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ヴェネツィア( Venezia、イタリア)

フェニーチェ劇場1
Teatro La Fenice

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2019年4月20日
独立系メディア 
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 本稿の解説文は、現地調査に基づく開設に加え、Veneziaイタリア語版を中心にVenice英語版からの翻訳及び日本語版を使用しています。また写真は現地撮影分以外にWikimedlia Commons、さらに地図はグーグルマップ、グーグルストリートビューを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名をつけています。 

◆フェニーチェ劇場 Venezia、イタリア)

 以下はグーグルマップによるフェニーチェ劇場の位置です。


出典:グーグルマップ


出典:グーグルマップ

 以下はフェニーチェ劇場の外観です。


フェニーチェ劇場の外観
"SOCIETAS 1792"の文字。大衆はこの銘文までセルヴァの揶揄に利用した
Source: Wikimedia Commons
CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 フェニーチェ劇場(Teatro La Fenice)は、イタリア・ヴェネツィアにある歌劇場です。

 日本語でもしばしばラ・フェニーチェ(-座、あるいは-劇場)と表記されます。開場は1792年5月16日です。

 イタリア語でfeniceは不死鳥を意味し(英語のphoenixに相当)、その名は1773年に火災で焼失したヴェネツィアの他の歌劇場の後継を自負して名付けられました。

 その後この劇場自体、1836年と1996年の2度にわたって火災により全焼したましが、その都度再建がなされ、「不死鳥」の名にふさわしい歴史を誇っています。


現在のフェニーチェ劇場の現状
出典:Christophe Romero グーグルマップ・ストリートビュー 

 以下解説のの出典は、Wikipedia です。

フェニーチェ劇場の歴史

(前史)ヴェネツィアの諸歌劇場

 ヴェネツィアとオペラの関係は古い。1630年、モンテヴェルディの『略奪されたプロセルピーナ』Proserpina Rapitaがヴェネツィア総督モチェニーゴ・ダンドロの邸宅で行われた、とあるのがヴェネツィアの記録上最古のオペラ演奏である(同邸宅はその大部分が現存、ホテル・ダニエリとして利用されています)。

 17世紀には少なくとも16の歌劇場が競合するなど隆盛を極めていました。

 サン・モイゼ劇場は1640年に開場、1818年まではオペラの定期公演が行われ、ヴィヴァルディやパイジエロなど18世紀のオペラ作曲家の新作が多くここで初演されました。後にはオペラ・ブッファに特化した運営となりました。ロッシーニのオペラ『婚約手形』La Cambiale di Matrimonio(1810年)や『ブルスキーノ氏』Il Signor Bruschino, ossia Il Figlio per azzardo(1813年)なども、当劇場の委嘱になる作品でし。

 サン・サルヴァトーレ劇場(後年1875年にゴルドーニ劇場と改称され現存)は1661年開場、ゴルドーニの戯曲の多くが演じられたことで有名ですが、ここもまた18世紀から19世紀前半には有力なオペラ劇場でありました。ジュディッタ・パスタがベッリーニ作曲『ノルマ』を演じた記録が残り、またヴェネツィアの劇場中最も早くガス灯による照明が行われました(1826年)。

 サン・ジョヴァンニ・グリソストモ劇場はマルコ・ポーロの邸宅があったとされる一角に1687年に開場、フェニーチェ劇場の創建以前はヴェネツィアで最重要の歌劇場と考えられていました。この劇場はグリマーニ家という富豪の運営になる劇場のうちの一つであり、少なくともここヴェネツィアにあっては、入場料さえ払えば、身分に関係なく誰でもオペラを鑑賞できる最初の劇場となりました。

 ヘンデル作曲『アグリッピナ』(1709年)は当劇場で初演されました。1836年に当時の高名なソプラノ歌手、マリブランが28歳の若さで急逝したとき、前年に当劇場でベッリーニ作曲『夢遊病の女』La Sonnambulaを歌い大成功を収めたことを追憶するためマリブラン劇場と改称されました。

 20世紀に入ってからは映画館に改装されましたが、その後もしばしば小規模オペラの公演に利用され、また、後述の1997年からのフェニーチェ劇場焼失再建期間中は仮劇場の一つとして活用されました。

 グリマーニ家の歌劇場のうち、その内装の優美さによって18世紀後半にもっとも隆盛を誇ったのが1755年に創建のサン・ベネデット劇場でした。この劇場は席数1500の大規模なものでしたが、1773年の火災で焼失します。

 劇場再建にあたって土地の所有者ヴェニエル家と劇場の運営者側との間に法的係争が発生、ヴェニエル家に有利の裁定が下りました。その結果劇場運営者側は同地を去り、そこから徒歩10分足らずの近接地カンポ・サン・ファンティンに新劇場を建設することとなりました。新劇場は火災(とそれに続く裁判)の困難に打ち克つという意味を込めて不死鳥=フェニーチェ劇場の名が付けられました。

 なお、サン・ベネデット劇場は結局1787年にヴェニエル家によって単独再建がなされた(この際ヴェニエル劇場と改称されました)。

 フェニーチェ劇場開場後の1813年に至っても有名なロッシーニ作曲『アルジェのイタリア女』 Italiana in Algeriの初演がこのサン・ベネデット劇場で行われていることからみて、少なくとも一定期間はフェニーチェ劇場に伍する歌劇場としての地位を得ていたとみられます。なお、同劇場は1868年にロッシーニ劇場と再改称され、1925年からは映画館として使用されています。


フェニーチェ劇場2へつづく