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Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

ウイグル((Uyghur、歴史3)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次はウイグルの歴史3です。

ウイグル(歴史3)

12世紀:西遼への服属

 12世紀に入って、東から滅亡した遼の遺民である耶律大石が来るとウイグルは兵を提供して服属を誓い、西遼(カラ・キタイ)の建国を援けました。

モンゴル帝国時代のウイグル駙馬王家
 
 13世紀にモンゴル高原でチンギス・ハーンが勃興すると、1211年にウイグル王(イディクト)バルチュク・アルト・テギンは帰順しました。

 チンギスは彼の帰順を歓迎して息女の一人アル・アルトン(『集史』ではイル・アルタイ Īl-Altaī)を娶らせ駙馬(キュレゲン)としました。またバルチュク国王はジョチなどチンギスの4人世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重されました。

 以後のモンゴル帝国でウイグル王家は「ウイグル駙馬王家」としてコンギラト駙馬家と並ぶ、駙馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得ます

 モンゴル帝国および元朝では、ウイグル人官僚はモンゴル宮廷で重用され、帝国の経済を担当する大臣も輩出しました。この時代、ウイグル王国地域を指して「ウイグリスタン(Ūyghristān)」と呼ばれました。

近世

ジュンガル



ジュンガル
Source:Wikimedia Commons
トムル - 投稿者自身による作品, CC 表示-継承 3.0, リンクによる


ジュンガルの創世神話とウイグル創世神話

 ジュンガルの創世神話は樹木モチーフにおいてウイグル創世説話に類似しており、そのためジュンガルはウイグルの後裔ともされます。ジュンガルの首都はグルジャでした。

タランチ移民


 ジュンガルはタリム盆地周辺のオアシス住民をイリに移住させ、農耕に従事させました。これがのちにタランチ(Taranchi)という集団となります。タランチ集団はのちに1864年に清朝へ反乱を起し、さらにロシアがイリを占領後、1881年に清朝へ同地域が返還される際、報復をおそれロシア領へ移住しています。

ジュンガルと清の戦争

 1688年、ジュンガルは東モンゴリア(外モンゴル)のハルハ部に侵攻します。敗れたハルハ部のトシェート・ハーンは清の康熙帝に保護を求めました。1690年にはガルダンの甥のツェワンラブタンが反乱を起こし、イリ地方とタリム盆地を制圧して清と結びます。

 ガルダンは南へ進軍中の1690年9月、ウランプトゥン(ウラン・ブトン、遼寧省赤峰市)で清軍と衝突します(ウラン・ブトンの戦い)。ジュンガル軍はロシア製の大砲を装備していましたが決着がつかず、ガルダンは漠北へ退きました。

 1693年にはハミのダルハン=ベク、アブド=アッラーらはジュンガルの搾取を嫌い、清に接近しました。1696年、康熙帝はジュンガル親征を開始し、ガルダンをチャオモード(昭莫多)で破りました(ジョーン・モドの戦い(ロシア語版)。敗走したガルダンは1697年4月4日にアルタイ山脈北のコプトで病死しました。ガンダルの息子タンチラはハミに亡命しましたがアブド=アッラーによって捕らえられ、清に渡され、翌年ハミ地区は清の版図となりました。

 ジュンガルはツェワンラブタン統治下、ロシア経由で工業化も進めました。北方戦争でロシアの捕虜となったスウェーデン人砲兵士官ヨハン・グスタフ=レナットはイリで1732年まで軍事技術供与に携わっています。1715年、ツェワンラブタンはハミを襲撃しますが、失敗します。追撃する清軍は翌1716年、敦煌、ハミ、バリクルに屯田を開きます。

清による占領

 1755年、清の乾隆帝は康熙帝のジュンガル討伐政策を踏襲し、モンゴル軍と満州軍を動員して侵攻を開始します。1757年2月、乾隆帝はオイラート人の掃滅(絶滅)命令を発し、非戦闘員も全て捕獲、男性は殺害、婦女子はハルハ部に与えられました。1759年、ジュンガルを平定しジュンガル旧領の天山山脈北部を接収しました。

 清朝政府は、1762年、天山山脈北部にイリ将軍府を設置し、旗人による軍政を敷きました。ウイグル族の住むこの地域は清朝の支配では、イリ将軍統治下の回部として、藩部の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味するホイセ・ジェチェン(Hoise jecen、回疆)、もしくは「新しい土地」を意味するイチェ・ジェチェン(Ice jecen、新疆)と呼ばれました。

