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イスタンブル2・呼称

(Istanbul、トルコ)


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日
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 次はトルコのイスタンブル2の呼称です。

◆イスタンブル2・呼称

イスタンブルの呼称

 古代のビュザンティオン(ビザンティオン)、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と同じ街です。

 最初に知られている都市の名称はビュザンティオン(ギリシア語 Byzántion)またはビザンティウム(ラテン語 Byzantium)でこの名称は紀元前660年頃に植民都市を創建したビザスの名が元になっています。

 コンスタンティヌス1世の後、新しいローマ帝国の東の首都を330年に創建し都市は「コンスタンティヌスの都市」を意味するコンスタンティノポリス Constantinopolis(コンスタンティノープル Constantinople)と名付けられ、広く知られる名称となりました。

 コンスタンティノープルの名称は西洋ではトルコ共和国が建国されるまで最も広く使われた名称で、オスマン語ではコスタンティニイェ Kostantiniyye (قسطنطينيه) といい、オスマン支配期に主に使われた名称です。それにも関わらずオスマン時代の都市を言い表す時、コンスタンティノープル Constantinople を使うことは、今では歴史的には間違っていなくても政治的には正しくないとトルコ人により見なされています。

 19世紀には都市の名称は外国人やトルコ人のいずれかによりいくつかのものが使われていました。ヨーロッパ人はコンスタンティノープルを市内全てを対象として言い表すのに使っていましたが、スタンブール Stamboul の名はトルコ人により使われており、金角湾とマルマラ海の間の城壁で囲まれた半島(下図参照)を言い表していました。


イスタンブルにおける金閣湾の位置
出典:グーグルマップ

 ペラ Pera(ギリシャ語では「横切って」などの意味)は金角湾とボスポラス海峡の間を言い表すのに使われていましたがトルコ人はベイオールを使っており今日でも使われています。

  「イスラムの街」や「イスラムで満たされた」を意味するイスラムボル Islambol は時折イスタンブルを表す口語として使われオスマンが硬貨の一部にも刻印されていますが、これが現代の名称であるイスタンブルの前の名称であることは誤りで、イスラムボルの以前から存在しており、オスマンやムスリムにより都市が攻略される以前から用いられていました。

 イスタンブル İstanbulの語源は一説に中世ギリシャ語の表現である "εἰς τὴν Πόλιν"(発音 [is tin ˈpolin])からで「都市で」や「都市に」を意味します。

 これは当時、イスタンブル周辺部では唯一の大都市の地位を反映し、現代の人々が近くの都市の中心を「都心」"the City"と称するのと同じです。他のものではコンスタンティノープル Constantinople から進化し第一音節と第三音節が省略されたと言う見方もあります。

 現代のトルコ語ではイスタンブルの表記は İstanbul でドットが付いたİが使われ、トルコ語のアルファベットではドットの有無が区別されます。また英語では第一音節の (Is) に強勢が置かれますが、トルコ語では第二音節の (tan) に置かれます。 イスタンブル İstanbul は単独の都市の名称として1930年に公式に採用されました。イスタンブル出身者は İstanbullu(複数では İstanbullular)ですが英語ではイスタンブライト Istanbulite が使われています。

新ローマ

 コンスタンティヌス1世は330年5月11日に新しいローマ帝国の東の首都を創建する前に、ローマを部分的に手本とし街を根本的に建て直すとてつもないスケールの大きな建設計画を着手しました。

 この期間の名称には新や第二のローマを意味する ἡ Νέα, δευτέρα Ῥώμηやローマを愛するAlma Roma Ἄλμα Ῥώμα, Βυζαντιάς Ῥώμη, ἑῴα Ῥώμη、東のローマ、ローマ・コンスタンティノポリターナなどがありました。

 新ローマの用法はギリシャ人の作家により使われた時には元のローマとのライバル関係を強調する特に東西教会の分裂の文脈に向いて行いました。新ローマは今でも公式にコンスタンディヌーポリ総主教庁の肩書きの一部です。

コンスタンティノープル

 コンスタンティノープル Constantinople(コンスタンティヌスの都市)の名称はコンスタンティヌス1世の名誉からすぐにより広く知られるようになりました。ギリシャ語の語形では Κωνσταντινούπολις、ラテン語の語形では Constantinopolis でした。最初に公式に使われたのはテオドシウス2世(統治:408年 - 450年)統治下であったことが実証されています。

 主要な公式名称としてビザンティン時代を通して残り、20世紀初期まで西洋では一般的な名称として使われていました。コスタンティニエ Kostantiniyye の異なった形も含めオスマン帝国でもトルコ共和国の出現まで使われていました。

他のビザンティンの名称

 コンスタンティノープル Constantinople の他にもビザンティンは幅広い名誉ある名称で呼ばれ、「都市の女王」(Βασιλὶς τῶν πόλεων) と呼ばれることもありました。しかし、一般的な話し言葉では最も広く使われる言い方は単に都市や都会を意味するポリス ἡ Πόλις(現代のギリシャ語です。

イスタンブル・コスタンティニエ

 現代のトルコ語の名称はイスタンブル İstanbul(発音 [isˈtanbuɫ])ですが、これは10世紀以来のものでトルコの典拠によれば表現の幅がありますが、最初にアルメニア語やアラビア語で実証されています。これはギリシャ語の語形 "εις την Πόλιν" または "στην Πόλη" [istimbolin]「街へ」、「街で」、"εἰς τὴν Πόλιν", "(eis) stin poli"(エス・テン・ポリン「都市に、町へ」)から取られ、それ故これを基本にギリシャ語の用法では単に「都市」や「街」と呼んでいます。

