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 シルクロードの今を征く
Now on the Silk Road

 シリアの世界遺産3

パルミラ(1980年)

青山貞一 Teiichi Aoyama  池田こみち Komichi Ikeda 共編
掲載月日:2015年1月23日 更新:2019年4月~6月、2020年7月31日公表予定
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シリアの世界遺産

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 次はシリアの世界遺産3です。

◆パルミラ


出典:Wikipedia


パルミラの神々。左から、月の神アグリボル(Aglibôl)、最高神バアル・シャミン(バアルシャメン、Beelshamên)、太陽神マラクベル(Malakbêl)。1世紀ごろの浮彫、シリアの Bir Wereb, Wadi Miyah 付近で発見、ルーヴル美術館所蔵。
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Source:Wikimedia Commons

 パルミラ(英語: Palmyra)は、シリア中央部のホムス県タドモルにあるローマ帝国支配時の都市遺跡。シリアを代表する遺跡の1つです。1980年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されました。21世紀初頭までローマ様式の建造物が多数残っており、ローマ式の円形劇場や、浴場、四面門が代表的でありましたが、シリア内戦で破壊を受けました。ラテン語読みによるパルミュラとも呼ばれています。

概要

 パルミラの遺跡は、シリアの首都ダマスカスの北東、約215kmのシリア砂漠の中にあります。ユーフラテス川流域からは南西へ約120km。海抜は400mで、シリア中央部を北東方向へ伸びる山脈(Jabal Abu Rujmayn)の南麓に位置します。北から流れるワジアブオベイド川と、西から流れるワジアイド川が形成した扇状地にあるオアシスに建設されていました。

 パルミラのある東西方向の谷間は、地中海沿岸のシリアやフェニキアと、東のメソポタミアやペルシアを結ぶ交易路となっており、パルミラはシリア砂漠を横断するキャラバンにとって非常に重要な中継点でした。

 紀元前3世紀頃から多数の地下墓地が建設され、当時からアラム語で現在のアラビア語名と同じく「タドモル」 תדמר (Tadmor) と呼ばれていました。

 ナツメヤシの産地として知られたオアシス都市であり、アラム語やヘブライ語など北西セム語ではナツメヤシの実のことを תמר (tamar) といい、都市名はナツメヤシと関係があるともされます。ギリシア語でナツメヤシのことを「パルマ」ということから、ギリシア人やローマ人から「パルミラ」と呼ばれたようです。

 しかしこれとは別に、「タドモル」の語源は、「ダマール(破壊)」や、「タトモル(覆う、包む)」に関連するともいわれ、また、古代西セム語の語根である「ダムル(保護する)」から「守備隊駐屯地」によるともいわれています。

 紀元前1世紀から3世紀までは、シルクロードの中継都市として発展し、交易の関税により都市国家として繁栄しました。

 
ローマの属州となったこともあります。2世紀にペトラがローマに吸収されると、通商権を引き継ぎ絶頂期に至りました。この時期、パルミラにはローマ建築が立ち並び、アラブ人の市民は、東のペルシャ(パルティア)式と西のギリシャ・ローマ式の習慣や服装を同時に受容していました。

 「軍人皇帝時代」にパルミラ王国が成立し、270年頃に君臨したゼノビアの時代にはエジプトの一部も支配下に置いていた。しかし、ローマ皇帝ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌスは、当時分裂状態にあった帝国の再統一を目指してパルミラ攻撃を開始。273年にパルミラは陥落し、廃墟と化した。

 この後パルミラは衰え、東ローマ帝国やイスラム帝国の支配下にあった時代は街の大半が廃墟のままでした。中世には完全に放棄されたものの、現在では遺跡と同じ名のタドモル(タドムル)という新しい町がすぐ横に建設されています。

歴史

 パルミラの近くからは、約7万5000年前の旧石器時代の石器が発見されています。

 
ユーフラテス河畔のマリ遺跡で発掘された紀元前2000年代頃の粘土板からも、この都市の名前(Tadmor、または Tadmur、または Tudmur)と思われる記述が見つかっています。

 旧約聖書の『歴代誌第二』8章4節では、古代イスラエルの国王ソロモンが荒れ野に「タドモル」の街を築いたと記されています。『列王記第一』の9章18節でも、ソロモンが築いた街や基地の中に「תמר」(タモル Tamor またはタマル Tamar)の名がみられますが、伝統的にこの部分は「タドモル」と読むことになっており、タルムードやミドラーシュの冊子にある注釈のいくつかでは、この街をシリア砂漠にあると記しています。

 フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』第8巻においても、タドモルはソロモンが創建したと書かれ、ギリシア語のパルミラの名も併記されています。現代ヘブライ語においてもパルミラはタドモルと呼ばれます。

 タドモル(パルミラ)の人々はアラブ人でしたが、アラム語の方言(パルミラ語)を話し、アラム文字を手直しした独自の文字(パルミラ文字)を用いていました。パルミラ文字は今も遺跡の各所に残ります。

セレウコス朝からローマ時代

 アケメネス朝ペルシャから覇権を奪い取ったマケドニア王国のアレクサンドロス大王が紀元前323年に没すると、ディアドコイ戦争と呼ばれる後継者争いが勃発しました。

 セレウコス朝がシリアを奪った際、パルミラの街は自治に委ねられ、後には独立した。紀元前1世紀にはパルティアと共和政ローマの間の緩衝国として独立を維持し、キャラバンの中継地として繁栄を謳歌しました。

 紀元前41年にローマの将軍マルクス・アントニウスがパルミラを征服しようとしましたが、パルミラ人はローマ軍接近の情報を得てユーフラテス川の対岸方面に逃げたため失敗しました。これは当時、まだパルミラが貴重品をすぐに持って逃げられるような、遊牧民の宿営ほどの規模であったことを示します。

 一方、当時のパルミラ商人はイタリア海域に船を所有し、インド産の絹の貿易を支配していたとされます。

 皇帝ティベリウス(在位14 - 37年)の時代、パルミラはローマ帝国のシリア属州の一部となりました。106年に南にあるペトラを都とするナバテア王国がローマに征服されるとその通商権はパルミラに移り、ローマ帝国と東方のペルシア、インド、中国とを結ぶ重要性はこの時期増して行きました。

 129年、ローマの拡大路線を転換した皇帝ハドリアヌスは視察巡幸の途中にパルミラを訪れました。その魅力にとりこにされたハドリアヌスはパルミラに自由都市の資格を与え、パルミラ・ハドリアナ(Palmyra Hadriana, ハドリアナパルミラ〈ハドリアヌスのパルミラの意〉[6])と改名しました。


世界遺産3-2つづく