 その一方、ムスリム社会の末端行政には、在地の有力者に官職を与え、自治を行わせる「ベグ官人制」が敷かれ、在地の社会構造がそのまま温存されました。このベグ官人制は1884年の新疆省まで存続しました。こうしたペグ制度の復活については、「柔構造的支配」の現れとして、清朝が満洲人による政府であり、漢化しながらも漢民族ではない「異民族」として自らを意識したうえで、チベット・モンゴル・ウイグル(新疆)との間に「多重文明圏」を形成し、華夷秩序に基づく支配構造ではなく、むしろ対等な文明共存関係であり、「柔構造」を有していたもされます。なお、イリ将軍府は辛亥革命後に廃止されています。

 ジュンガルを継承した清朝も1760年以降イリ地方などへ強制移住(入植)を数度にわたって行っています。1764年には満洲のシベ族兵士が新疆辺境守備を命じられ移住しました。

コーカンド・ハン国


Source:Wikipedia
Source:Wikimedia Commons
Gabagool - 投稿者自身による作品, CC 表示 3.0, リンクによる


 18世紀後半からトルキスタンのフェルガナ盆地を中心にコーカンド・ハン国が台頭します。清とコーカンド・ハン国の間で、コーカンド商人に対するハン国の徴税権などを付与する条約が交わされていましたが、清はコーカンド・ハン国の敵対行為(武装蜂起の扇動など)に対して、19世紀初頭に新疆でのコーカンド・ハン国商人の活動の規制をはじめます。

ジャハーンギールとホージャ復古運動

 1814年には、カシュガル・ホージャ家のブルハーン・アッディーンの孫であるジャハーンギールが、利権確保の為にホージャ復活を掲げ、侵略を進めました。ホージャとはスーフィーのナクシュバンディー教団に由来し、17世紀頃よりタリム・ジュンガル盆地でも指導者の称号として用いられ、ジャハーンギールはアク・タグルク(白山党)のホージャでした。

 コーカンド・ハン国のムハンマド・アリー・ハーンも、ジャハンギールを支援し、カシュガル、ヤルカンド(現・新疆ウイグル自治区莎車県)を占領し、清軍を放逐しました。その後、コーカンド・清両国の交渉でコーカンドに与える権利の交換条件として反乱を煽ったジャハーンギールは逮捕されますが、1826年5月、フェルガナ盆地の地震をきっかけに脱獄し、私兵を引き連れカシュガルを拠点に、ヤルカンド、イェンギサール、ホータンを占領します。

 清はイリ将軍の長齢(チャンリン)、陝甘総督の楊遇春、山東巡撫ウルンガ(武隆阿)、拡粛提督の斉慎に鎮圧を命じ、1827年のアクスでの戦いでジャハーンギール軍は敗北、1828年にジャハーンギールは北京で道光帝に処刑されました。当初ジャハンギールを支援したコーカンド国は、前記交渉後新疆内のコーカンド人に対する権利と引き換えに手を引きました。

 ジャハーンギールの乱以降、清は禁輸政策をとる。これに対して1830年にコーカンド・ハン国はカシュガルを占領しますが、清は戦乱をおそれ、禁輸令を緩和します。

 1832年にコーカンドのムハンマド・アリー・ハーンはイリ将軍に対して、ジャハーンギールを支持した住民の恩赦、没収された財産の返還、新疆のコーカンド人に対する支配権、新疆でのコーカンド商人への徴税権の承認を求めました。道光帝は激怒するが、コーカンドの4要求のうち後の2つを認めました。

 コーカンド・ハン国は、清朝から新疆でのコーカンド商人の保護だけでなく、新疆に居住するコーカンド商人からの徴税権と新疆における交易独占権を与えられました。

 1840年からのアヘン戦争によって清が国力を衰退させると、新疆駐屯軍の経費も不足し、駐屯軍は北京政府に窮状を訴えますが、朝廷は現地でまかなえと返答するばかりでした。イリ将軍府(新疆政府)は臨時課税を行いますが、これに反発して、ムスリム住民の反乱(回民蜂起)が勃発します。

 1850年から1864年にかけて太平天国の乱が中国全土で広がりました。1856年にはアロー戦争も勃発しました。

 1852年、ジャハーンギールの子ワリー・ハンがカシュガルに侵入し、1857年には同地の占領に成功します。しかし、1850年頃よりロシアの南下がはじまり、1865年、コーカンド・ハン国はロシア軍の侵攻を受けます。事実上の支配者のアリム・クーリーが戦死し、ワリー・ハンはカシュガルのヤクブ・ベクのもとへと逃れます。


ウイグル・歴史4つづく