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西五台雲居寺(百度百科)

西安
(Xi'an、中国)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2020年4月1日
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雲居寺(百度百科)  雲居寺(百度百科2)  雲居寺(百度百科3)  清真西寺 

 本稿の解説文は、現地調査や現地入手資料、パンフなどに基づく解説に加え、百度百科中国版から日本への翻訳、Wikipedia 日本語版を使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commons、トリップアドバイザーさらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビュー、百度地図などを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

◆西五台雲居寺 (云居寺)Xi'an 中国西安市)

  広仁寺から回民坊に行く途中にある西五台雲居寺です。


撮影:青山貞一 Nikon Coolpix S9900

概要


出典:中国百度百科

 雲居寺又の名を西五代、もともとの名前は安慶寺といいます。西安市の玉祥門に至る蓮湖路南側の西側区画に位置しる尼僧道場です。

 雲居寺の基礎は、唐王朝時代のもので、宋時代に創建され、明時代に何度も修理されました。現存する雲居寺の堂宇は、宋時代の“硬山式”建築様式を保持しており、特に、横たわる仏像を奉る堂(卧佛殿)は、内部に涅槃仏像(横たわっている仏像)があり、明時代の塑像の珍品であると称されています。

 中国名 雲居寺 
 別 名 西五台
 原 名 安慶寺
 所在地 西安市玉祥門蓮湖路西段南侧(蓮区钟楼商圈香米园东巷/蓮区鐘楼商圈
      香米園東巷)

寺院紹介


出典:中国百度百科

 西安雲居寺は、もともと安慶寺と言われていました。言い伝えによると、唐の太宗李世民(唐王朝二代皇帝)の母は、仏教を篤く信仰しており、生前は、年に何回も南山南五台朝山を参拝していました。その旅路は非常に大変な苦労であったので、世民は母に孝行を尽くし、南五台を模して宮城の広運門の西、太極宮城南城壁の上に沿った起伏のある地形に5つの仏殿を建設し、母が毎朝礼拝できるようにしました。

 最終的には5つの高台が作られ、それらは遙かな南山南五台に相応するものとして、西五台と呼ばれるようになりました。また、この寺の上空は常に祥雲が長い間消えずに漂っていて聖なる菩薩が現れる寺、すなわち、又の名を雲居寺ということを望みました。

 雲居寺の所在地は西安市玉祥門蓮湖路西段南側に位置し、洒金橋の東隣、明時代城壁のすぐ近くにあり、東西の長さや約500メートルです。この場所はもともと、長安城内の太極宮、城の南城壁の基礎があった場所です。

 注)太極宮 Wikipediaより
  太極宮(たいきょくきゅう)は唐の長安城(隋の大興城)の北端中央の宮城にあ
  った一角。隋唐初の100年弱にわたり、ここは皇帝が起居し政務を執る都城の中
  枢宮殿部だった[1]。663年に唐の高宗が大明宮へ朝政を移すと政治の中心として
  の機能は失われていったが、唐代を通じて王権儀礼で中心的役割を果たし続けた。
  大明宮、興慶宮と共に長安の“三大内”を成し、西内とも呼ばれた。

 雲居寺はもともと尼僧道場でした。『西安府志』によると、その基礎は唐時代のものであり、宋時代に創建され、明時代に繰り返し再建されたとされています。長い歴史と戦争の繰り返しにより建物は幾度となく破壊されそして何度も修復されたので、多くの異なる言い伝えが残っています。

 現存する雲居寺の堂宇は、宋時代の“硬山式”建築様式を保持しており、特に、横たわる仏像を奉る堂(卧佛殿)は、内部に涅槃仏像(横たわっている仏像)があり、明時代の塑像の珍品であると称されています。雲居寺は常に尼僧道場として存在してきました。


出典:中国百度百科

独特な建築


出典:毎日頭條

 西五台の建築様式を有していることから、他の一般的な仏教寺院とは異なり、(街の)西に座して東向きに建ち、山門は(拾级而上)一つ一つに設置されています。第一台は、降龍観音殿と名付けられ、その前には、韋駄殿が設けられています。第二台は、大菩薩殿。第三台は地蔵菩薩殿。第四台は、弥勒殿で、その前には老母殿が設けられています。第五台は、十二臂観音殿。その他、大雄宝殿、観音大士殿、臥佛殿の三殿は、明王朝時代の燕王であった朱棣によって、それぞれ第二、第三、第五の高台の前に建てられました。

