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Now on the Silk Road   中国歴史・文化概説

匈奴単于国(歴史1)
(紀元前4世紀頃~5世紀

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次は匈奴単于国の歴史1です。

匈奴単于国(歴史1)

 匈奴(きょうど、拼音: Xiōngnú)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)です。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築きました。


出典:Wikipedia

起源

史書による起源


 史書における記述としては、『戦国策』、『山海経』、周朝の詔勅文書を集めた『逸周書』(いずれも戦国時代末期~前漢初期の成立)に匈奴の名が登場します。

 直接的な言及は、『戦国策』・燕策・燕太子丹質于秦に登場するのが最も早期のもので、仮託した記述としては、『逸周書』・王会篇・湯四方献令に殷・周の時代の初めに犬やラクダ、馬、白玉、良弓を貢献する民族という記述があります

考古学による起源

 スキタイは近年、東方起源説が有力になっています。墳墓の出土品(金製品など)から漢(中国)-匈奴(ブリャーチャ)-サルマタイ(西北カフカス)の間に交易が行われていたとされています。

 注)スキタイとは
  前6世紀から黒海北岸の草原地帯を支配したイラン系騎馬民族。前7世紀
  の後半にはすでに西南アジアや小アジアを荒し,クバン地方を中心として
  支配していたキンメリ人を征服して,南ロシアの草原に強力な支配体制を
  築き上げた。前6世紀の後半にはドナウ川下流,中流域に進出し,前 513年
  にはペルシアのダレイオス1世の遠征軍を撃退している。前4世紀には統一
  的な大王国を形成,前 339年にマケドニアのフィリッポス2世と戦ったアテア
  ス王は最も著名なスキタイ王であった。しかし前 300年以降はケルト人に圧
  迫されはじめ,前 260年頃からは東のサルマート人がドン川を渡って侵入し
  てきてその攻勢に押され,わずかの者がクリミア半島とドブルジャに避難した
  が,ローマ帝国のもとでスキタイ王国は崩壊した。馬具,武器,動物意匠
   (美術) において独特の発達をとげたが,これをスキタイ文化の3要素という。
  彼らの風俗,習慣についてはヘロドトスの『歴史』に詳しい。
  出典・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典

歴史


紀元前210年、秦帝国と匈奴(上部)。
Source:Wikimedia Commons
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戦国時代

 紀元前318年、匈奴は韓、趙、魏、燕、斉の五国とともに秦を攻撃しましたが、五国側の惨敗に終わりました。

 趙の孝成王(在位:前265年 - 前245年)の時代、将軍の李牧は代の雁門で匈奴を防ぎ、単于の軍を撃破しました。

秦の時代

 紀元前215年、秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させ、河南の地(オルドス地方)を占領して匈奴を駆逐するとともに、長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防ぎました

 単于の頭曼は始皇帝および蒙恬の存命中に中国へ侵入できなかったものの、彼らの死(前210年)によってふたたび黄河を越えて河南の地を取り戻すことができました。ある時、単于頭曼は太子である冒頓を人質として西の大国である月氏へ送りました。

 注)月氏(げっし Yue-zhi; Yüeh-chih)とは
  中央アジアで活躍した古代民族。人種的帰属は不明で,チベット人,
  トルコ人などさまざまの説がある。中国の春秋時代 (前8~5世紀) 頃
  からモンゴル高原の西半を支配していたらしく,中国の史料には「禺
  氏 (ぐうし) 」「和氏 (かし) 」などという名で記されている。秦末,漢初の
  頃から次第に勢力を増してきた匈奴の冒頓単于 (ぼくとつぜんう) に破
  られ (前 176頃) ,主力は西方に移動し (大月氏と呼ばれる) ,一部は
  南山から黄河上流域にとどまって (小月氏) ,大月氏はバクトリアおよび
  アフガニスタンの地 (バクトリア王国跡) に国家をつくった。バクトリア侵
  入の確実な年代は不明であるが,前 139~129年の間と考えられる。
  1世紀後半,その支配下にあった貴霜翕侯 (クシャンキュウコウ) クジュ
  ーラ・カドフィセースに滅ぼされた。
  出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典

 しかし、単于頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏を攻撃し、冒頓を殺させようとしました。冒頓は命からがら月氏から脱出して本国へ帰国すると、自分に忠実な者だけを集めて単于頭曼を殺害し、自ら単于の位についています。

 単于となった冒頓はさっそく東の大国である東胡に侵攻してその王を殺し、西へ転じて月氏を敗走させ、南の楼煩、白羊河南王を併合しました。さらに冒頓は楚漢戦争中の中国へも侵入し、瞬く間に大帝国を築いてゆきました。


紀元前2世紀、匈奴とその周辺国
Source:Wikimedia Commons
トムル - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる



