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  シルクロードの今を征く

Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

ウイグル((Uyghur、歴史2)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次はウイグルの歴史2です。

ウイグル(歴史2)

突厥時代

 東ローマ帝国の史料であるテオフィラクト・シモカッタ (Theophylact Simocatta) の『歴史』にも「テュルク」として記されています。突厥は自らの言語(古テュルク語)を自らの文字(突厥文字)で記し、各地に突厥碑文を残しました。

 582年に突厥は東突厥と西突厥に分裂し、8世紀になるとウイグルがカルルクと共に突厥を滅しました。


7世紀の東西突厥(Gokturk Khaganate)。隋、吐谷渾(Tuyuhun)、サーサーン朝ペルシア。
Source:Wikimedia Commons
Talessman at en.wikipedia, CC 表示 3.0, リンクによる


中世

鉄勒の回紇部の台頭


 6世紀~7世紀の鉄勒時代には烏護,烏紇,韋紇などと記され、やがて迴紇,回紇と表記されるようになります。当時、鉄勒諸部は突厥可汗国に対し、趨勢に応じて叛服を繰り返していました。

 隋代に42部を数えた鉄勒諸部(アルタイ以西に31部・勝兵88000、以東に11部・勝兵20000)は、唐代に至ると徐々に東へ移動・集合(15部・勝兵200000)、その中でも回紇部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を薛延陀部と争いました。

 648年に部族長の吐迷度が、姪である突厥の車鼻可汗と血縁にあった親突厥の烏紇と倶羅勃に謀殺される動乱を唐の介入によって平定したため、唐の羈縻政策下に入り部族長は大イルテベル(大俟利発)・瀚海都督・左驍衛大将軍を名乗りました。

 7世紀後半に東突厥が再興すると再び屈従を余儀なくされたものの、734年に毘伽可汗(ビルゲ・カガン)が貴族に毒殺されると、内戦に陥った東突厥第二可汗国へ度々攻撃を仕掛け、741年に骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が唐との挟撃により最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して突厥可汗国を滅ぼしました。

ウイグル可汗国


820年時点の版図
Source:Wikimedia Commons
Thomas Lessman (Contact!) - self-made (For reference information, see the Map Source References section below.), CC 表示-継承 3.0, リンクによる


 744年、クトゥルグ・ボイラ(骨力裴羅)は回鶻可汗国(ウイグル可汗国、ウイグル帝国)を建国します(- 840年)。回鶻可汗国は東突厥の旧領を支配し、新たなモンゴル高原の支配者となりました。

 以後、彼ら回紇の筆頭氏族である薬羅葛(ヤグラカル)氏によって可汗位が継承されました。唐との絹馬貿易や東ローマ帝国とのシルクロード交易によって莫大な利益を上げました。また唐が安史の乱の勃発により西域の経営から手を引くと、ウイグルは西域を巡って吐蕃と数十年に渡る戦いを繰り広げました。

安史の乱

 755年、突厥出身の唐の軍人安禄山が反乱を起こし(安史の乱)、首都長安を占領します。

 粛宗 (唐)から回鶻に援軍が要請され、756年に葛勒可汗・葉護太子率いるウイグル軍と唐軍の連合軍は反撃を開始、757年11月に長安を奪回します。762年、唐の代宗が安禄山の残党史朝義を討伐するため、ブグ・カガン(牟羽可汗)に対して再度援軍を要請してきましたが、史朝義の唐侵攻の誘いに応じたブグ・カガンはウイグル軍10万を率いてゴビ砂漠を南下。ウイグル軍に遭遇した唐の使節劉清潭から、唐への侵攻を踏みと止まるよう説得されましたが拒絶しました。

 唐朝廷は震撼しますが、僕固懐恩の娘のカトゥン(可敦)がブグの皇后であったことから、僕固懐恩が娘婿であるブグを説得し、ウイグルは唐との連合を決定します。ウイグル・唐連合軍は洛陽を奪回し、史朝義は763年正月に追撃を受け自殺、8年に及ぶ安史の乱を終結させました。

ウイグル・唐・吐蕃

 789年、吐蕃軍がウイグルに服属していた白服突厥とカルルクを引き込んで北庭大都護府を襲撃、現地のウイグル・唐軍は敗北しました。ウイグル軍はモンゴリアまで撤退し、ウイグル側にいた沙陀部も吐蕃に降りましたった。

 この北庭争奪戦は792年まで続くが、最終的にウイグル軍は北庭を奪還し吐蕃に勝利しました。トルファン盆地とタリム盆地北部がウイグルの領国となりました。

 なお懐信可汗(在位:795年 - 805年)の代にマニ教が国教化され、世界史上唯一となるマニ教国家が誕生しました。

 その後も吐蕃との戦争は続きますが、821年にウイグル、吐蕃、唐の間に三国会盟が締結されました。この長慶会盟は従来、吐蕃と唐との停戦協定とされていましたが、近年、森安孝夫が敦煌文書の断片ペリオ3829番に「盟誓得使三国和好」という文言を発見した他、中国の李正宇もサンクトペテルブルクで敦煌文書断片Dx.1462に同内容の文言を発見したため、ウイグル・、吐蕃・唐の三国間協定であったとされています。

 当時のウイグル・唐・吐蕃の国境は、清水県の秦州や天水と、固原(原州)をむすぶ南北の線が、唐と吐蕃の国境線で、東西に走るゴビ砂漠が、ウイグルと吐蕃の国境でした。なお、ゴビ=アルタイ東南部のセブレイにあるセブレイ碑文が現存していますが、この碑はウイグル側が三国会盟を記念して建立したとされています。

遊牧ウイグル国家の崩壊とその後の分散

 840年、ウイグルは内乱とキルギス族の攻撃を受けて、遊牧ウイグル国家は崩壊しました。このときウイグル人はモンゴル高原から別の地域へ拡散し、唐の北方に移住した集団はのちに元代のオングートとなります。

 一部は吐蕃,安西へ逃れ、西の天山方面のカルルク(葛邏禄)へ移りました一派は、後にテュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝を建国しました。甘粛に移った一派はのちの960年、甘粛ウイグルをたてます。他の主力となる一派は、東部天山のビシュバリク(北庭)、カラシャール(焉耆)、トルファン(高昌)を制圧し、タリム盆地周辺をかかえて、西ウイグル王国(天山ウイグル王国)を建国します。

甘州ウイグル王国

 滅亡したウイグル遺民の一部は河西(現在の甘粛省)に逃れて割拠し、甘州(張掖)を中心に甘州ウイグル王国(甘州回鶻)を形成、1028年のタングートによる甘州陥落まで勢力を保ちました。

天山ウイグル


ソグド語によるマニ教典断簡(トルファン・高昌故城出土)
Source:Wikimedia Commons
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 安西に割拠した集団が天山ウイグル汗国を建国すると、定住化して「ウイグル(Uyghur)」とか「トゥグズグズ(Tughuzghuz)」などと呼ばれました。彼らは遊牧していた時代からソグド人の影響を受けマニ教を尊崇していました。

 天山ウイグル王国では、仏教、ネストリウス派キリスト教なども信仰され、高昌漢文化などを形成しました。タリム盆地に先住していた住民はこうしてウイグル化・トルコ化されました。

 10世紀以降は、西からイスラーム教が普及してきましたが、タリム盆地周辺東部では仏教が根強く、イスラム教国であるカラ・キタイ(西遼)やモンゴル帝国に服属している間や地域のイスラム化が進行しました14-16世紀のチャガタイ・ハン国の時代にも一般に仏教徒がいました。


ウイグル・歴史3つづく