 冠詞の一部分や他の接辞のギリシャ語の地名への結合はオスマン期以前では一般的なもので、ナヴァリノの代わりにアヴァリノ、サティネスの代わりアティネスなどがあります。

  似たような例には現代のトルコの地名でギリシャ語由来のものにはイズミットなどがあり、初期にはイズニクミット İznikmit でニコメディアから、イズニクはギリシャのニカエア Nicaea、サムスン (s'Amison = "se + Amisos")、İstanköy はギリシャの島コス島などがあります。語頭のiの起こりはこれらの名称の古いギリシャ語の語形の一部を is- と一緒に反映していますか、部分的に第二の音挿入により、トルコ語の音素配列構造を成しています。

 İstanbul は1453年の征服前でさえ普通の話し言葉では一般的な名称でありましたが、オスマンの当局はコスタンティニエ Kostantiniyye など他の名称の公式の使用を特定の状況で好んでいました。故に Kostantiniyye は硬貨の鋳造に17世紀後半使われ、19世紀に再び使われています。

 コスタンティニエ Kostantiniyye(アラビア語: القسطنطينية‎ al-Qusṭanṭiniyah クスタンティニーヤ、オスマン語: قسطنطينيه Kostantiniyye コスタンティニエ)の名称はイスラム世界で知られるようになった名称です。トルコ人に先立ってコンスタンティノポリスに接触したイスラム教徒たちの書いた史料では、9世紀にはこの街の名称でした。

 これは、アラビア語のコンスタンティノープル Constantinople の語形の翻訳借用でギリシャ語要素の -polis の代わりにアラビア語で「-の場所」を意味する語を最後に当てています。

 オスマンにより攻略された1453年以降、オスマン帝国では一番使われた公式名称で、帝国が崩壊する1923年までのほとんどの期間使われていました。しかしながら、いくつかの時期にオスマンの権力者は他の名称を好みました。オスマンの役所や裁判所では Kostantiniyye を be-Makam-ı Darü's-Saltanat-ı Kostantiniyyetü'l-Mahrusâtü'l-Mahmiyye のような正式な文書で元の場所を表現する複雑なやり方の一部として使っていました。

 19世紀、トルコの本の印刷では外国でコンスタンティノープルを使うのとは対照的に使われていましたが、同時期にイスタンブルは公用語の一部としてオスマンの軍隊の高官 (İstanbul ağası) や都市の身分の高い行政官 (İstanbul efendisi) の肩書きの一部に使われていました。 イスタンブル İstanbul や同じ名称の他のいくつかの異なった表現の名称も幅広くオスマンの文学や詩で使われました。

 1923年のトルコ共和国の建国後はイスタンブル以外の別の名称はトルコ語では使われなくなり、1930年3月28日のトルコの郵便法ではトルコ当局は外国人に公式にこれまでの伝統的なトルコ語以外での名称(コンスタンティノープルやツァーリグラードなど)で街を言い表すの止める他、自分たちの言語でもイスタンブルを唯一の都市の名称として取り入れるよう求めました。手紙や小包をイスタンブル "Istanbul" ではなくコンスタンティノープル "Constantinople" で送るとトルコの郵便当局により配達されることはなく、このことは世界的に新しい名称の施策が広まることに貢献しました。

スタンボウル

 スタンボウル Stamboul やスタンブル Stambul はイスタンブル İstanbul の語形の変わった種類で、イスタンブルのようにそれ自体の語形の頭に i- は無く、中世初期には最初に10世紀のアラビア語の典拠に実証され、アルメニア語では12世紀にはそうでした。いくつかの初期の典拠にはギリシャ語の Poli (n) を元に同様な Bulin の短い表現も単独で前述の文が無く実証されています。この表現は現代のアルメニア語でも生きています。

 スタンボウル Stamboul は西洋の言葉でイスタンブルと同様に1930年代の新しいトルコの語形に置き換わるまで使われていました。19世紀から20世紀初期、西ヨーロッパやアメリカの典拠では良くコンスタンティノープル Constantinople は大都市全体を言い表すのに使われていましたが、スタンボウル Stamboul は中心部の歴史的な半島部分を言い表すのに用いられ、ビザンティン時代の城壁の内側 (Theodosian) を指していました。

イスラームボル

 イスラームボル Islambol(多くのイスラム)やイスラムブル Islambul(イスラムの発見)はイスタンブル Istanbul へオスマンが1453年に攻略し新しいイスラムのオスマン帝国の首都しての役割を表現するため作られた民間語源の適応でした。

 イスラーム・ブール(「イスラムの地」という意味)を語源に想定する説もあります。最初に実証されたのは攻略直後で、現代の一部の作家たちはメフメト2世自身が付けたものとしています。いくつかの17世紀のオスマンの典拠では、最も目立つものでエヴリヤ・チェレビが、当時の一般的なトルコでの名称として表現しています。

 17世紀から18世紀、これは公式に使われていました。最初に使われた語は "Islambol" でアフメト3世の時代の1703年、貨幣の鋳造に使われていました。


イスタンブル3へつづく