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五胡十六国(歴史1)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月
独立系メディア E-wave Tokyo
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 次は五胡十六国の歴史1です。

五胡十六国(歴史1)


出典:中国歴史地図庫


五胡十六国時代の北涼の壁画
Source:Wikimedia Commons

概要   

 五穀十六国は、4~5世紀、中国の華北に興亡した北方民族(五胡)の建てた国々を指します。304年、劉淵の漢から439年、北魏による統一までの135年間の華北をいいます。

 304年に匈奴の劉淵が漢(前趙)を建国してから、439年に北魏の太武帝が華北を統一するまでの、華北に興亡した五胡や漢民族の国々を総称して五胡十六国といいます。

 五胡とは匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の五つのことです。匈奴は前趙、夏、北涼を、鮮卑は前燕、後燕、南燕、南涼、西秦を、羯は後趙を、氐は成漢、前秦、後涼を、羌は後秦を、漢族が前涼、冉魏、西涼、北燕をそれぞれ建てました。

主な出典:世界史の窓

歴史 

五胡と十六国の興亡

 16国(下表参照)のなかには胡人(北方民族)ではなく漢人(漢族)の立てた国もあります。 華北での五胡十六国の興亡は、4世紀から5世紀前半までの1世紀以上にわたっていますが、大きく分ければ、376年に前秦の苻堅が一時的ながらほぼ華北を統一した時期までを前期とし、中国統一を目指した苻堅が、383年の淝水の戦いで東晋に敗れたことで、再び華北の各民族が分立してからを後期とすることができます。

 後期になるともっとも北辺にいて16国にも加えられていなかった鮮卑の拓跋氏の代国が急速に力をつけて、389年に魏王を称し、439年に華北を統一し、五胡十六国時代終わります。


 主な出典:世界史の窓


出典:Wikipedia


出典:Wikipedia

 以下は十六国の興亡をタイムライン的にグラフ化したものです。


出典:Wikipedia

五胡十六国時代の中国   

 北方民族(胡人)が華北に国を建てたといっても、この時期に移住して征服活動をしたのではなく、ほとんどはそれ以前の漢代(前漢・後漢)・三国(華北の魏)・西晋を通じで移住し、漢人社会に溶け込みながら、騎馬兵力として漢人政権の傭兵化していた人々です。

 彼らが西晋の混乱を背景に政治的に自立したが、まだ統一的な権力になり得ず、互いに抗争した、というのが五胡十六国の分立の意味です。

 また五胡の立てた国家といっても、各国の国家官僚として漢人が採用されており、征服王朝として漢民族を排除、支配したわけではありません。

 五胡の北方民族が華北の漢人社会と融合していった結果、彼らの生活習慣(騎馬の風習、椅子の生活、米に代わって小麦が主食になるなど)の変化が起こり、それが現在の中国人の生活の基本につながっています。また、インドから中央ジアを経て入ってきた仏教が西域を経て五胡十六国のもとで保護(仏図澄・鳩摩羅什がその代表的な例)されたことも中国文化史を考える上で重要なことです。
  
参考 ゲルマン民族の移動との類似性  出典:世界史の窓

 中国で北方遊牧民の南下が活発となった4世紀~5世紀は、遠くヨーロッパではゲルマン民族の大移動が始まった時期と同じです。ユーラシア大陸の東西で同時に民族移動の波が起こったことは興味深いものがあります。

 また、ゲルマン民族がローマ帝国の傭兵としてその領内に移住していったのと同じように、五胡の北方民族も、東晋の八王の乱などで軍事力として用いられることによって中国内に移住していったことも同じような動きといえます。

 主な出典:世界史の窓

五胡十六国・歴史3つづく