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  シルクロードの今を征く

Now on the Silk Road 中国歴史・文化概説

ウイグル
((Uyghur、歴史4)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月22日 更新:2019年4月~6月 更新:2020年4月1日
独立系メディア E-wave Tokyo
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本中国の歴史と文化の解説は、Wikipedia(日本語版、英語版)それに中国の百度百科を日本語に訳して使用しています。また写真は現地撮影以外に百度百科、Wikimedlia Commonsを使用しています。その他の引用に際しては、その都度引用名を記しています

 次はウイグルの歴史4です。

ウイグル(歴史4)

回民蜂起


 19世紀後半には、清朝統治に対する不満から回民(ムスリム)による中国全土での回民蜂起が発生します。

 1863年3月17日、水定鎮近郊の三道河の回民200人がイリ地方の九つの砦の一つである塔勒奇(タルチ)城を攻撃しましたが、他の砦の清軍によって鎮圧されました。

 しかし、翌1864年6月3日にはクチャの回民が蜂起し、砦を陥落させます。1864年(同治3年)6月26日にウルムチの回族妥明と索煥章らが指導して、反乱を起こします。回族蜂起軍はマナス、ウスを陥落させ、10月3日にウルムチの要塞を陥落させ、妥明は清真王と称しました。1864年6月26日には、ヤルカンドでも回族住民が蜂起しました。

イリ陥落

 陝西、甘粛で主に漢族からなるムスリムの回民が起こした反乱に乗じて、天山北路のイリ盆地ではカザフ族、キルギス族、ウズベク族が反乱を起こし、1864年11月10日に商業の中心地であるグルジャと軍事・政治の中心地の恵遠城の両方で蜂起しました。

 仏教徒のカルムイク人とシベ族は清朝側につきました。グルジャは回民の軍勢が陥落させました。恵遠城の清軍は孤立し、北京と連絡を取るにはロシアを経由せざるを得なかったのです。恵遠城の清軍は12月12日の攻撃を撃退することに成功しましたが、反乱はジュンガリアの北部に広がりました。これらの蜂起は、イリ政府の能力を超えたものでした。

 1865年正月、タルバガタイ地区チョチェクのモスクで清の役人とカルムイクの貴族が和平交渉を行おうとすると、回民の軍勢が襲撃し、2日間の戦闘の後、ムスリムがチョチェクの支配権を確立し、清軍の要塞は包囲されました。

 カルムイク人の支援で清軍は秋までにタルバガタイ地区を奪回し、鎮圧に成功します。

 清朝は反乱の鎮圧のためにロシア帝国に援助を求めましたが、ロシア政府内部では、露清関係とムスリム国家が成立した場合との双方が議論され、結局ロシアは清軍のシベリア通過と恵遠城軍への穀物の売却を認めたのみでした。

 また1865年2月、セミレチエ州駐屯軍のゲラシム・コラパコフスキーは東トルキスタンを植民地とすべきと主張しています。

 1865年4月、恵寧城がムスリム軍の攻撃を受けて、満州人・シベ族・エヴェンキからなる8千人の守備隊は全滅し、恵寧城は1866年3月3日に陥落し、明緒将軍は自殺し、イリ地方は清朝の手から離れました。

ヤクブ・ベク政権


ヤクブ・ベク
Source:Wikimedia Commons
不明 - http://netelo.livejournal.com/53357.html ; also reproduced in Kim Hodong's "Holy War in China" (2004), ISBN 0-8047-4884-5., パブリック・ドメイン, リンクによる

 注)ヤクブ・ベク
  ヤクブ・ベク(Yakub Beg、中国語: 阿古柏、1820年 - 1877年5月30日)
  は、コーカンド・ハン国出身のウズベク人軍人・指導者。イラン系のタジ
  ク人とする説もあります。清末の混乱に乗じて東トルキスタンに入り、
  タリム盆地一帯を制圧しました(ヤクブ・ベクの乱)が、清の左宗棠に討
  伐されました。ヤークーブ・ベクとも表記されます。

 1864年(同治3年)夏、カシュガルでキルギス人のシディク・ベクが回民の金相印と蜂起しました。

 翌1865年(同治4年)、コーカンド・ハン国のアリム・クリーは、ヤクブ・ベク率いる軍団を派遣し、カシュガル・ホージャ家のブズルグ・ホージャ(ワリー・ハンの弟)とともにカシュガルに入り、シディク・ベク軍を撃破しました。

 ヤクブ・ベクは1865年4月下旬のヤルカンド攻撃に失敗し、さらにクチャのラシッディーン・ホージャの軍に大敗しました。ヤクブ・ベクは軍を整え、同年9月1日、清軍が守るカシュガル漢城を攻撃しました。カシュガル弁事大臣の奎英は自殺し、何歩雲ら投降した者はイスラム教への改宗を余儀なくされました。