 注)十二臂観音 如意輪観音より抜粋 臨済宗妙心寺派 宗清寺Webサイト
  如意輪観音には「臂(ひ=腕)」の数によって、二臂、四臂、六臂、十臂、
  十二臂の像があります。経典伝来期の8世紀頃は二臂像が中心で、10世紀以降
  には六臂像が多いと言われています。二臂像は蓮華と宝珠を持ちます。六臂像
  は右膝を立て、左足に右足を乗せた座像で、右の一手を頬にあてた思惟の姿で、
  如意宝珠、宝輪、蓮華、念珠を持ちます。

 注)朱棣(しゅてい) コトバンクより
  中国,明朝第4代の皇帝,在位1402‐24年。姓は朱,名は棣,廟号成祖,年号
  により永楽帝とよばれる。明朝の創業者たる太祖洪武帝の第4子で,21歳の時,
  北平(北京)に封ぜられ,燕王となってから頭角をあらわし,太祖のあとをついだ
  甥の建文帝から帝位を奪って(靖難の変)皇帝となった。即位後,国都を南京から
  北京へうつした。その22年にわたる治世は,はなばなしい対外積極政策で飾られ,
  中国史上もっとも活気にみちた時代であった。…

 注)朱棣・燕王時代 Wikipediaより
  至正20年(1360年)、紅巾の乱で頭角を現した群雄の一人・朱元璋(後の洪武
  帝)の四男として生まれた。極めて記憶力が高く、幼い頃は早朝から学者を招き、
  一度読んだ本の内容は忘れなかったとされる。洪武3年(1370年)、北平都指揮
  使に封じられるが、実際に北平に赴いたのは洪武13年(1380年)、21歳の時であ
  る。元を北方に駆逐したが、依然北元としてモンゴル高原に割拠していた時代、
  北方の要衝である燕は極めて重要な防衛拠点であり、ここに配置された朱棣はそ
  の戦場での能力と勇敢さを洪武帝に認められていた。

 注)燕(えん)
  燕国(えんこく)は、中国にかつて存在した行政区分のひとつで、前漢の時代
  に設置された。時代によって広陽国・広陽郡・燕郡と名称を変えた。現在の中華
  人民共和国北京市にあたる。


出典:中国百度百科

 卧佛殿内には、仏が横たわった姿の塑像と二体がダミーの十大羅漢塑像が立ち侍っていますが、その表情は非常に生き生きとしていて、明時代の塑像の珍品であると言われています。『関中図志』の記載によると、“三つの天門は一つ一つ高くなっていき、見晴台(テラス)は層をなす紺色の建物の左右を柱が環状に取り巻き、大士殿のところで最高となり、そこを登れば四方見渡せて一郡は勝利を収めることができる”と。

 各台の両側には寄宿舎(僧房)があり、そこには、歴史的に尼僧が澄んでいました。昔、西五台は戒律を持たない道場として開かれました。それは、あまりにも寺院の規模が大きかったからとされています。

 第一台と第四台は、中華民国時代の戦争において破壊されましたが、その他の台は良好な状態で残っています。残っている三つの台は、それぞれ、前台、中台、後台と呼ばれ、いずれも、尼僧が管理しています。1920年修行した尼僧が唐代の仏教聖地である長安を慕って、広東省からこの地に移住しました。西五台では毎年陰暦6月15日~6月19日に法会を執り行い、その間は、善男信女が寺を訪れ礼拝し願いを祈り、神を求め仏に祈る人々の数は、数えきれません。

 雲居寺の建物の玄関や部屋の窓のなどの方角や向きは、一般の仏教寺院とは異なっています。西に座して東を向いていて、山門は一つ一つ高くなっているため、第一台から第五台までの東西の長さは約500メートル、南北の幅は、100メートルよりは短く、市街地建設の影響を受けて全体は三分割されています。

 東段(前段):山門(建設準備中)、天王殿
        第一台:降龍観音殿、大雄宝殿(建設中)
        第二台:五大菩薩殿
 中段    :観音大士殿(建設準備中)
        第三台:地蔵菩薩殿
        第四台:弥勒殿(建設準備中)
 西段(後段):臥仏殿
        第五台:十二臂観音殿


雲居寺(百度百科2)つづく