紀元前2世紀、匈奴の最大版図とその周辺国。Xiongnu khanate=匈奴、
Chinese Han Dynasty=前漢、Greco-Bactrian Kingdom=グレコ・バクト
リア王国、Mauryan Empire=マウリヤ朝、Seleucid Empire=セレウコス朝
Source:Wikimedia Commons
英語版ウィキペディアTalessmanさん, CC 表示 3.0, リンクによる


白登山の戦い

 冒頓が北の渾庾、屈射、丁零、鬲昆、薪犁といった諸族を服属させた頃、中国では漢の劉邦が内戦を終結させて皇帝の座に就いていました。

 紀元前200年、匈奴は馬邑城の韓王信を攻撃し、降伏させることに成功しました。匈奴はそのまま太原に侵入し、晋陽に迫りました。そこへ高祖(劉邦)率いる漢軍が到着しますが、大雪と寒波に見舞われ、多くの兵が凍傷にかかりました。

 冒頓は漢軍をさらに北へ誘い込むべく偽装撤退を行うと、高祖は匈奴軍を追った挙句に白登山へ誘い込まれ、7日間包囲されました。高祖は陳平の献策により冒頓の閼氏(えんし:歴代単于の母)を動かして攻撃を思い止まらせ、その間に逃走しました。これ以降、漢は匈奴に対して毎年貢物を送る条約を結び、弱腰外交に徹します。

西域を支配下に置く

 紀元前177年、匈奴の右賢王が河南の地へ侵入し、上郡で略奪を働きました。そのため、漢の孝文帝(在位:前180年 - 前157年)は丞相の灌嬰に右賢王を撃たせました。

 白登山の一件以来、初めて匈奴に手を出した漢でしたが、その頃の単于冒頓は西方侵略に忙しく、とくに咎めることなく、むしろ匈奴側の非を認めています。この時、単于冒頓は条約を破った右賢王に敦煌付近にいた月氏を駆逐させるとともに、楼蘭、烏孫、呼掲および西域26国を匈奴の支配下に収めています。

中行説を手に入れる

 冒頓が亡くなると、息子の老上単于(在位:前174年 - 前161年)が即位しました。孝文帝は公主と貢納品を贈りますが、随行員の中に中行説もいました。

 中行説は匈奴行きを何度か固辞したが否応なく使節の列に加えられ、匈奴へ着くなり漢に背いて匈奴の単于に仕えました。中行説は老上単于の相談役となり、漢への侵攻を促しては漢帝国を苦しめました。

武帝の登場

 匈奴で軍臣単于(在位:前161年 - 前127年)が即位し、漢で景帝(在位:前156年 - 前141年)が即位。互いに友好条約を結んでは破ることを繰り返し、外交関係は不安定な状況でしたが、景帝は軍事行動を起こすことに抑制的でした。

 しかし、武帝(在位:前141年 - 前87年)が即位すると攻勢に転じ、元朔2年(前127年)になって漢は将軍の衛青に楼煩と白羊王を撃退させ、河南の地を奪取することに成功しました。

 注)武帝とは
  [前156~前87]中国、前漢第7代の皇帝。在位、前141~前87。廟号
  (びょうごう)、世宗。名は劉徹。高祖劉邦の曽孫。儒教を公認し、中央
  集権体制を強化。外征を行って領域を拡大し、東西交渉を盛んにした。
  [464~549]中国、南朝の梁(りょう)の初代皇帝。在位502~549。廟号、
  高祖。姓名は蕭衍(しょうえん)。南斉を滅ぼし、梁を建国。仏教史上で
  の黄金時代を作ったが、侯景の乱にあい、争乱の中で病没。
  出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

 元狩2年(前121年)、漢は驃騎将軍の霍去病に1万騎をつけて匈奴を攻撃させ、匈奴の休屠王を撃退します。

 つづいて合騎侯の公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山を攻撃しました。これによって匈奴は重要拠点である河西回廊を失い、渾邪王と休屠王を漢に寝返らせてしまったのです。さらに元狩4年(前119年)、伊稚斜単于(在位:前126年 - 前114年)は衛青と霍去病の遠征に遭って大敗し、漠南の地(内モンゴル)までも漢に奪われてしまいます。

 ここにおいて形勢は完全に逆転し、次の烏維単于(在位:前114年 - 前105年)の代においては漢から人質が要求されるようになりました。

 太初3年(前102年)、漢の李広利は2度目の大宛遠征で大宛を降しました。これにより、漢の西域への支配力が拡大し、匈奴の西域に対する支配力は低下していくことになります。

 その後も匈奴と漢は戦闘を交え、匈奴は漢の李陵と李広利を捕らえるも、国力で勝る漢との差は次第に開いて行きました。


匈奴単于国・歴史2つづく