 1865年5月、タシケントに攻め込んできたロシア軍との戦いでコーカンド・ハン国のアリム・クリーは命を落とし、コーカンド・ハン国の兵はヤクブ・ベクに合流しました。勢力が増大し、かつイギリスやオスマン・トルコからの援助を得たヤクブ・ベクはカシュガルとホータン、アクスを占領し、クチャ以外の天山南路を支配下に置きます。

 こうしてヤクブ・ベクによって新疆の大半が清から離脱し、旧清朝領中央アジアの大半を支配するムスリム政権を樹立しまし]。

 1867年、ヤクブ・ベクはバダウレト・ハンと名乗って名実ともに支配者となります。

 1867年5月にはクチャとコルラを征服して天山南路を統一し、シャリーアに基づく統治を開始しました。ブハラ・ハン国はヤクブ・ベクに対してアタリク・ガジ(信仰の守護者)の称号を与えました。

 注)ブハラ・ハン国
  ブハラ・ハン国(ウズベク語: Buxoro Xonligi)は、16世紀初頭から20世紀
  初頭まで、ゼラフシャン川流域、ヌル・アタ山地、アム川流域に栄えた諸
  テュルク系イスラム王朝。現在のウズベキスタン、トルクメニスタン、タジ
  キスタンの一部に存在した。基本的に「ブハラに首都を置き、ハンを推戴
  する国家」の総称なので、歴史的にはシャイバーニー朝、ジャーン朝、マ
  ンギト朝(英語版)の3王朝を指す。このうちマンギト朝はハンからアミール
  へ君主号を変えたので、ブハラ・アミール国とも呼ばれる。

 19世紀半ばには中央アジアをめぐって大英帝国とロシア帝国との「グレート・ゲーム」が展開されており、すでにイギリスは1849年には英領インドを維持するためパンジャブ地方へ進出し、ロシア帝国は1853年にシルダリヤに進出していました。

 ロシア帝国は、1865年3月にタシュケント(現在のウズベキスタンの首都)へ侵攻、1867年にトルキスタン総督府を設置し、中央アジアへの進出基地としました。

 1868年にはサマルカンドを占領してブハラ・ハン国を占領します。1868年3月にはコーカンド・ハン国はロシアとの間に保護条約を締結しました。1868年、イギリスは新疆・チベット(当地方での英国の分離工作は一世期以上の長きに渡る)をロシアとインドとの緩衝地帯にする為、特使を派遣してヤクブ・ベク政権を承認し、以後ヤクブ・ベクはイギリスから武器供給を受けます。1870年、ロシアもヤクブ・ベク政権を承認しました。

 1870年((同治9年)、ヤクブ・ベク軍はトルファンを攻略して新疆東部と河西回廊の連絡を断ち、白彦虎率いる陝西省・甘粛省の回民蜂起軍の残党を吸収し、1871年末までに妥明軍を破ってウルムチ・マナス・ピチャンを占領しました。

 そのため同年にはロシアがイリ地方への進駐に踏み切りました。しかしヤクブ・ベク政権とロシアの関係は良好で、1872年には通商条約を締結して貿易を開始しました。1874年にはイギリスも通商条約を結んで、大使を交換しています。さらにオスマン帝国のスルタンのアブデュルアズィズからアミールに封ぜられ、軍事教官の派遣を受けました。

 なおロシアは1873年にはヒヴァ・ハン国を占領。1874年にはトルキスタン軍管区を設置します。ロシアの保護国になったコーカンド・ハン国で内乱が起こるとロシア軍は1876年2月19日に侵攻、コーカンド・ハン国を滅ぼしました。こうして3ハーン国をロシア帝国の保護国とし、フェルガナ盆地全域を支配下に収め、さらに1880年には遊牧集団トルクメン人をギョクテペの戦いで制圧し、トルキスタン一帯をロシア帝国の支配下に組み入れたのです。

清朝の新疆討伐


左宗棠
Source:Wikimedia Commons
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 1872年(同治11年)7月、清朝側は主戦派である左宗棠が兵を率いて蘭州に進駐し、新疆討伐への準備を開始しました。

海防・塞防論争

 しかし、1874年の日本による台湾出兵を受けて、沿海部各省は「台湾急なるを以て、西征を停解せん」と提議し、1875年(同治13年・光緒元年)、新疆出兵について朝廷内で争議(海防・塞防論争)が発生しました[。

 李鴻章ら海防派は新疆を放棄し、資金を海防に回すことを主張し、国庫を空にして西征を行うよりもイギリス人の条件をのみ、ヤクブ・ベクの独立を認め朝貢させればよいと主張しました。陸防派(塞防派)である左宗棠は、新疆を失えばかの地は必然的にイギリスかロシアの影響下に入り、中国は西北部の防御の要を失いかえってもっと多くの兵力を西北防御に費やすことになり、また新疆を失えば国威が衰え、民心を失い、諸外国はつけあがるゆえかえって海防に支障をきたすことになるだろうと主張しました。

