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イスタンブル3・歴史1

(Istanbul、トルコ)


青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、 公開予定日 2020年7月31日
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 次はトルコのイスタンブル3の・歴史1です。

◆イスタンブル・歴史1

歴史




A stout cylindrical column in a courtyard in front of palatial arches of Islamic style
ビザンティオンのアクロポリスで発見された今でも残っているビザンティオンの円柱。現在はトプカプ宮殿の敷地にある。Gryffindor - 投稿者自身による作品, パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 21世紀初めに考古学者により発見された紀元前7000年に遡る新石器時代の遺物(上の写真)は、イスタンブールの歴史的な半島には以前考えられていたよりも前のボスポラス海峡が形成される以前から人が住んでいたことを示しています。

 遺物の発見以前はフリギア人を含めトラキア人の部族がサイライブルヌに紀元前6000年後半から住み始めたと言うのが従来の考えでした。

 アジア側の遺物は紀元前4000年に遡る物とされ、カディキョイ地区のフィキルテペ Fikirtepe で発見されています。同じ場所は紀元前1000年初めにはフェニキアの交易地点で、同様に紀元前660年頃に設立されたカルケドンの町がありました。

 しかしながら、イスタンブルの歴史は一般的に紀元前660年頃にビザス王の下メガラからの入植者が、ボスポラス海峡のヨーロッパ側に植民都市ビザンティオンを創建した時代に遡ります。入植者は金角湾に隣接した初期のトラキア人の居住地であった場所にアクロポリスの建設を進め、生まれたばかりの都市の経済に勢いを与えました。

 ビザンティオンは紀元前5世紀の変わり目に短期間アケメネス朝の支配を経験しますが、ギリシャ人はペルシア戦争で取り戻しています。都市の開祖はギリシア神話の海神ポセイドンとケロエッサの間に生まれた子ビザスであり、彼は太陽神アポロンの協力を得て彼の名を冠した「ビュザンティオン」を建設したとされ、トラキア人の王による侵略から町を守り、妻ペイダレイアもスキタイの侵攻を防いだとも言われています。

 ビザンティオンは デロス同盟とその後の第二アテナイ連合の一部でしたが、紀元前355年についには独立を得ています。長いローマとの同盟関係の後、ビザンティオンは73年に公式にローマ帝国の一部となりました。ビザンティオンのローマ皇帝セプティミウス・セウェルスに対抗する敵対者ペスケンニウス・ニゲルの支持は大きな代償となり、2年にわたる包囲は都市を荒廃させませた。195年に降伏しています。

 それにも関わらず、セウェルスは5年後にビザンティオンの再建を始め都市は回復し多くの取引はそれ以前の繁栄を上回りました。


東ローマ帝国時代のヴァレンス水道橋
パブリック・ドメイン, リンク
Source:Wikimedia Commons

コンスタンティノープルの興亡

 コンスタンティヌス1世は324年9月に実質的なローマ帝国全体の皇帝になりました。コンスタンティヌスは2ヶ月後に新しいキリスト教の都市にビザンティオンを置き換えるための都市計画を打ち出しました。

 帝国の東の首都として都市は新ローマを意味するネア・ローマNea Roma と名付けられましたが、一番単純なコンスタンティノープルの名称が20世紀まで続きました。6年後の330年5月11日にコンスタンティノープルはついにビザンティン帝国や東ローマ帝国の名称で知られる帝国の首都として宣言されました。

 この遷都にはいくつかの伝説があり、当初コンスタンティヌス1世はトロイに遷都しようと考えていましたが、夢で神の啓示を受けて変更しました。カルケドンを予定し建設工事に取り掛かったが鷲が道具を咥えてビュザンティオンに飛び去った、また夢に現れた老婆が美しい女性に変貌し、このように古い町ビュザンティオンを新生するよう求められたといいます。

 また新都の城壁建設にも伝説があり、コンスタンティヌスが自ら槍を手に地面に線を引いて城壁の位置を指示しましたが、余りにも長く続くので従者が聞くと、コンスタンティヌスは「私の前を歩く御方がお止まりになるまでだ」と答えたといいます。


A crudely drawn map depicting a walled city on a peninsula with a park,
a network of roads, and a scattering of buildings
1422年にクリストフォロ・ブオンデルモンティにより作られた最古の現存するコンスタンティノープルの地図
Cristoforo Buondelmonti - Liber insularum Archipelagi (1824), version available at the Bibliothèque nationale de France, Paris, パブリック・ドメイン, リンクによる
Source:Wikimedia Commons

 また、イスラム教徒による差別と抑圧はあったものの東方正教やアルメニア使徒教会の教会、ユダヤ教のシナゴーグも数多く維持され、ムスリムのトルコ人のみならず、ギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人そして西ヨーロッパ諸国からやってきた商人・使節など、様々な人々が住む多文化都市、東西交易の中心都市でもありました。

 1517年にオスマン家はイスラム帝国の地位を宣言し、イスタンブルは4世紀にわたりオスマンのカリフの首都として続きました。

 1520-1566年のスレイマン1世の治世の時代、特に偉大な芸術と建築的偉業の時代でした。主要な建築家であったミマール・スィナンは市内のいくつかの象徴的な建築物に携わり、この間、オスマンの芸術や陶器、イスラームの書法、オスマンの細密画が栄えました。

 イスタンブルの全人口は18世紀までに57万人に達しました。19世紀初めの反乱の時代は進歩的な皇帝であったマフムト2世の高まりに導かれ、政治改革が生じ新しい技術の街への導入が認められ、 この時代に金角湾に橋が架けられました。

 1880年代、イスタンブルはヨーロッパの鉄道網と結ばれ、1883年に運行を開始したオリエント急行は、スエズ運河の自由航行に関する条約が締結された1888年にイスタンブルへの直接乗り入れを開始しています。これにより、西ヨーロッパとイスタンブールは直接結ばれることとなりました。近代的な水道・電気・電話・路面電車などが、オスマン債務管理局を通した公共事業により導入されてゆきました。


イスタンブル4つづく