文化を中心にするとはいえ,華北における北方民族の質実剛健な気風も中国に受け入れられたので(例えば書における北朝独特の鋭利な筆法など),南北を併せて,秦漢時代と隋唐時代の中間に位置する一つの独自な文化世界を築いたといえ,特に宗教・思想史上では,春秋戦国時代に次ぐ躍動期を迎えたといってよいと思われます。

 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報


六朝文化

 六朝(りくちょう)は、中国史上で建康(建業)に都をおいた、三国時代の呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳の総称です。呉の滅亡(280年)から東晋の成立(317年)までの時代を含め、この時代(222年 - 589年)を六朝時代(りくちょうじだい)とも呼び、この時期の文化を特に六朝文化(りくちょうぶんか)と称することもあります。

 六朝時代は、中国における宗教の時代であり、六朝文化はこの時代に興隆した宗教を基に花開きました。

 一方では、後漢代に盛行した神秘的傾向の濃厚な讖緯の説・陰陽五行説の流れの延長上に位置づけられます。また、後漢末より三国に始まる動乱と社会の激変に伴う精神文化の動揺が、従来の儒教的な聖人を超越した原理を求める力となったものと考えられます。

儒教・老荘

 儒教では、魏の王弼が、五行説や讖緯説を排した立場で、経書に対する注を撰しました。それと同時に、老荘思想の影響を受けた解釈を『易経』に施したことで、その後の晋および南朝に受け入れられることとなりました。その一方で、北朝では、後漢代の鄭玄の解釈が踏襲され、経学の南北差を生じさせるに至りました。


魏の王弼
出典:個人新聞台

 魏晋の貴族社会は、清談が尊重された時代であり、王弼や何晏が無為の思想に基づいた清談を行い、それが「正始の音」として持て囃されました。次いで、竹林の七賢が、思想的・文学的な実践によって、それを更に推進した。その後、郭象が老荘の思想(玄学)を大成しました。


郭象
出典:百度百科


仏教・道教

 仏教の伝来は、後漢代のこととされています。

 但し、伝来当初は、外来の宗教として受容され、なかなか浸透しませんでした。六朝代になると、後漢以来の神秘的傾向が維持され、老荘思想が盛行し、清談が仏教教理をも取り込む形で受け入れられたことから、深く漢民族の間にも受容されるに至りました。

 そこで重要な役割を果たしたのは、仏図澄・釈道安であり、道安は鳩摩羅什の長安への招致を進言し、その仏教は門弟子である廬山の慧遠の教団に継承されました。慧遠は「沙門不敬王者論」を著して、覇者の桓玄に対抗しました。


慧遠 (東晋)
Source: Wiki;pedia

 道教は、後漢代の五斗米道に始まります。その教団が三国の魏によって制圧されると、一時、その系統は表には現われなくなりますが、4世紀初頭に、葛洪が現われ、『抱朴子』を著わして不老不死を説く道教の教理体系を整備しました。

 この時代の道教信徒として知られるのは、書聖の王羲之です。その系統は、南朝梁の時代の陶弘景に受け継がれ、茅山派(上清派)道教の教団が形成されました。一方、北朝では、寇謙之の新天師道が開創され、やはりその制度面での整備が、仏教教理も吸収する形で行なわれました。


老子 出典: Wikipedia



王羲之  出典:Wikipedia


六朝の一覧

 呉(222年 - 280年)
 東晋(317年 - 420年)
 宋(420年 - 479年)
 斉(479年 - 502年)
 梁(502年 - 557年)
 陳(558年 - 589年)

関係した時代

 三国時代(220年 - 280年)
 晋(265年 - 420年)
 西晋(265年 - 316年)
 五胡十六国時代(304年 - 439年)
 南北朝時代(439年 - 589年)

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


隋・歴史へつづく