 満州人の軍機大臣・文祥は左宗棠の建議を奏上、朝廷の摂政・西太后は左宗棠の塞防提案を裁可し、同1875年に左宗棠は新疆討伐の総司令・欽差大臣に任命され、金順を副将に、新疆討伐が決まりました。左宗棠は軍費白銀1千万両を朝廷に求め、国庫から5百万両が捻出され、諸外国から5百万両借款しました。ドイツのテルゲ商会が償還に協力したとされていまする。左宗棠は武器製造工場の蘭州製造局を設立し、外国の技術を取り入れ新型兵器の製造に成功しました。

 1876年(光緒2年)3月、左宗棠軍には湘軍の劉錦棠軍25営、張曜軍14営、徐占彪の蜀軍5営があり、これに新疆の各拠点の清軍を合わせ総数8万9000人となりました。6月に劉錦棠軍がチムサに進駐し、ウルムチ近郊のジムサルを占領しました。

 ヤクブ・ベクは清軍の進攻を聞き、馬人得・馬明・白彦虎らをウルムチなど要地に配備し、主力の2万人はトルファンとトクスンに、ヤクブ・ベクはトクスンで督戦に当たりました。8月17日、清軍はウルムチ北部米泉を制圧し、次いでウルムチを占拠し、さらにサンジ・シャヒリとフトビとマナス北城が陥落しました。11月6日にマナス南城も陥落しました。

 翌1877年(光緒3年)4月、清軍はウルムチを南下しダバンチェンの峠でヤクブ軍に壊滅的な打撃を与えました。その後達坂城を砲撃、ヤクブ・ベク軍は投降しました。清軍はトクスン、5月にはトルファンを制圧し、白彦虎はクチャへ逃亡します。ヤクブ・ベクは逃亡中の5月29日に死亡します。

 ヤクブ・ベク死後は白彦虎とヤクブ・ベクの長子ベク・クーリ・ベクが抵抗を継続するも、同年10月、清軍はクチャ、アクス、ウシュトゥルファン、11月にはカシュガルを占領し、12月下旬までに西の4城を陥落させた。1878年正月に清はイリ渓谷をのぞく新疆地方を再征服しました。ベク・クーリ・ベクと白彦虎はロシアに逃れました。この時に白彦虎に従った回民の子孫が現在のドンガン人です。

清朝の戦後処理とロシアとの交渉

 イリ地方は、1871年以来ロシアの支配下にありましたが、ロシアはクリミア戦争のため、清の進出に対抗できませんでした。

 1879年、清は9カ月にわたるロシアとの交渉の末、10月2日、黒海沿岸のリヴァディアにあるリヴァディア宮殿で十八カ条条約(リヴァディア条約)に調印しました。しかしこの条約はロシア側の意向に沿ったもので、イリ西部とイリ南部をロシアに割譲し、ハミ、トルファン、ウルムチなど7カ所にロシア領事館を設置し、さらにロシアとの免税貿易を許可するという内容でした。

 清側では朝野の議論は沸騰し、左宗棠はロシアとの開戦を主張しました。結局、外交を担当した崇厚は西太后によって死刑を宣告されますが、イギリスが清側にロシアを怒らせないようと崇厚の死刑恩赦を進言、清は恩赦するにいたります。

 ロシア側は清との戦争を準備し、軍艦を黄海へ派遣し、他方、左宗棠はイリ攻撃作戦を練ったうえで1880年4月、粛州を出発、ハミにいたり、ロシアと清の関係は緊張します。しかし、左宗棠は召還されロシアとの和平交渉が開始されます。

 1881年2月、イリ条約が締結され、清朝がザイサン湖周辺地方すなわちホルゴス河以西のイリ西部をロシアに割譲し、イリの東側は清に返還されること、また賠償金も減額されロシア側へ900万ルーブルを支払うこと、粛州とトルファンにロシア領事館を設置することで合意されました。この条約は不平等条約ではありましたが、中央アジア地域の国境が画定され、この時の国境線は現在に至っています。

新疆省設置

 イリ返還をうけて清朝は1884年に新疆省を正式に設置し、イリ地方を含めた新疆全体に中国本土並みの行政が布かれた。清が自治権を認める従来のベグ官人制を廃止したため、ウイグル人は自治権を失い直接支配下に入った[注 12]。その後1940年代半ばまで新疆省省長は当地の軍最高指揮官(督弁)を兼任した。.....後略

 注)新疆とは
  中国北西部のジュンガル (準 噶爾) 盆地を含む地方の呼称。清の
  乾隆帝時代に準,回 (中央アジアのモンゴルとウイグル) 両部を平
  定したのち,この地方を「新たに加わった領域」の意味で新疆と名づ
  けた。清代の藩部の一つ。清末のイスラム教徒の反乱を左宗棠が
  平定したのを機に光緒 10 (1884) 年省制を施行。民国になって第2
  次世界大戦中の 1944年にウイグル族やカザフ族を中心に東トルキ
  スタン共和国が樹立されたが,50年中華人民共和国に加わり,55年
  新疆ウイグル自治区となった。
  出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典


タクラマカン砂漠、崑崙山脈、天山山脈の位置


ウイグル・文化つづく